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関係性を成り立たせているもの


関係性というと何のことかさっぱりわからないだろうが、

関係性とは私とあなたという二元の関係性のことである、この関係性とはあなたとだけではなくて

私と環境、私と家族、私と経済、私と肉体、私と思考や、私と感情などの関係のことである


夫婦や親子や友人の関係性では、お互いが合わせ鏡になっており、お互いがお互いを映す鏡となっている

この鏡によって映し出されている私や、あなたは、関係性という観念によって生み出された「仮の主体」であるから

決して真の主体ではない、真の主体とは関係性を持たないものであるからである

それゆえに関係性を持っているものは真の主体ではないといわれる


自己の現在のパーソナリティーを構成しているところの一部分である人格などは、関係性がある限り

夫は妻に、妻は夫に、親は子に、子は親に、部下は上司に、上司は部下に、それぞれがそれぞれに映される

立ち向かう人の心は鏡として、現れているのは、本当の主体ではなくて、それぞれの現在のパーソナリティー

であり、その記憶部分であるところの人格であるといえる


それゆえに、この「二元の関係性を生み出している観念」がない領域では、自由があり、他と分離している

虚構の私は存在していないと言われる、本当の主体が現存していると


クリシュナムルティーは、この関係性が成立しているのは観念の領域であるといっている

それと、同じ文脈で

真の行為があるのは自由があるときだけであり、この自由があるときには観念はない

すなわち、観念があるところには行為はなく、条件付けられている行動だけがあるといっている

そしてその観念による行動とは、「獄舎のなかの自由なのである」といわれている

行為とは、自由がある領域でのみ可能なのであり、観念の領域では行為と思い込んでいる、または自由意志に

基づく自由だと信じている行為とは「獄舎内行動」でしかないのであるといわれている

それは脳やDNAの設計図という条件付けの範囲内で行動する、条件反射の行動でしかないといわれる

そして、その獄舎内条件反射行動をしているものが人格である個人であり

その個人を私だと思い込んでしまったのが魂と、その派生している現在のパーソナリティーである





では観念という言葉でクリシュナムルティーは何を指していたのであろうか?


関係性というのは、自分とその対象が分離している二元の状態でのみ、成り立つ事柄であるからして

自分と他人、自分と外国人、自分と成績、自分と収入、自分と家柄、自分と肉体、自分と思想、自分と信念、自分と経済など

これらはすべてが関係性から成り立っており、その関係性とは「観念」の特性である

これらは自と他が分離しているという観念があるが故に成り立っている事柄なのである

この「他と分離している私という観念」がなければ、はじめからここにあったもの、すなわち非二元だけがあることだろう


ここで彼が言っている「観念」とは「主体と客体は別々のものであるという思考」であり、「二元性の観念」であり

それは畢竟、「虚構の思考」であり、虚構である「二元性の観念」に過ぎない、と言っているのである


この観念とは

「見るものは見られるものではない」と「実感している観念」であり、それは畢竟「分離している私という思考」の事である

この「虚構の観念」が魂を覆っている



この「分離している私という観念」は、シャンカラによれば、それは「現実ではない非現実の虚構の観念」だと言うことである

本当の現実とは「見るものは見られるものである」であるのに、「見るものは見られるものではないという観念」に

魂が覆われているので、クリシュナムルティーは肉体を去るまで「見るものは見られるものである」と言い続けたのである



であるので、関係性とは「見るものは見られるものではないという観念」があるが故に成立している事柄であると言われている

もし、この「二元の分離している観念」が欠落していれば、関係性はないことであろうし

私とあなたの二元分離が引き起こしている醜悪なドラマもないことであろうし、テロや宗教戦争も、葛藤もないことであろう

エデンの楽園に戻っていることであろう


ではこの関係性を成立させている観念とは如何なるものであろうか

それは「結局は悟らないかもしれないという恐怖」であり、「神と分離しているという実感」であり、「他と分離

している『私』という観念」である

それは聖書にあるエデンの園にある「知恵の木のリンゴ」のことであろう


その「他と分離している『私』という観念」が魂を覆っているのである、現象界を覆っているのである

人格や個人とは、この二元の根本の「他と分離している私という観念」に、魂と現在のパーソナリティーが触れた

結果生み出された記憶なのである(しかし記憶が機能し、成立していられるのは、現象界を成立されている

同じ根源が、この記憶を支えておられるからである)



「他と分離している『私』という観念」によって、頭脳は覆われている。

全世界の全人類が同じように覆われている。

それは有機体の消滅後のバルド界においても続いている


それが故に、真実は、どこにもあなたと分離しているわたしなどはいないのに、その「分離した『私』という観念」ゆえに

「その分離した『私』という観念」が肉体を見て思ったのである・・・私は肉体であり、私は他人とは違っている分離している個人だと・・

そして「自分は肉体であり、他と分離しているという私」だと・・

すなわち個人・人格が発生したのである


この「肉体を私だと思っている個人・人格」ゆえに争いが起こり、宗教が起こり、葛藤が起こり、暴力と、憎しみと、嫉妬と、闘いなど

などが生じている



魂も、魂からの発出している現在のパーソナリティーも、全く以てこの「他と分離している『私』という観念」に触れたことによって

この「他と分離している『私』という観念」から生み出された人格・個人を自分であると信じ込んでしまっている


自分とは真我からきているのに魂であるのに、この「他と分離している私という観念」が生み出した人格を自分であると

信じ込んで、葛藤と悲しみと苦しみの中に、すなわち関係性の中にのたうち回っており、そこから脱出しようと藻掻いている・・・

けれども、肉体は私ではなく、その人格である私は私ではなく、その人格の関係性で現されている個人である私も同じく私ではない

それらの私とは「他と分離している『私』という観念」が肉体に触れた果として生み出された人格・個人であるに過ぎないのだ・・・・と


魂である私とは、その「他と分離している『私』という観念」が生み出してる人格や個人ではない。

それゆえに魂の内奥の私はこの観念の私を愛するのである。私は私を愛するのである

魂の内奥の私には分離がなく「見るものは見られるものである」であるからである、と言われる