受動意識仮説
近頃の大脳生理学の進歩はめざましく、
私達アドヴァイタの傾向とも同じような思想が展開されている。
その最先鋒にいるのが前野隆司さん達で彼の文献は参考に
なる。
ただアドヴァイタの賢人達の立ち位置が意識を超えている
(頭脳というマインドを超えている)ところからであるのに対して
現代の最新の大脳生理学は
あくまで頭脳の意識・マインド(前野さん曰く受動的意識)からの
観点であるから、同じような見解であっても(不二一元の賢人達
のその立ち位置とは脳を超越し、それらを観照している)
純粋意識からではないので限定されている
前野さんが何を言っているのかは彼の本を読んで頂くとして
彼の受動意識仮説は最新鋭の大脳生理学の実験と精密な
検証に耐えて到達した結論というものだが、それは古代のアドヴァイタの哲人が現在意識を超えている直覚によって(普遍なる純粋意識によって)
説いていたこと、近代ではラーマクリシュナやラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジやクリシュナムルティー達が言っていたことと
非常に接近してきている様に思える
が、しかし前野さん達には根源はわざわざ何故そのような受動的意識を創造したかという考察が滑落しているといえる。
前野さんの言う受動意識仮説とは、
正確には「大脳の前頭前野でのエピーソード記憶(自我のクオリヤを持つ)という現在意識」とは脳で生み出された記憶の働きのことであり、
それは自己意識・クオリヤを持つ自己感覚、即ち自我のことでもあり、その自己意識があたかも自分が思考し、自分が知覚し、自分が行為し、
自分が生きているかのように脳によって錯覚させられているということ、主人ではないのに主人のように思わされているという、そのような
錯覚を起こすように脳がシステム的に自己意識という記憶の働きを生み出しているということである。
即ち私達自身の現在意識の知覚・クオリヤとは脳によって与えられている意識・知覚・クオリヤであり、自分自身の意識・知覚・クオリヤではない。
即ち記憶側から見ると受動的であるということだ。自分の意志で、自分の知覚で、自分の欲望のように感じられていても、それは幻想だということ。
それらの諸々の意識の内容が記憶にやってきているのである。
だからその知覚される意識や欲望そのものが記憶によって受け取られたものであり、それを受け取っている意識とは
「大脳の前頭前野のエピーソード記憶(自我のクオリヤを持つ)」という現在意識であり、この自己意識自らが能動的に意識しているの
でもなく、知覚しているのでもなく、行為しているのでもなく、その逆に私達である記憶の働きである現在意識とは脳からの意識と知覚と
意志と行為を受け取っているだけで、それは受動的だと、言うことである。一見能動的に見えている自由意志や行為や知覚や思考も実は
起こっている結果であると言う。記憶の思考に関しても条件付けられているその範囲内で、決まったように反応し思考しているからである。
記憶が受動的に脳からの意志や思考や感情や欲望を受けとっているにも関わらず、記憶はその思考とは自分が思考したのだと思い込み
意志とは自分の意志であり、自分が自由意志で決定している。選択は自分の選択であり、行為も自分がしている行為であり、欲望も自分の
欲望だと、自分自身も自分の自分自身であると思い込まされ、錯覚させられている。それらは脳によって錯覚させられているということだ。
平たく言うと、私という自我である自己意識そのものが脳によって生み出された幻想であり錯覚だと言うことである。
従って私達は全く個人ではなく、全人類の全ての自我は同一のものであり、まったく同じ構造で、同じ組成を持つ肉体の、そのまた同じ機
構の頭脳によって同じように自分は自分で他人とは別だと思うように造られている。それがこの「自我・エピソード記憶」だ。
この自分とは意識の主体ではないのに、生み出された大脳の構造によって、自分が意識の主体だ、自分は特別で、他人とは異なっていると思
い込まされているにすぎないと言うのである。他と分離している自己とは虚像だというのである。
ここまでは・・一見するとアドヴァイタの聖賢達と同じように見えるが
けれども根本的に異なっているのが、その論理を展開しているのは一体誰なのかという探求である。それを話しているのは誰かということである
その受動意識と称される自由意志がない記憶が、そのような論理を展開しているのである・・・でこの論理を展開しているまさにその瞬間
大脳生理学者は自分自身は自由意志によってその論理を展開しているという実感・クオリアに満たされているのである・・これは自己欺瞞である!
もしここで「そうではない、私は行為しておらず、個人ではない」という実感が本当にあれば、気づきが(意識を超えた)ここにあるわけだが・・
それゆえに何故、根源によって、かくの如くに自我という虚像が作られているのかを探求した方が良いのではないだろうか
またその構造・映像に振り回されているのは誰なのか、それは受動意識ではなくて統覚機能なのではないのかということに気づくべきではないのか?
統覚機能があるが故に呼吸も心臓も働き、脳幹は休みなく生き続けられ、このような大脳新皮質の働きも知覚されているのである
生命という叡智があるからこのような虚像が成り立っていられるのである。
惑わされているのは、結果であるエピソード記憶の自我ではなく、その自我を私と錯覚している知覚主体である統覚機能(魂)なのである。
ニサルガダッタ・マハラジはこの点について以下の様に言っている
「意識的自己とは単なる自然の一部分である
気づきはその彼方にある
自己、意識的自己とは単なる自然が持っている意識に過ぎず、そのことを見ている事が
気づきなのである」
「肉体や世界や自と他の分離とは記憶の中にある
そして
自我という記憶、連続している記憶はマインド・意識の中に表れる
そして
マインド・心・意識は気づきの中に表れる
だから
この気づきとは存在の中に顕れている光りの反映である」
「だからあなた自身が創造している世界と宇宙を恐れてはならない
その世界と宇宙はあなたが創造したものであるからである」
ニサルガダッタ・マハラジが此処で述べていることは明らかに気づき=統覚機能のあり方に言及し
気づきこそが存在の中に顕れている光りの反映だと言っている。これは統覚機能の内奥に真の私が実在し
その真の私がわたし自身である無限の統覚機能の私(魂)を通じて内部宇宙(脳内の)と外部宇宙をマインドを使って投影し
且つそれらの次元の無限の投影された私と出来事をかくの如くあらしめ無限の全てを知覚し認識しているということである
現在の最新の大脳生理学での検証可能な実験結果に基づく結論とは
自分が行為し、自分が思考し、自分は私だと思い込んでいるところの「自我・エピソード記憶」の私とは頭脳の働きによって生み出
された前頭前野の記憶の働きの結果であり、この記憶の意識とは現在意識(「自我・エピソード記憶」)の条件付けられた反応のことであると
平たく言うと、自分が考えている思っている自分という主体も、その自分が意識している内容も記憶の条件付けられている機械的な反応であり、
記憶が受け取っている意識も、そしてそれに対してのその記憶の反応もそれらは引き起こされているニューロン・シナプスの電気的な信号の
結果であり、その電気的なシナプスを通じて起こっている内容・クオリヤが記憶によって受け取られている思考や感情や知覚であり、それを伝
えているニューロンのシナプスは潜在意識のこびと達?が起こしているのだ・・・と言うものである、
だがここでこのような結論を誰が知覚し認識しているのか? の探求が落ちているのである
この結論は単に理論上で「自我・エピソード記憶」が概念化しているのであって、実際の自覚はしていないのである!
彼らは話してはいても理解していないからなのである!
此処が一番肝要だが、この結論を自覚し、理解するのは「自我・エピソード記憶」の私ではなくて、それを照見出来る気づきなのである。
彼らであるエピソード記憶にはその気づきが欠落しているので、話していることを理解せず必ず誤解するのである。
心やマインドを超えている非二元の純粋意識とは、心やマインドや思考には推測も想像も出来ないからである。
その脳細胞の1000億と言われるニューロンがさらに無数のシナプス同士の接触を通じて意識や思考や感覚を惹起して、なおかつ「自我・
エピソード記憶」という記憶を生み出し、その記憶である現在意識の反応さえも起こしているというこのマインドの仕組みを生み出し、シナプスを
動かし、働かせ、維持しているのは何がどのようにして起こしているのかということだ
それは勿論「自我・エピソード記憶」という現在意識が思考することがらを超えているので、現在意識に拠っては思考することが出来ず
前野さんはとりあえず「潜在意識のこびと」と称しているわけだが、実際には現在意識という脳の記憶を生み出し支えている根源に他ならない
それは物理学で素粒子のことは分かっていても、分かっているのは物質的側面からの素粒子のことであり、素粒子それ自体ではないということに
似ている。素粒子とは何であり、その素粒子がどこから、どのようにして生まれているのかは科学という方法論、即ち対象化して分析する方法
では接近できないのである。それを対象として観察しているものが観察される対象に影響を与えてしまうからである。
その前野さんが曰く「潜在意識のこびと達?!!」とは、畢竟「自我・エピソード記憶」という私という錯覚機構を生み出し支えるほどの脳それ
自体とその活動を生み出している根源であるから、名前を付けようがなく「潜在意識のこびと達?!!」といっているに過ぎない。がこれは虚言である。
受動的意識である自己意識を生み出し、自分が知覚し、自分が行為し、自分が思考し、自分が生きていると錯覚をさせているマインド
この「自我・エピソード記憶」という虚構を生み出すほどの巨大なるマインド・宇宙大のブレインに対して名前のつけようがないのでそう言っ
たのに過ぎないが、それら大元のマインドも実際は無限なる根源の純粋意識から派生しているに他ならない。
超絶している宇宙の叡智である大生命が全てをかくの如くにあらしめているのである。
だから何故に根源は、かくの如くに頭脳を生みだし、自我という錯覚をあらしめておられるのかということである。
宇宙の運行を超然とあらしめ、自我という錯覚の「自我・エピソード記憶」を支え、この幻想を維持し、この大自然を生み出し運行せしめ
生かし、あらしめている根源のマインドとは決して現在意識という記憶の反応の範疇などでは理解されることではない。
人々はそれらの未知なる根源に対して「表現不能なる絶対なる叡智」、宇宙意識、真我、超越した神、それ、道などと表現していても、
それは指示代名詞に過ぎず、それらを述べている現在意識の思考の記憶では想像すらできないものなのだ。
がしかし、もしそれらの頭脳を生み出し支えている、その根源それがなかったあらゆる次元の宇宙の内も外も一瞬に崩壊することであろう
それらの本当の大元の素粒子がなかったなら一瞬もこの宇宙は成り立たないことであろうからである。
その根源からマインドが生じて、そのマインドが脳を生み出し、かくの如く幻想と錯覚をあらしめ、自我があたかも存在しているかのような
錯覚=「自我・エピソード記憶」を自らの脳に生み出し、脳を通じてこの「自我・エピソード記憶」に対して自分が行為し、自分が知覚し、
自分が呼吸し、自分が考えているのだというような錯覚を起こさしめ、そして宇宙の映像を自らの内部に成立せしめているのである
前野隆司さんは、脳が意識を生み出し、脳が前頭前野にある知覚主体である「自我・エピソード記憶」という現在意識を生み出し、脳がこの
記憶である現在意識に対してあたかも自分の肉体だと思わせて、その現在意識に対して自分が行為をしている、考えている、自分が生まれた、
自分が老いた、自分が死ぬという幻想を引き起こしているのだから、この自分の「受動意識仮説」とはこれは唯脳論即ち唯物一元論だといって
いるが、わたしには唯マインド論に思える
何故なら、それらの幻想を興しているのは脳の働きであり、脳の意識とはニューロンの働きであり、そのニューロンからシナプスで以て伝達さ
せているのは脳の潜在意識のこびと?であり、そのこびととは無意識下の働きのことであり、その無意識の潜在意識とは即ちマインド=心の事であり、
その非個人的心とは根源から生起しているのである。物質は思考であるから、思考も又物質なのだ。但し物質にも多くの質料があるのだ。
だから彼は唯物一元論だといいつつも、唯心一元論でも同じかもしれないと実感を述べている。勿論それはそうであり、脳が意識を生み出して
いるのであり、その脳を生み出し作動させ、維持しているのは「潜在意識のこびと」という心なのである、それは個人的ではない非個人的な心だ
マインドという根源的なこころが実際には脳のシナプスを発生させ動かしているので、彼の言う唯物一元論とは唯心一元論にもなるのだ
但し、このことを思考している観点とは「自我・エピソード記憶」という現在意識から見ている観点であり、気づきではない
このことを観照している気づきという「大脳の前頭前野の現在意識を超越している意識」からではない、即ち純粋意識からの正見ではない
統覚機能と脳を繋いでいるコードの詰まりが改善され、それにつれて脳の本来の働きが戻り、統覚機能との繋がりがより純粋化されていくことだろう、
それにつれて自動的にチャクラのパラボラアンテナとしての機能が改善されることだろう、但しこれは自我が為すことがらではなくて自我に起こる事だ
根源によって起こる事柄である。
そのとき、「自我・エピソード記憶」という現在意識に結合していた統覚機能の内奥からの意識が本来の状態を回復させ(脳の条件付けが解けて)
その純粋意識が働きかけて大脳と大脳の前頭前野の条件付けを粉砕し、純粋意識が現在意識に顕現されることであろう。脳が変容するのだ。
現状では私達の日中の意識とは「自我・エピソード記憶」とそれの条件付けによって歪曲された思考が殆どであることであろう、夢見の意識とは
「自我・エピソード記憶」の反応が殆どであることだろうし、熟睡時とは統覚機能の意識状態であるけれども、現時点ではこの統覚機能に繋がる
チャクラが正常に機能していないので無意識的状態となってしまっているのであろう、目があっても眠っているので見る事が出来ないのだ。
更にこの「熟睡という統覚機能の状態」を観照している純粋意識が未だ現在意識に顕れていないので、
(脳の現在意識と統覚機能からのパイプが詰まっているので)私達は現実を知ることはなく、真実を知ることもない。
幻想と錯覚の中で自分が行為し、自分が思考していると思い込み、この他と分離している自分とは脳が生み出している錯覚であることを知らない。
けれども事実への正覚・・そこに至る道はなく、そこへ至ることもない、既に至っているからだ。またそこに至る方法もなく、そこへ至る方法
を模索することが錯覚の働きであるからだ。事実は既に至っているからだ。わたしは行為していない・・・との理解が現在意識に顕現するとき
そこへ至る私という私こそが、そもそも「自我・エピソード記憶」であり、実際には存在していないマインドが生み出した幻想に過ぎないことが
ハッキリと自覚されるからである。これらの錯覚とは統覚機能が「私ではない脳が生み出している記憶」のことを間違って私だと錯覚していたのだ。
そして、その統覚機能を通じて、その内奥に於いてすべての人類はただひとつなのである。私達は統覚機能の奥に於いて一体なのである。
時間と空間の壁は打ち破られ、自と他の分離という虚偽、そして肉体が私だという錯覚は取り払われたのである。
現実には、至る私とはそもそもが幻想であり、至ろうとしている私自身がマインドの錯覚それ自体なのである、旅はそもそもなかったのであると
進化のそれぞれの階梯にいる私とは幻想であり、この私とあなたの区別・分離こそが幻想なのであると、至る私とは根源がしている演技であったと
それらの幻想を照見する事が、それらを正しく見切ることが八正道であり、そこには八正道だけがあり八正道を行っている私とはいない。
すべては根源であり、根源だけがあり、根源以外に何ものも存在していないのだとそのように教えられている
私達、「自我・エピソード記憶」としての私も、統覚機能の私も、根源は必要があって創造されているのである・・この点を考慮して
御心のあるがままにあらしめ給えという母の御胸に全託する謙虚さと、真実の真の私への自己想起・観照こそが偽りの私に求められている
のではないだろうか