純粋主体



わたし

純粋主体とは何だろうか?

純粋主体とは「意識の座」であるともいえるのではないか

また純粋主体である私は純粋精神又は純粋意識とも言えるのではないか

それは客体にはなり得ない。

何故なら、それはわたし「純粋なる主体」であるから。


ここに於いて「主体は客体である」「見るものは見られるものである」「観察者は観察されるものである」の

私とはクリシュナムルティーが書籍の中で述べている観察者であり、それは純粋主体ではないことは明らかである

彼は言葉の使い方に於いて、低次元の意味合いの内容をその言葉に持たせて言葉を使用していた

ので読者は混乱したのである。

正確なる用語では、全ての思考を「思考」と一括して表記したりするのではなくて、低次思考、中位思考、

高次思考と記述し識別するべきである

マインドに於いても小文字のマインド、中文字のマインド、そして大文字のマインドと区別して記述すべきである

体験や経験や理解や知覚にしても多くの段階があり次元があるにもかかわらず(感覚に関しても五感覚・六感

覚・七感覚・八感覚・九感覚・十感覚という具合に多くの段階があり、それぞれの主体の次元に応じて雲泥の差がある)

それなのにそれを一括りにして、体験や、経験や、理解や、知覚を否定することは間違っている。

そしてそれと同じように

「意識の座という純粋主体」に現れる主体に関して、全く次元の違うそれぞれの主体という観念が私だと主張している

それぞれの私が私と主張しており自己感覚を持っている。分離している記憶のある実体感覚を持っている。

そのわたしとは、その主体とは何か

動物魂の私もあり、肉体の私もあり、外部からの記憶や想念の私もあり、自我の私もあり、諸体の私もあり、

魂の私もあり、真の私の私もある

さらには、それらを全てを観照し、認識している「意識の座・純粋主体の私」がある



この「意識の座」こそが純粋なる主体であり、真の私である。

目を見ている目である。

これらの私という主体群が、一つの「意識の座」という自他の分離のない「純粋意識の座」に入れ替わり立ち替わり

出現している。

それらの私という「自分を主体であると主張している」分離しているわたし・自己感覚が「意識の座」に現れては消えていく。


それらは私という主体感覚であるけれども本当の意味に於いては

勿論私ではない。

主体感覚を伴っている「自他の分離感のある私」であるからである。

けれどもKは表現方法に於いて

これを一緒くたにしたので読者に対して大きな混乱を招いているのである。



神道的に言えば「魂魄」というものの識別をすべきである。動物魂である私(魄)と、魂である私を一緒くたにはできないのだ、

この一霊四魂を、それらは同じ私だと私達が間違ったのである。

神道で言われる一霊の純粋主体とは魂魄の魂の私の「私の奥に在る私」であり、純粋なる非分離の意識の私である。


私達はこの「意識の座」に現れている私とは、一体どの私、どの主体なのかを知らなければならない。

その際、勿論それを認識している主体とは、その認識されている主体であることだろうが・・・

しかし、そこの時点に留まることなく、同時にその認識を成立させている「意識の座」があることにも留意するべきである。


この意識の座こそが純粋主体なのではないだろうか

真の私である。非対象の、対象のない純粋意識のわたしである。


そして、それは私であると同時にあなたである私である。純粋主体は自他に分離していないからである。

この純粋主体という「意識の座」があるが故に

動物魂の私も、自我の私も、肉体の私も、思考や感情の私も、高次思考や、高次感情の私も

そして魂の私も存在していることが出来ているのである。



なので私達は、この意識の座に現れては消える「私」がどの私なのかを、どの主体なのかを

ハッキリと識別するべきである。

それらの主体であるものとは、全てが「私という継続した主体感覚」を伴っているからである。

それは観念であり、観念の記憶であるからだ

即ち分離している(自他の分離感のある)私であるからである。


けれども「意識の座」という純粋主体には自他の分離感はないことだろう

自他の分離感のある私を見ている「自他の分離のない私」であるからである。

「意識の座」とは実は無限の空間なのかもしれない。


それは純粋なる意識そのものであるからである。

だから真の私と言えるのはこの「意識の座である純粋意識」だけなのであろう。

対象である私、若しくは対象を持っている私とはこの純粋意識の私でもなく「意識の座」でもないのだろう。

起こっては消え去り、生まれては消滅する私は「意識の座の私」に去来している私であると教えられている。



シャンカラは「ウパディーシャ・サーハスリー」の中でこの点を詳しく述べている


『認識対象は常に認識主体(純粋主体)とは異なっている。何故なら認識対象であるから。

認識主体は
認識対象とは異種のものである。

そうでなければ認識主体
(純粋意識・純粋主体)は目撃者(高次な観照者)とはならない』



『私という観念はアートマンの属性ではない。何故なら認識の対象であるから』



『他の諸々の観念や欠点も同様に認識の対象であるからアートマンではない。

アートマンはそれ故に汚れを持たないのである』



『アートマンは一切の観念の目撃者であるから、不変であり、一切のものに遍満している。

万一変化を受けるようなことがあれば、見者・アートマンは一切智者ではなくて統括機能のような

僅かな知識を持つものとなるであろう』



『見者の見
(=純粋精神)は眼などの見とは異なって破壊されることがない。見者の見は消滅しないからである。

それ故に見者は常に経験しているのである』




『私アートマンは個々の感覚器官ではなく、感覚器官全体でもない、それらはそれぞれ認識対象であり、

認識手段であるから。純粋なる認識主体である私はそれらと異なっている』



(夢見の状態に於いて)無明に基づく行為から生じる潜在印象(潜在記憶)が、夢見の意識に於いて

統括機能に顕現し、自ら輝くアートマンによって照らされている』




(熟睡状態において)
外界の対象も、無明に基づく行為によって統括機能に生じない場合には

アートマンは、他に何も見ることのない智慧我(純粋意識)であると知られるべきである』


『束縛とは、統括機能の錯乱であり、解脱とはその錯乱の止息である。

認識というアートマンの光輝に照らされて、統括機能は自分自身の内に認識があり、他には認識主体は存在しないと

考える。これこそ実に統括機能に於ける錯乱である。』


『認識はアートマンの本性であるから、認識は、統括機能に対して用いられるとしてもそれは常に

比喩的に用いられるのである。

識別智の欠如もまた、始めのない永遠の昔からである。これが輪廻であり、これ以外の何者も

輪廻ではない』







※私達はアートマンとして「意識の座」として、真我として純粋意識として「行為」していないとラマナ・マハリシや
ラーマクリシュナやシャンカラはいうが
いつの日か私達も(私達の現在のパーソナリティーが魂である永遠のパーソナリティーとひとつになり)彼らの様に
自らが、自己欺瞞に陥ることなくそのように言明できることだろう、きっと、必ず・・・。

けれども、この次元に於いて「意識の座」に現れている数多くの私も、私が愛すべき私自身であることには変わらない。
この「高次が見えない」眼のない私も、私・魂が生み出した私なのである。私が愛すべき私である。
この愛されるべき私とは、観念であるところの「行為していると思っている私」であり、この次元で「行為している現在の
私」である。

そしてなにより、その現在の私こそが、「自分を観照しているつもりになっている」現在の私であるのだ。
「あるがままの自分を愛しているつもりになっている」あるがままの自我の自分に他ならないのだ。
瞑想をして起こっている事を観照しているつもりになっている自我の自分に他ならないのである。

そういうことであり、この現在のパーソナリティーの私とは、現在意識の私に他ならない。
現在意識の私なのにラマナ・マハリシ達の本を読んで、彼らの言う観点で見ているつもりになっているに過ぎない。

現在意識である現在のパーソナリティーとは、魂と諸体と自我の混合意識であるから、
私達は「自分が行為していると思っている錯覚」を積極的に使用して、「観照している私」若しくは「行為していない
次元の真の私」即ち真我へと、常に真我のことを、正しく思い、正しく行い、正しく念じ、正しく見るべきである。


現在のパーソナリティーとは自分をいくら「自分は観照している」とおもっても、実際にはそれはそう思い込んでいる
のに過ぎず、現実は観照しているつもりであっても、起きていることに巻き込まれている自我の私なのである。

だから「観照している私へ向かうこと」これこそが仏陀の八正道であり、私達に必要なることなのである。

それこそが現在のパーソナリティーが造られた理由であり、自分自身への帰還が八正道なのである。
何故なら真我は既に覚醒し解脱しているからであり、覚醒する必要のあるのはこの行為している現在のパーソナリティー
であるからである






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