戻る





私は私を愛している





非顕現の神我であり、

その「全体であり、分離できない部分でもある」真我という純粋意識の

肉体に降下している接点が観照者と言われている魂である。


この魂が肉体に降下し、受肉した際に魂から開陳されたのが諸体等でもある

それが現在のパーソナリティー(自我)であると言われている。



この現在のパーソナリティーという思考体と感情体(アストラル体とメンタル体)等である自我が

脳内での生起し、去来している思考や感情や身体をみて

自分とは肉体であり、自分の思考だ、自分の感情だ、自分が行為している、

従って自分は他人とは異なっている個人であり、人格であると思い込んでいる。


この肉体を私だと思い込んでいる私、それが現在のパーソナリティー(自我)である。

その現在のパーソナリティーとはメンタル体やアストラル体という諸体などの状態でもあり

脳内の現在意識においては現在のパーソナリティーの意識は現在意識というよりも潜在意識的

に作動している。

現在意識領域では自我は隠れた動機であり

人格や動物魂の意識が表面意識の大きな割合を占めている。




この魂から派生している現在のパーソナリティーの自我意識が身体の

脳において邂逅している(または脳や身体に於いて受信され、生起してきている

去来している心・マインド即ち)その分離した心に対して、

それらが自分自身の心だと反応してしまっている。

その自我の反応の蓄積した記憶が人格と呼ばれており

その人格が今回の人生で育った特定の名前を持った個人である。

このシステムが人格や個人を生み出している訳であり

脳にて受信されている心こそが、根源からの映像であり、投影されている人生劇場であるともいえる



この起こっている心・マインドをみた「魂からの現在のパーソナリティーの私」から生だしたもの

それが人格であるからして

この人格とは「通常の私」と言われている自己意識を持っている私のことである

母親から生まれ幼児から少年少女期を経て青年に成長する個人という記憶である私・人格・・

だが通常では、その人格の私が私だと思われているが、その私とは全くの「観念にすぎない私」である

その観念である人格の私とは、現在のパーソナリティーの私を構成する一部である。

その人格の私が自我なのではない。自我とはもっと背後にいて動機や目的を持っている潜んでいる私である



この人格=「観念の私」とは即ち、仮面の私であり、通常はこの仮面の私を現在の私と間違って

思われている

この人格の私、それは現在のパーソナリティーが接点している脳に去来するマインドへの反応

の結果であり、

この現在のパーソナリティー・自我の記憶が集積した私という意識体である

その「記憶」の蓄積が個人、人格と言われている、所謂人生を歩んでいる表面の「私」である

それが「観念の私」である。




では輪廻転生をしているのは、どの私なのか?

輪廻しているのは、この現在のパーソナリティーの「記憶」である人格なのか?

それとも、その「記憶である人格」を自分だと信じている現在のパーソナリティー・自我なのであろうか?



輪廻転生しているのは、この人格や個人といわれる今回の人生の記憶の蓄積である「観念の私」ではない

何故なら、臨終に際しては、その「人格の私」は、現在のパーソナリティーである構成体に吸収されてしまうから

であり

また現在のパーソナリティーを構成している思考体や感情体も原因体を通じて魂に順次集約される。と言われる



現在の私が肉体から離れる際、魂として生命である息と共に、離れ去るのである

すなわち、諸体を伴って肉体から息を引き取るとき肉体とエーテル複体は後にされ火葬される

受信器であり、言語器官である肉体の頭脳から現在のパーソナリティーである感覚器官や思考器官は

魂と息に伴われて離れ去っていく。

言語器官の肉体の脳は灰に帰するが、人格の私や諸体の脳は現在のパーソナリティーのエッセンス

とその人生での成果とともに原因体と魂へと収束されていき

アストラル体もメンタル体も分解され根源に戻っていく

現在のパーソナリティーは原因体に吸収され

その原因体は魂へと戻り、一旦、その魂は真我と神の光に触れるのである


これが死後、一瞬で一生の人生を「相手側にたって自分自身として経験する」・リバックという現象を

体験することであり。肉体の死後、魂が本当の「神聖で崇高なる死」を経験しているわけである

現在のパーソナリティーが魂に収束されて、魂が

自分の本当の私である真我である神の光に触れて、真我を経験することである、愛である真我に癒され

ることである


そのようにして現在のパーソナリティーは原因素子に収束され、今回の人生の記憶は魂の高次情報

として記録される

そして主・あるじを失った今までの現在のパーソナリティーを構成していたアストラル体やメンタル体は分解される

現在のパーソナリティーのエッセンスだけが魂に原因素子として継続していく、転生していく。



そういうことであるので、再生するのは生命である魂であり、人格や現在のパーソナリティーではない。

それは、魂が輪廻し生き続けているのであり、現在のパーソナリティーではない


現在のパーソナリティーは次回の転生に肉体を得たとき魂から開陳されてくる私である



であるから私たちが私といえるのは現在のパーソナリティーを観照している魂であり

この魂と「魂の状態」なのである。



真我から降下した魂と、この「魂の状態」が輪廻している本体である。



その「魂の状態」とは各体のチャクラとクンダリーニの状態である

けれどもシャンカラはこの魂と「魂の状態」さえ「統覚機能」と表現し私ではない

「私とはそれであり」「あなたはそれである」「あなたはすべての私である」と言っている



そういうことであるから魂が次の肉体を得たとき、魂から諸体を伴って現在のパーソナリティーが

展開される

これが自我の出現である。

そしてこの自我が通常の日中の肉体の脳の意識に触れるのである




それゆえにこの自我ではない人格という「観念の私」とは、全く以て現在のパーソナリティー

でもなく、魂の私でもない。

魂の私ではない私とは何を指しているのだろうか


それは

肉体としての肉体である私

この観念であり記憶である人格の私、

独自の進化を肉体で続けている地球魂である動物魂の私

自我である現在のパーソナリティーの私、であり

これらの私がこの肉体に同居して「現在の意識」を構成しているのが

現在のパーソナリティーのすがたである







現在の私である自我が本当に私といえる魂の私に、そして魂の内奥の真我に一つになるためには


真の私に目を向けて、真の私の方へと歩まなければならない

それらの多くの私たちは、真我によって既に愛されていることを知り、

自身の内奥の真我へと透明化していかなければならない、

それらの多くの私と、諸体の私が透明化し、純粋化しなければ魂の内奥へと統合されない


多くの私は純粋化し、透明化することによってのみ魂の私と同調できるようになり、その諸体の波動

が高まっていくのである。それが透明化すること、純粋化することである。

諸体が透明化することにより、諸体の波動が高まることでもある

それが魂の内奥に注意をむけることである




それ故に、私というこれらの私が真の私を愛すべきであり、与えられている真実の愛に気がつくべきである

「真の私という私」は「これらの私たち」を愛しているという現実に気がつかなければならない

なぜなら真の私とは愛そのものであり、全体であり、すべてであり、この私たちを限りなく愛して

いるからである。