受容と拒絶について
※今回掲載の「受容と拒絶について」の私の言葉はさも悟った人の言葉のようであるが、実際のその境位の方々の真実の言葉と
私のような、観念での理解(実際は誤解だが)の違いは、文章や、講話や、会話では、同じ表現なので真偽がわからないのである。
全く、真実のことを同じように話していても、その話している人がその段階ではなければ、それはその真実の言葉を、真理そのものを
汚してしまうことになってしまうであろう。
それは聖書を根本にしているキリスト教やイスラム教などの宗教戦争を見てもわかるとおりである。「汝の敵を愛し、上着を
奪うものには下着をも与えよ」のキリストの言葉を、実際にはキリスト教の信仰者で何人が実行できたのでのであろうか?
過去の歴史を見ても、キリスト教の流布のためにと称して行われた「キリストの言葉に背く殺戮」が、聖書の元で行われた事は何を
示しているのであろうか。
真我や真理や究極の真実は言葉や教えや観念では決して伝わらないし、理解もできない。聞いただけではだめなのである。
ラメッシたちや色即是空の著者も「如是我聞」で始まっている。けれども、真理とは「私はそのように聞きました」では、真理を
表現していない。
自分自身の言葉、自分自身の実際の知覚(第10感覚)での状態から話さなければ、彼が聞いたことを、そのまま話すと言うこと、
彼の伝える真実の言葉そのものが、それは全くの観念でしかなく、その真理は虚偽となってしまうのである。
真理とは、その真理を語る人がその同じレベルでなければ決して理解出来ない事柄であるからである。
真理とはそのような事柄であり、それは、私・久保栄治が、それらの真理を学んで記憶しているので、観念としてさも聖者のように
以下の様に「受容と拒絶について」話したり書いたりができるのであるが、私の語る言葉は、単なる言葉であって真理ではないの
とおなじで、真理ではないものが真理を語ると虚偽になるのである。真理は言葉ではなくて、言葉は単なる媒介であるからである。
そのような真理の伝達や、言葉だけならば、パソコンが最高に上手くできるであろう。
けれどもその同じ真理がパソコンや私が言ったのでは「虚偽」となってしまうのである。伝わるものが真理ではないからである。
その言葉以外の伝わるものこそが実際の振動数であり、言葉を超え、五感にかからないが知覚されることのある実体なのである。
誰が真実で悟っているのかは、実際に自分が悟っていない限りはわからないのと同じように、真理は真理で在る人、その真理と同じ
次元、同じ実存、同じ振動数でなければ、真理を体現していない人がいくら真理を語っても虚偽となってしまうのである。
なぜならパソコンがいくら真理を語っても真理を理解していないからである。久保栄治がいくら真理を語っても真理を正しく理解出来る様な
真理の次元で無い限りは、その語っている行間から久保栄治の現在の実存レベルの振動数が流れ出してしまうのである。
久保栄治の場合は、真我も真理も知識でしかないので、私の語っている、「真理?!」とは、その真理の言葉から、真理ではない私・久
保栄治の現在の波動や振動数が伝わってしまうのである。
では、真理を録音したり、知識として、聖典として情報として伝えられるであろうか?否である。真理を指し示すことは真理の情報である以上は
書物や言葉でも可能であろうが、理解は自らが真理でない限り、できないのである。それは過去の宗教戦争の歴史を見れば一目瞭然である。
キリストの言葉を口に唱えながら、そして神の言葉を口に復唱しながらテロとその報復殺戮を繰り返しているのである。
なぜこの過ちが現在も続いているのか?
それは、真理を知識や情報と解釈したからである。真実や真理は言葉や知識や思考として伝達が可能なものではないので、真実や真理を理解
するためには、自分が即ち現在のパーソナリティーの状態がその真理や真実を理解出来る同じ振動数と次元でなければならない必要があるのである。
真理の究極の知識は、自分がその真理と同じ次元でないかぎりは受け取れないからなのである。
ラーマクリシュナやシャンカラやキリストや仏陀や老子の言葉を理解するためには、自分がその次元でなければならないのである。にもかかわらず
それを、知識や情報で伝わることができるかのように信じている人類に於いては、常に真理とは伝えて流布できるという誤った考えが存在している。
真理や真我や真実は本で伝えることができて、哲学や思想などの観念や記憶での理解が理解だと思い込んでいるからである。
けれども本や知識とは、単に指し示すことができるのみである。本や知識で伝えることが可能なのは思考や観念と同じの次元のレベルであり
真理という超次元の真実は、言葉や思考や情報の次元ではないから、言葉や思考や情報では表現もできず、伝達もできない。
それ故に、真理や真実の言葉が、述べられたり、聞かれたりしても決して、それを理解出来ず、必ずそれを自分のレベルで解釈するために
誤解するのである。
真理とは般若心経の著者のように、仏陀からの言葉を聴覚器官で聞いた「如是我聞」では、その著者が理解していないのであるなら間違って
解釈して、誤解してしまっているのである。
ラメッシたちの観念の次元で、究極の真実在のことを言語で述べたところで、それはラメッシたちが観念レベルであるなら、ラメッシたちから
流れている実際の実体は観念の次元内のことでしかなく、いくら彼らが真理を言葉や観念で指し示していても、それを読んでいる読者が、
それを血や肉として理解することは、読者自身の責任なのである。読者自身のレベル、次元が決めるのである。
ラメッシたちの語っている言葉は真実であっても、それがかれの観念として出てきている以上は、彼らの行間から流れているものが彼らの
実存の理解レベル、話している彼らのいる次元が何処であるのかが最大の問題点なのである。従ってラメッシは観念で話している以上は理解
できていない。
真理は思考や概念や哲学の次元にはないからである。
真理を語る本人の現実の次元レベルがその真理と同じ次元で無い限りは、私・久保栄治が語る真理の言葉はそういう意味で嘘をついて
いるように、真理を語れば語るほど嘘をついていることになるのである。
では、真我や真理や真実は体験できるのであろうか?
現在の意識と知覚が完全に変容を遂げず、現在のパーソナリティーが、その次元でとどまっている状態で、真理を体験できるのであろうか?
ある種の体系によっての変成意識状態や、集中による脳内麻薬の効果、薬物による変性意識、暗示や催眠による体験、等は確かに体験を
垂らすことであろうし、その体験から私は覚醒した、解脱した、到達したと思い込むことであろう。
そして、その体験は強烈な信念や信仰となることであろう。自分は知っている、自分が到達したと、思い込むことだろう
しかし、それは決して自己変革や真の理解ではないことは、一番その体験した本人がわかることであろう。なぜわかるのであろうか?
手を胸に当てればすぐにわかることであるが「ハートに愛が溢れていない」からである。
いくら体験をしても、その覚醒体験が嘘であることは、体験した当のご本人の実存状態が「愛に溢れていない」から、この体験は嘘であり、
単なる変性意識や恍惚意識にしかすぎないことである事が、自らに暴露される。
そのご本人の心に、自ら輝いている至高の意識が輝いていないからである。
脳の変革や、外部からの力では、現在のパーソナリティーの状態を変えることができない。唯一現在のパーソナリティーを変える事ができるのは
現在のパーソナリティーそのものである魂であり、その魂の内奥が輝かない限りは変容は起こらないのである。
ラーマクリシュナたちの真実の言葉を理解するためには、自らが実際に彼らと同じ次元でなければならず、それは私たちの内側のハートから愛が
溢れていなければならない。決してラーマクリシュナたちの聖者の言葉を記憶しているだけでは、その真理を理解はできない。
私たちが内奥で真実の私と繋がって、その真実の私と一つであるとき、私たちのハートから愛が、溢れ出し、ラーマクリシュナたちの聖者の言葉を
ハートから理解出来るであろう。それは私たちの故ではなくて、ハートの内奥の至高の意識が輝きだしたゆえなのである。
そしてそのとき、単なる記憶や観念ではなくて、自分自身として、それらの言葉を自らの言葉として述べることができる事であろう
もちろん私、久保栄治はその段階ではないし、私の実存は全くもってその次元ではない。
将来、私が進んでいく時に、次元の扉が開いて、少しだけ上位の高次の知覚が解放されて、その高次の知覚と認識が現れ出すことであろう。
そして私はそれに吃驚して、自分は悟った!、真実で究極の体験をしたと必ず思い込むことだろう。
また物質界を離れてアストラル界という三千世界での体験ですら、自分にとっては全くの未経験であり、未知なことであるので、
そこでの目も眩むような神々しい体験を、自分は悟ったんだ!と錯覚することであろう。
それはちょうど薬物の体験や、外部の力による脳内体験、チャネルやオーバーシャドウに拠る神秘体験を覚醒体験と取り違えてしまうように、
きっと私も、同じように初めての初体験を最終体験と取り違え、自分はついに到達したと思い込んだり
自分はいい線まで往っている、真我を実現した!と、その初歩段階の次元の知覚や体験をそのように思い込んでしまうことだろう。
けれども、必ず、本物は内側から、魂の内奥から導くであろう、本当の私が自らの軌道を修正させて下さり、真実への私へと誘導してくださる
ことであろう。
唯一の真実の導き手であり、指導者は魂の内奥の真我であるし、真我しかないのである。
以上の観点から、以下の「受容と拒絶について」の私の文章を見るとき、それは真理とは決して言葉や知識や如是我聞では理解出来ない事
を実感されることであろう。私・久保栄治は理解していないからである。
受容も、「受容することなく拒否すること」も、起きていることなのではないだろうか?
果たして、結果であることを拒否できるのだろうか?
拒否していることすらも、結果なのではないだろうか?
観察している観察者とは起こっている結果なのであり、その観察者には受容したり、拒否したりはできない。
その受容したり、拒否したりしている観察者も起きているものであるからである。
思考を観察し、自我や、欲望を観察しているその観察者が
その観察者自体のことを受容したり、拒絶したりはできない、
観察者によって観察されるものも、観察する観察者も、それらはともに起きているからである。
観察者は根源が使用している道具であると言われているのだ。
出来事や、迫り来る運命に対して、喜んだり、悲しんだり、受容したり、拒絶したりして、
はたまた高慢になったり、卑下したりする、その「私」を受容したり、拒絶したりすることはできない、
それらのことはともに起きていることだからである。
その迫り来る運命も、出来事も、
それを受容したり、拒絶したりしている「私」同様に、
それは起きている事柄であるからである。
受容や拒絶をしている私とは、結果である事柄にすぎない。この私とは結果なのだ。
観察者である私も、
出来事も、運命も、カルマも、思考や、感情や、また欲望も、
それらは、信仰や、信念や、経験と、同じように、来ては、また去っていく。
肉体の状態・状況も、容姿も、頭脳の良し悪しや、条件付けも、そして才能も、性格の良さも、悪さも
何処の国の、どの親に、どのような環境で、どのような肉体で、どのような頭脳と才能を持って生まれ、
そして愛し、愛され、出会い、別れ、学び、失い、健康になり、病気になり、そしてどのようにして死ぬのかということも
起こっている。
世界人類の万人が共通の視覚・聴覚などの五感、頭脳と諸体がもたらす知覚、そしてその知覚の認識も
その特定の個人のカルマがもたらしている結果も、運命も、出来事も、起こってくる運命や状況も
それらのこと全て、
そして、それらのことに真剣に取り組み、改善し、良くしようと努力している「私」も
さらには、ものごとの原因と結果を思案し、考え抜いている「私」も、
そして、それらをじっと観察している観察者も起こっている事柄ではないか。
知覚と、経験と、認識の中核である「他と分離している主体である私」、
一切の対象のことを、自分と分離しているものとして捉えている主体である観察者
五感や六感を経由して、対象を内部と外部に知覚し、こころと、思考と、想念と、感情と、記憶でもって、認識している「私」
それらすべての私の事を、全て私であるとして暖かく愛し続けていない主体である観察者の「私」とは結果にしか過ぎない。
上記のそれらの結果である私を、受容し拒絶することこそが、
上記の起こっている事と同じように起きていることなのではないだろうか。
内部と外部に分割し、その内部と外部を分離して知覚し認識している私、
さらにその分離している私が、知覚している思考であるところの観察者や
その観察者が分離知覚している思考や記憶や欲望も願望も
起こってしまっている結果であるに過ぎないのではないだろうか。
ラーマクリシュナの言うように、それらの私とは、根源の演じている演技なのではないだろうか?
この五感も、空間認識も、時間認識も、知覚も、
頭脳や、その条件付けも、才能や、運命や、出来事と同じように起こっていることなのである。
またそれらを観察している観察者も、即ち分離した主体である「自己」も、起こっていることの結果なのである。
結果は原因に対してとやかく言うことはできない。
私達とは結果なのであり、根源が演じている演技そのものなのであるからである。
思考や感情や記憶を持って運命と出来事に立ち向かっている個人・個我とは、その演劇中の役柄である。
なぜならこの分離した私とは思考であり、マインドであり、主体と客体に分離してしか見る事のない観察者に過ぎないからである。
この観察者が自分が行為していると言っているのだ
けれども実際に、行為しているのは根源であり、生きておられるのは根源である。
私達は演じさせられているのに過ぎないのに、
それにも拘わらず、自分が行為している、自分が自由意志でもって出来事を起こしていると錯覚している。
運命は、自分が切り開くものだと、分離思考で考えている。
実際には、出来事も、カルマも、運命も、自我も、観察者も、畢竟、それらは起こってしまっていることなのに。
至ろうとして、藻掻くことも、実現しようとして努力することも「私」がしているのではない、起きているのである。
そして、それらのことを動機なく、目的なく、判断なく、非難なく、暖かく熟知し、凝視することが、
クリシュナムルティーのいう“思考なくして「ただ見ること」”に繋がっていく様に思われる。
本当の主体とは、この分離した「至ろうとし、成ろうとしている私」ではない。
この目的と、動機を持って「自己と分離している内部と外部を観察している観察者の私」とは決して主体ではない。
この観察者の私とは根源の演技であり、根源が使っている道具である。それはちょうど我々が使っているPC
のようなものではないか?
この外部と内部に分割されて見ており、自分自身を分離して観察している主体とは、思考であり、マインドであり、
結果であるに過ぎない。
「私は自由意志で行為している、私が生きているのだ」と思い込んで、悩み、苦しみ、恐れ、悲しむ増上慢の私である。
この「自分が生きているのだ、自分が行為しているのだ、自分が運命を改善しているのだ」・・・と思っている「私」こそ
根源が演じておられる仮面ではないのか。その仮面が自分が生きていると、自分が行為していると思っているのだ
それは仮面であり、仮面という私ではないものであるに過ぎないのに・・・