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検証作業


言葉や、思想や、哲学で、真理を学習することは、できる事であろうし、本でそれらを知識として知ることはできるだろう。

がしかし、

それを記憶し、知識として,習得したとしても

そのことで、真理や、真我のことを、決して、理解した。と、いう段階へと、いたることはないし、真理を知ったこととはならない。

これが、学校の勉強や、社会一般の生活での知恵や宗教の教え、学者や哲学者の学びとは異なるところである。

知識としての、知るだけならコンピューターに敵うものないだろうし、学者や思想家が、最高の理解者ということになってしまうだろう。

しかし、

彼らは、全く、それを、知識だけで記憶しているだけであり、実際の「その人自身」は、その真理でもないし、真我であるわけではない。

彼らは、些細なことで怒ったり、自分の事が尊敬されなかったりしたら、おもしろくない顔をすることだろうし、怒りさえおぼえることだろう。

彼らの実際の実存とは、真理や、真我とは正反対の、分離分割の我性に捕らわれ、(自我丸出しの)他人にどのように思われているかを一番

気にして、(自他一体の逆の)自分の事が一番大切な、所謂、自己関心で、心の中は一杯であることだろう。

自分のことだけで一杯になっており、全く、他人のことなど心の中にはないのである。そういうような人間であっても知識で(記憶で)言葉で、真理を

語ったりしているのである。それは単に記憶しているだけに過ぎない。理解しているわけではない。



だからこそ、この真理や、真我の領域では、実証作業・検証作業が欠かせないのだ。



いくら、真理や、真我の事を、知識や、情報として、本や、言葉で知っても、それがその自分自身の骨や肉となっていなければ

身になっていないのであるから、嘘となってしまうのである。

その、身になっていないご本人が、その真理を語ることそのものが、嘘をついていることなのであり、「自己欺瞞」の状態なのである。

だからこそ、この真理や真我の領域では、本人の実存が一番の問題であり、その為には、その真理を言葉で学び、知識で知ることから

さらに、進んでそれを理解するという、段階へと進まなければならないのである。その真理と自己である実存が融合しなければ

理解にならないからである。

ただ単に本を、読んで知った知識や情報の段階から、一つになっている状態での理解への段階へと進まなければならないのである。




そういうことであるからして、この理解するということは、体現するということである。

即ち、これが真我や真理の実証作業であり、自分自身の実存を通じて実証することなのである。



けれども、自分の実存を通じて、真理を、実証し検証するということは、本に書かれていることを、実行する、というような単純なことではない。

実行とは、行為を示しているが、行為とは、決してその真理を体現していることを実証していることにはならないからである。

行為や体験とは、他人や自分自身を欺くことができるし、その場合が多いからである。

決して、それは実証や検証とはならない。実証や検証とは、それは自身の内部の問題なのである。肉体の行為の問題ではない。

真我や真理とは単に実行することはできない。実存として、真理として存在していることなのだから。

それは行為ではないし、この実存の私が為すとか、為さないとか、できるとか、できないとかいう行為の次元のことではないからである。


聖人や賢者のような行為を真似ることはできる事であろう、しかし、真似する実際のその本人の実存と、その行為とは無関係である。

いくらでも同じような行為はできるからであるし、行為をいくら真似ても本人自身の実存は決して検証されない。それは実証ではない。

真理や真我を行為の次元のことと、考えていること自体が間違っている。



では、経験とはどうだろうか?

経験とは、あくまで、本人の個人の経験のことであり、それがいかに、一見して変性意識を伴い、至福に満たされていようとも

それだけでは、それが真我の状態なのかは実証されない。

本人の我性が、完全に消え去ることがなく、あらゆるものを私として実感している知覚が絶えることなく、その純粋意識が

日中も、夢見の時も、熟睡の時も、常に絶えることなく目覚めていなければ、それは決して本物ではない。それは偽物の体験といえる。

目覚めとは一時的な現象ではないからだ

薬物体験や、脳内麻薬や、変性意識、オーバーシャドウは、確かに本人にはそれが実証していることのように思われることであろう。

が、本物であるなら、それはもはや後戻りすることはないのだが、残念なことに、それらは、一時的な効果でしかなく

その体験に依存し、縛られてしまい、かえって悪影響を諸身体に及ぼしてしまう。



いわゆる、その体験の後が問題なのである。その体験の後に実際に、本人の実存は変わり、意識が目覚めたのであろうか?

真我となったのであろうか?

完全に、我性は消え失せたのであろうか?

自己関心は、なくなったのであろうか?

思考による認識ではなくて、瞬時に全体を理解する直覚が働いているだろうか?

知覚や感覚はもう、五感に縛られなくなり、高次の知覚が発生して、分離などを知覚しなくなったのであろうか?

次元を超えている空間の純粋意識そのものが本人の意識となったのであろうか?


これらの純粋意識の純粋経験を称してラーマクリシュナは、無種三昧とか無分別三昧といっている。

この三昧を通じて本人が生まれ変わっていなければ、依然として、本人の感覚は、分離をしている五感という感覚のままであり、

自分の前に、鏡として自分を映し出しているその方々(自分自身)を、「他人だ」として誤解することだろうし

その鏡に映し出されていることを視覚しているその知覚自体が、次元の異なる空間の「空間である純粋意識」の知覚ではなくて、

この肉眼から対象を知覚しているところの「記憶である自我」の感覚・知覚であることだろう。

・・・と。



それらの自我であるところの知覚や、認識とは時間系に縛られているので、決して、一瞬にして、全てのことを、思考を使わずに、理解する

こともないだろう。

それらの記憶である自我の知覚とは、時系的であり、五感系であり、結局は思考の範囲内のことでしかないことであろう。

また、いかにその知覚している私が拡大されていようとも、その私は対象を持ち、分離の苦しみがあり、結局は想念や記憶の反応

でしかいないことだろう。


さて、私達の実証作業は、その体験や、三昧が本物であるのか、それとも偽物であるのかを見極めることである。

その個人の、その本人の実存が、「実在」へと誕生していくためには、どうしても、その三昧というプロセスは避けて通ることはできないし

従って偽物も、そこに、当然のこととして、焦点を、当ててくることであろう。精神世界で生計を立てている商売人がそこに群れ集まってくる。

だからこそ、検証作業や実証作業を通じて、自らが、騙されないようにしなければならないわけなのである。

自らが真理そのものとなって理解したときに、だまされることから解放されることだろう。



自分自身が、本当に、この真実に向かって進んでいるなら、即ちこの理解することのプロセスの中にあるのなら

マインドの中に、(流れている川の中に)雑多な想念や、欲望を見ることや、見つけることができなくなるのである。



自分のマインドの中に、それらの雑多な雑念や、自己関心や、我性や、欲望や、想念や、思考や、感情を発見し、見ていること自体、

その見られている内容そのものが、その見ている本人の実存であり、その本人の現実レベルなのである。



観察されるものは観察者自身なのである、観察者は観察されるものであり、それを対象として、瞑想の中で、川の流れの中に浮かんでは消えて

いく雑念を対象として見ているものが、その観察者そのものであり、その雑念や想念を観察しているものはその雑念・想念それ自体である。


瞑想の中では、もはや、何ものをも、対象として観察される事がなくなっている状態こそが、スタート地点に近づいてきている証拠でもある。

瞑想や実生活の中で、また夫婦や、親子や、家族や、会社や、近隣という自他の関係の中で、

他人を鏡として、妻や夫を鏡として、映し出されるその鏡の中に、見られる対象としてそれらを見たりしていること。関係性が残っているということ。

自己関心や、我性が、そして獣性や、欲望や、思考や、想念が去来していることが、それが本人の現段階の実存を実証している。


鏡という映し出されている鏡面の中に、我性や獣性や、分離が映し出され、俺が、俺が、俺が一番だと言う自己関心や、欲望が写っているようでは

どうして、鏡に、「真の私」という、次元の異なる空間の純粋意識を映し出すことができるのであろうか?


真の私という真実の太陽が、この鏡に映し出されることなく、この鏡に分離を持っている俺が映し出されたり、獣や、自己関心が映し出されている

ようでは、決してスタート地点に立っていないことを実証している。



知覚するものとは、知覚されているもの。認識しているものは、認識されているもの。観察者は観察されているものであり、

鏡に映し出されている思考や感情とは、その実存者自体である。

この鏡の中に、何か自他の分離や、対象を持っている感覚や、我性や、欲望や、思考が映し出されていること自体が、

その鏡の表面は、かなり、塵や芥で、汚れていると言うことを実証しているのではないか?

鏡という心の中が問題なのである。それが検証し、実証されなければならない。鏡が清まっていなければならないのである。

鏡の中に思考や感情や想念や自我ではなくて、純白で透明である純粋空間が拡がっていなければならない。



何が、心である鏡に映し出されているのか?

というよりは、なにかが、対象として映し出されているということ自体が、鏡が汚されている事の結果なのではないか?


大空が、澄み渡っておれば、流れる雲は、もはや、どこにも認識されないのである。

分離している観察対象がないからなのである。

鏡が、良く拭き取られておれば、その鏡には、澄み渡った青空と、輝く太陽が映し出されているのである。

これらのことを、自らに問うこと、これが検証作業であり、実証作業なのではないだろうか。

鏡に映るものが、何もなくなっていること、それが至高の空間ではないか。それがスタート地点である。