観察者は起こる。やってきている。
観察者は観察されるものとともにやって来ている。自我と自我を見る者はやってきている。
もしくは、それら分離である両者は起こっている。
自我も、「自我を観察しているところの、自我の観察者という自我」も、起こっているものである。
この分離状態である両者はともに「意識の座」にやってきているものであり、同一のものである。
自我の観察者は観察されるものでもあり、真実は両者は分離しておらず、それらはともに思考である。
自我の観察者も、観察者によって観察される自我も、それらはともに思考の記憶の働きである。
その思考の記憶そのものが「観察者と観察されるものという分離」であり、両者は同じ、思考の記憶の裏表である。
自我であるあるがままの自分の姿を見て、何とか良くしようと努力するその自分も、同じ思考の記憶の働きなのである。
この意味合いでは自己改善や、自己観察や、内省や、自省も、同じ思考の働きであり、動機と目的を持っているものであり
「思考なく見る事」とは全くの正反対の異なる事である。それらの自己観察ではかえって自我を強める結果となるのである。
思考による観察・・それらは、ともに「意識の座」という鏡に、やってきて起こっているものである。
それらは『「意識の座」であり、鏡である私』では決してない。
自我を観察しているものは「意識の座の私」ではない。
「意識の座の私」は観察しているのではなくて、限りなく愛している私なのである。
観察者とは観察されているものであり。観察している「私」は観察されているものである。
自我の働きを観察している観察者とは、自我そのものであり、それらは同一の思考の記憶の両側面である
その「観察者と観察されるものという分離」は、鏡である「意識の座」に現れているものであるに過ぎない。
その観察者と観察されるものの分離とは熟睡Cの前の段階のものBである。
この日中の肉眼で見ている日常の覚醒状態の意識@と
夢を見ている記憶から見ている夢見の意識状態Aと
熟睡の意識状態Cの
中間の段階に、
この観察者と観察されるものの分離の意識状態Bが存在している
そして、これらのそれぞれの意識状態が私達の人生の中で繰り返し繰り返し交互に立ち現れてきている。
毎日の平凡な暮らしの中で、繰り返し繰り返えし、立ち現れてきているこの意識状態の変化が
それがそのままに
私達の一生の人生での繰り返しと同じである。輪廻と同じである。
誕生しては死亡し、そして又、生まれ変わるこのバルドの輪である。このバルドの鎖である。
これが毎日の平凡な暮らしの中で繰り返されている。
この日中の意識状態と、夢見の意識状態と、観察者と観察されるものの分離の意識状態と、熟睡の意識状態は
毎日、繰り返されているのである。
それらの無明である意識状態が、鏡であり、「意識の座」である私たちの心の中に入れ替わり立ち替わり、
現れては消え、消えては現れている。
けれども、決してこの「意識の座」そのものである「心の鏡」は、それらによっては失われることはない。
意識そのものであるからである、「意識の座」である魂だからである。
毎日の繰り返えされている、日中の覚醒状態と、夢見状態と、自我と自我自身の観察者の分離葛藤状態と、熟睡状態などに
左右されることなく生命が続き、熟睡しても、意識の座は決して失われることがなく続いているのである。
これらの意識状態が「意識そのものである魂」を覆っているのである。スクリーンに上映され続けているのである。
私達自身であり、この「意識の座」である、心の鏡とはこれらの四つの意識状態によっては決して失われることがないのである。
というよりは
この意識の座である魂という心の鏡が厳然としてこれらの輪廻のバドルに左右されることなく実在しているからこそ
これらの、物質界の目と、アストラル界の目と、メンタル界の目と、スピリチュアル界の目は実存していることができている。
幾重にも重なっている次元の目であるところのこれらの色眼鏡の目を通じて私たちは対象を分離して見ている訳である。
その自分自身であると思われている目でもって、「投影されている自我」を見ている・・・
が、それらを分離して見ているその目とは、それは私達自身の目ではなくて「投影されている私もどきの目」であるに過ぎない。
そしてその引き起こされている「自我である観察者」が、同じものである「自我である観察される自我」を、分離して対象
として見ているのである。しかしそれは思考なく見ている真実の目ではない。
観察している私と、観察されている私とは全く同一の私であるにもかかわらず、分離していると錯覚しているのは
魂の私、即ち幾重にも重なっている次元の異なる私という色眼鏡をつけている「魂の私」が勘違いをしているからなのである。
熟睡の私も、自我である観察者と観察されるものに分離した記憶の私も、バドル界の夢見の私も、そしてこの物質界の
肉体の頭脳の目である私も
この「魂の私」・「鏡の私」と言われている「意識の座」に、やってきては去っているものであるに過ぎないのである。
「それらの私」は、やってきている私であり、起こっている私である。
それらの私とは決して、それらが映し出されているスクリーンそのものである「意識の座」や「鏡である私」という魂の私ではない。
それらの私とは、鏡であり「意識の座」である私の前に、やって来ては去る私、川に流れる流木の様に来ては去る私である
意識の座も、心自体である鏡とは、自我でも、思考でも、夢を見ているものでも、観察者や観察されている私でもない。
とそのように言われている
私達とは鏡そのものであり、「意識の座」そのものであり、決して思考ではなく、思考の記憶の反応ではない。
内省や反省や自省や自己観察という思考の働きをしている私ではない。
私とは、「意識の座」に映し出されている「自我という観察者や観察されるものという分離している思考の私」ではない。