熟睡について
熟睡とは一体何だろうか
何故、生命あるものには熟睡が必要不可欠なのだろうか?
普段何気なく全ての人類、いや生命あるものは全て、当然の
こととして、睡眠を取り、眠りを必要としている
何故、脳は熟睡が必要なのだろうか
この眠りという、夢と熟睡と覚醒にアドヴァイタの賢人も
言及しているので紹介したい
以下、賢人はつぎのように言っている
真我は何人からも、いつ如何なる時も決して離れ去ることはない。
夢見意識と覚醒意識と熟睡意識は来ては去るところの流れ去る
ものであり
それは君の本性ではない。君の本性とはいつ如何なる時も常在
しているものであるからだ。
常在ではないところの、いわゆる心というものは、来ては流れ去
るものである。
それは常にあるものではない。それは常にある純粋な普遍なる
意識ではない。
それは実在ではない。
夢見と覚醒と熟睡とは恒常のものではなくて、やって来ては去っ
ていくところの連続していないマインド・心である。
その心である夢見と覚醒と熟睡と同じように、生と死もやって来ては去るところのわたしではないものである。
そして熟睡とはマインドがない状態でもある。熟睡とはマインドがない状態を見ている非思考非対象の意識状態である。
熟睡時に魂が触れているもの、それは見るものと、その見るものの対象の区別が無い意識状態、即ち、アートマン=真我の
意識状態である。それが非思考、非分離、非二元、不二一元、非対象の意識である。
(にも関わらずに魂は内部を見ないで外部を見ている、即ち心という「見るものと見られるものの分離」を見ている、若しくは魂が心
に覆われているので正しく見ることができないので、その熟睡を無の状態、眠ってなにもない状態、若しくは主体も客体も知覚され
ていないので、即ち意識がない無意識状態だ・・と錯覚し、熟睡のことを正しく捉えていないのである)
実際には熟睡時の意識状態とは内奥の意識、主体と客体が分離していない意識に触れている状態なのである。
熟睡とは見るものと見られるものの分離がない状態、即ち心がない状態を見ている意識状態なのであり
それはアートマンが見ている「内奥の目」の状態なのである。
それは何も見ていないのではなくて
(何も見えてないと言っているのは対象を知覚している二元分離のマインドである)
熟睡とはアートマン=真我が「マインドの主体と客体の分離」がない状態を見ているのである。と
それがマインドが働いていない状態を見ている状態なのであると云われる。
そのアートマン=真我が見ている状態を、主体と客体の分離である心・思考に覆われている魂=統覚機能の意識が、何も見えていな
い、何も知覚されないといっているのである。
魂=統覚機能とは窓であり真我の一部であると同時にマーヤである現象宇宙を維持させている重要な一部なのである。この魂という
統覚機能の窓を通じてマーヤである心が現象という質料を投射し発せられ、二元分離世界が発せられているからである。
(心が完全に静まって透明化すれば、またはその心が透明になるにつれて、その心の奥に既にあった光りがより一層輝きを増してくる
ようにして「透明な光=非対象の純粋意識」が顕在化してくる)
だからシャンカラは云う・・「君は、その常に見ており常在である実在しているものに基づいて
「私は何も見なかった」と言って見られる対象の存在を否定するけれども、その見られる対象の存在していない状態こそが、「見てい
る」真我の意識状態なのである」
「その熟睡時に見ている事が不二一元である君の分離していない精神性なのである。」と
「君の精神性は君から決して離れ去ることがないから
君の精神性の不変恒常性は決して君から離れ去ることがない」
・・・と
・・・ここでシャンカラの言っている君とは魂の事であり
肉体の私=根源が使って行為している肉体や諸身体や動物魂の私(即ち諸身体の私)
自我の私=人格とか個人のこと
条件付けられたマインドによる思考の記憶の私、または思考記憶の反応の私、ワサナの私
その記憶の私、サムスカーラの輪廻している根源の演技の私(こころの記憶部分の反応)
通常、現在の人類はこの記憶の反応を私だと魂が信じている
頭脳にやって来ている心や思考が生み出した私、条件付けられている心の記憶の私
魂の私=シャンカラやクリシュナムルティーが話している相手の聴衆とは魂であり、この魂の私に対して
彼は語っているのであって、人格の私や、肉体や諸身体の私に対してではない。彼は神々に対して語っている。
その魂の私に対して、シャンカラやクリシュナムルティーはあなたは世界であり、非対象であり、非思考であり、
あなたの内奥は真我であると言われているのだ
この魂が錯覚にとらわれ、
恐怖とは、恐怖が恐怖を知覚していて、その恐怖が恐怖に対して恐怖しているにもかかわらず、魂は自分と恐怖を
同一視し、恐怖を対象化してしまう結果、恐怖から逃れようと努力したり逃避したりするのである。
この恐怖こそが思考の本質の情緒的部分なのだ。恐れているのは魂ではなくて思考であり、その思考が恐怖なのだ。
恐怖を対象として知覚し観察しているものは、その恐怖自身なのであって、認識している私ではない
認識する真の私は分離して知覚している思考ではない・・と
(魂の私とは心という質料に属さない純粋意識の現象界との接触部分で、この魂を通じて
行為も、諸身体も、世界も、出来事もが投影され魂の私によって知覚されている)
真の私=クリシュナムルティーやシャンカラやラマナ・マハリシやラーマクリシュナのわたしとは、分離できない普遍なる
意識の事であり、心ではない純粋意識のことをさしており、行為や肉体とは関係性を持っておらない、無為なるわたしである。
なので、クリシュナムルティー達が語りかけているのは、真の私からの一部であるところの魂に対して語りかけているのである
通常の人類の殆どの熟睡時の状態とは、この魂の私が、マインドという心を深く自分だと錯覚しているが故に、二元分離に陥って
いて、熟睡とは現在意識の内奥に於いて魂の奥の真我が、非思考、非対象で見ているのだという事を気がつかないのである。
クリシュナムルティーたちは、その魂の私に対して、あなたよ目覚めなさいと言っているのである。
通常の善悪を説く教えとか、良いことをしなさいと行為と努力を説く、道徳的な教えとか、人格の私や、魂の私に焦点を充てて、
来世にはより良い輪廻をもたらそうとする教えは、本当には的を得ていないのである。
ラマナ・マハリシやラーマクリシュナやクリシュナムルティーやシャンカラなどのアドヴァイタ不二一元の教えである「行為は起こって
いるのだ」「私は行為は為していないのだ」「行為は神が為しているのだ」などの教えの立ち位置とは魂からの観点ではなくて真我そ
のものからの観点であることを知らなければならない
上記の方々の教えとは、魂の教えではなくて、その魂の奥の真我の教えなのである。
シャンカラやクリシュナムルティーといったアドヴァイタの教えは
それ故に、その錯覚を起こしているマインド=二元のマーヤが正見されたとき
その二元というマーヤとは実はマーヤではなくて根源であったことが理解されるのである。と教えている。
その為にはマインドの静寂は必須のこととなる。心が綺麗に透明化されなければ心を超えている純粋意識が心によって
現在意識化されないからだ 心はいくら精妙になってもそれは質料であり、純粋な普遍意識ではないからだ
それゆえに、心というものから影響を受けないように、心を純粋化し透明化し心と心の隙間(純粋意識)を発見しなければならない。
その「マーヤというこころ」の隙間が澄み渡った心によって発見されることが起こったとき、そこには最早マーヤはなく、全ては
完全完璧なる一つなる全体の私の状態が現れていると言われるのである。
このマーヤである心がないとき、即ち心という雲が晴れ渡ったとき、そこに初めから在った純粋意識が正見されることが
起こるのであると言われるのである。