自己紹介

一般的な自己紹介は後に詳述するとして、自己
・私とは何でしょうか?
私達は通常何気なく「私は~○○です」「私は
勿論私なのだ」とその様に感じており、殊更に
この私自身のこと・・それはこの悩み考え感じ、
そして将来の不安や恐怖で一杯の私のことです
が「私とは何なのか?」などと自分を深掘りし
て考えたりすることはあまりないことでありま
しょう。

忙しい日常の生活では自分の事を「私は誰なの
か?」などと考えたりすることはしないでしょ
うし、それが一体何に成るの?いくら儲かるの
?自分の願望や希望が叶えることが出来るの?
などなど。

私達は最後には死を迎え全てがゼロになる事を
承知で、貯金通帳の残高がアップし、競争に打
ち勝ち、名を残し、1年でも健康で長生きする
ことを願って生きています。

内面に来ては去って行く想念や感情に一体化し
ているので、心に浮かぶ想念や感情について、
じっくりと見て自分を観察する事は殆どありま
せん。

その思考や感情とは、私達の条件づけられてい
る脳からの人類共通の欲望や思考や感情である
のに「心に沸きおる思いや感情とは自分自身で
あるに決まっているでしょう」と、このことに
疑問を持ったりはしません。

しかしこの感じ考え行っている自分こそ、私に
とっては一番の探求の対象なのです。そして世
の中にはこの「自己・私」に関して、非常に多
くの意見や哲学や考え方があることでありまし
ょう。



私達はその「自己・私」に対する多くの異なる
捉え方というものがあることを知っております。
人類の教師や悟った方々からの「私・自己」に
関する教えがありますが、それを私達は単に「
考え方の相違」「観点の相違」「思想や哲学の
違い」と捉えておりますが、それは観点や見方
の相違なのではなくて、自己の感覚、知覚その
ものが全く異なっているのであります。

「私」そのものが通常の人類の私と、それら人
類の教師の「私」というものが全く異なるので
あります。

私の目それ自体の知覚内容、見ている「目」の
次元、即ち「目」そのものである私・主体が異
なっているのであり、そのことに対しては思い
至ることは殆どありません。

自分や世界を見ている目そのものが私達と賢者
達は全く異なっていると言うことを私達は知ら
なければなりません。

科学的な目で見ている世界とは脳が見ている世
界です、その脳の知覚を超えている目が見てい
る知覚認識とその世界が有るのです。

賢者達の目には私達が見たことも聞いたことも
ない全く異なっている時空を超え、内部と外部
の区別を超え、主体と客体の分離を超えている
世界が拡がっているのです。私達と賢者の知覚
は全く異なっているのです。賢者達は五感を超
えている超感覚で同時に異なる場所から愛に溢
れた目で見て聞いていると言われております・
・それは肉体の脳の知覚ではないからです。

賢者の私と私達の私は、その私自身というもの
が全く異なっているのでありますので、その賢
者達の知覚というものを私達は全く理解するこ
とが出来ないのであります。


それは今の世の中では地球人類の全員が共通し
て条件付けられている脳のある部分から発生し
ている「私という自己感覚」や「その記憶から
の思考や感情」そして五つの感覚しかしらない
ので、その知覚と思考の記憶から「自分たちが
知らないことは存在していないのだ」という傲
慢な態度を批判なく受け入れてしまっているの
です。

そして、この脳の条件反応を遙かに超えた「目
」から齎された「私・自己」に関しての賢者達
の言葉を聞いたとしても、私達は必ず誤解して
しまうことになります。

それは私達とは全員がこの脳から発生している
思考の観点からだけで「自己・私」そして世界
を見ているからなのです。

条件付けられている結果としての脳の記憶から
解放されて自由である賢者達は全く異なる目で
私や世界を見ているのであります。

この久保栄治のホームページで紹介しいる、古
今東西の世界中の聖人や悟った方々によれば、
この脳から生じている観点や知覚を超えた超知
覚や超意識、その高次な目が存在し、さらにそ
れすらも超えている深遠な魂から叡智の目があ
ると言うことであります。・・それは私達にと
っては想像することや考えたりすることの出来
ない「目・観点」であることでありましょう。


インドの聖者であるラーマクリシュナ達は、究
極の実在の観点から見ている事を、私達の通常
の言語で話しておりますが、それを聞いた「私
達である脳の条件反応の記憶」は、それを自分
たちなりに解釈することでありましょう。そし
て必ずラーマクリシュナ達を誤解し、曲解して
しまうことになります。

何故ならば、悲しいかな私達人類には、未だに
その「賢者達の目」はおろか高次な思考体や感
情体の目は開かれておらず、私達は脳の記憶で
しか見て、聞いて、そして反応することしか出
来ないのであります。

今のままでの私達の目では「自己・私」のこと
もそして世界のことも正しく見ることが出来な
いのであります。

この高次の思考体や感情体が再形成されていな
い私達には脳からの知覚、思考、欲望、感情し
か認識できません。かく言う久保栄治もその一
人であります。

私達人類が見ている自分自身即ち「私・自己」
もそしてその脳が見ている世界も、それは現在
の条件付けられている脳が見ている脳それ自身
の姿なのであって、脳を生み出し維持し、DN
Aによってコントロールし、私達を生かして下
さっているいのち、「大生命」の観点からの「
至高の目」が見ている世界なのではありません。


私達見ている世界は内奥の魂が見ている世界で
はありません。私達の諸体(サイコノエティッ
ク体・感情体、思考体、一霊四魂の四魂)が見
ている世界でもありません。

この私達が見てそして知覚しているのは脳の記
憶の反応なのでありましょう。私達は脳が見て
いる様に自分自身も見ており、そして世界を見
ているのです。

自分を見て、そして世界を見て知覚しているの
は脳なのです。この知覚、認識は、私達が肉体
・脳と結合した結果、同一化してしまっている
脳の知覚、認識であり、その思考・記憶なので
す。この思考・記憶が自分の事を私だと知覚認
識しているのです。条件付けられている脳が「
自分は私だ」と言っているのです。



しかしながら、改めて「私とは誰でありましょ
う」か?、私達とは肉体ではなく脳が受信した
記憶の思考の私でもありません。私達は肉体に
結合した未知なる「私」であって、肉体ではな
いので死ぬことがないと言われております。

私達は肉体と結合している魂と繋がる私即ち未
形成のサイコノエティック体(思考体・感情体)
なのでありましょう。

その霊的諸体は未だに形成されていなくとも、
そして未だに意識されていなくとも、現在の私
達の意識となってしまっている脳が受信した「
私という観念」の記憶以外に、その霊的諸体、
そしてさらに「魂の私」「大生命の私」が実在
していることをラーマクリシュナ達、世界のあ
らゆる賢者は私達に対して優しく語り続けてい
るのです。

わたしはそれを信じています。

その「大生命の私」がいなければ、息をするこ
とも心臓を動かすこともそもそもが出来ないで
ありましょうし、「魂の私」がいなければ、意
識が生起すること自体があり得ないのですから
・・・。





私の名前は久保栄治、本名は久保馨、1945年6月
5日東京の江古田町、今の練馬区旭丘に生まれま
した。5人兄弟の末っ子で、一番上の姉(幸子)
が谷桃子バレエ団の団員の小松ちか子先生にバレ
エを習っていた関係で、私も姉のすすめで8才か
らバレエを習うことになり、現役時代は牧阿佐
美バレエ団の団員として35年間舞台で踊り、現
在ではクボバレエアカデミーを主宰し、NBAバ
レエ団の事務局長として至っております。
しかし、このホームページでもお分かりのように
久保栄治(以下本名の馨ではなくて芸名で述べる
)の内面では常に真理を求めて探求が絶えず続行
しておりました。「愛とは何か?」「神とは何か
?」「人間とは何か?」と・・。それが常に私の
中心課題でした。


自慢のように聞こえてしまいますが、その真理の
探究は幼稚園に行く前から始まっておりまして、
4歳のころには仏陀が恋しくて恋しくてたまらず江
古田駅の踏切近くにあった青山堂という書店に仏
典を求めて駆け込んだこともありました。家庭で
は父は商売に失敗して倒れていたこともあり、気
丈な母(花江)が5人の子供を抱えてなんとか一家
7人が暮らしておりました、その母が霊友会や生長
の家やそのほかの信心をしていた関係上で、私もよ
く母に連れられて、信仰現場に於ける奇跡的治癒現
象を日常的に見聞きしておりました。しかし思い出
すに、初めての神秘的な出来事は伊勢湾台風に伴い
伊勢神宮が大きな被害を受け、その修復作業に小学
6年のとき駆けつけたときのこと、玉砂利が敷き詰め
た神域でまだ真っ暗な朝の4時頃、瞑想をしていると
、夜空が突然全て光の星々で埋め尽くされて、暗闇
が見えないほど全てが星の光で一杯だったことでし
ょう、その後地元の旭丘中学から都立鷺宮高校と進
み、通常の大学には行かず、自らの思いで「人間の
成長と進化の大学」の生徒になりました。そこでは
自らが教師であり生徒となり自身を学ぶ教育を行い、
受講しました。思いますに現在の教育は教育ではな
く単なる知識と記憶の獲得であり、人間の進化・発
展に寄与していませんし、それは教育ではありませ
ん。記憶や知識は智慧によって導かれない限りは、
その記憶という情報は鋭利な刃物のようにそれを使
用する人間によっては幸せの道具とも、破滅の道具
ともなるのであり、知識や記憶をいくら積み重ねて
もそれは私自身の成長を伴わない限りは知ること(叡
智)も、理解することも、見る(観照)ことも成長
しません。というのもこのような既存の教育システ
ムで行う学びと称する記憶の蓄積では記憶をいくら
積み重ねても智慧という理解である真の「知る(叡
智)こと」には至らないからです。このような間違
った教育から生み出された所謂秀才達は確かに物質
的には豊かな世界を作り上げましたが、一方テロリ
ストや戦争の指導者や大量殺戮者を生みだし、彼ら
は自らのことを単なる知識であるのに「私は知って
いる」と錯覚し、単なる利己心の満足のことを「私
は神に帰依し全託している」「私は自己犠牲を通じ
て自己を滅却し、平和に寄与している」と自らを欺
いております。他の国々の人達の苦しみや累々とし
た死体の上に自国の繁栄はあるのでしょうか?他国
の人々の苦しみや悲しみの上に、自国のしあわせは
あるのでしょうか?自分の幸福や自己実現、平和の
実現のために他者の苦しみや他者への殺戮が正当化
するわけがありません。それらの幼稚な自己欺瞞の
精神は、「自己の私」を学ばず、智慧を知らないた
めに起こる間違っている現行の教育の欠陥に起因し
ております。それゆえに私は智慧を学び、理解し、
「知る」為にその様な自己欺瞞に陥らないためにも、
知覚と認識の純化と拡大、そして人間の成長の実現
の為に自らの大学を創設し、その生徒となった次第
なのです。真の教育とは自己を知ることであり、こ
の「自己を知ること」なしに行う教育は単に記憶の
強化に過ぎず、全く以て教育とは言えません。さて
話は戻りますが私は通常の教育機関での勉強では飽
き足らず、ベルグソン、キルケゴール,ベルジャーエ
フなどの多くの既存宗教・哲学などあらゆる思想を
学んでおりました。学校で教えている教育では人間
の進化に役に立たないことを痛感し、授業中もただ
ひたすら真理とは何かだけに集中して、宗教書や哲
学書を読み続けておりましたので休み時間や通学中
もそのことだけに意識が集中しておりました。私の
興味や趣味や焦点はただひとつ・・それは「真理」
「真実」でした。
思い出すに14歳のころであったとおもいますが、道
路の電柱の貼り紙にあった「空飛ぶ円盤の観測会」
の貼り紙に惹かれ、CBA(宇宙友好協会)という
宇宙連合との接触をしているグループに参加し、テ
レパシーによる宇宙船宇宙人との交流が始まりまし
た。しかしそれと平行して、学業やバレエと同時進
行で真理への探究は続いておりました。手当たり次
第に日本で入手できる全ての真理に関しての情報を
集めていたのです。おそらく可能な限りの哲学とあ
らゆる宗教を学びました。その後、数年たってバレ
エの留学で行っていたユーゴスラビヤ(今のセルビ
ア共和国ベオグラード)では、テレパシーでの巨大
な宇宙船との接近遭遇など一般的常識では考えられ
ない経験が連続しておりました。時は過ぎて、谷桃
子バレエ団や小林恭バレエ団でソリストとして活躍
していた妻の陽子と結婚して江古田に住むようにな
ってからは大きな居間(40畳)のすべてが本棚で、
壁面が書籍で全て被われていたのを憶えております。
その後クリシュナムルティーに出会ってからは、僅
かの本を除いて数百全ての書籍を売り払ってしまい
ました。
息子の紘一が誕生し、紘一の成長に合わせて、真理
の探究は深まっていきましたが、同時に27歳から45
歳まで牧阿佐美バレエ団にて多くの公演で踊っており
ました。しかし内面では常にその真理探究が私の中
心課題でした。「私とは誰か」「私とは何か」「真
実とは何か」「本当の愛とは何か」「神とは何か」
を求めていたのです。超常現象や既存宗教の枠を超
えた多くの教祖と出会いそして不可思議を体験して
いったのも、自分の前世からのサムスカーラが影響
していたのだと思われます。この期間でのそれらの
数多くの教祖や、数多くの超常現象・・時空を超え
た未来人?との遭遇や興味本位のワクワクする体験
などは個人の成長には不必要であるのでここでは述
べませんが、後で偽物と分かるインドの有名なグル
に解脱を求めて陽子と一緒にたびたび訪印し数々の
偽体験をいたしました。あるときには幼かった4歳の
紘一も連れて行ったこともあったほどです。ここで
はその偽物の有名グルとのことを述べる必要もない
ので割愛させて頂くこととして、クリシュナムルテ
ィーと「あるキリスト系の秘教団体」の教えが私の
中核思想を形成していると言うことだけは述べてお
きたいとおもいます。
クリシュナムルティーは有名であり、その私生活や
スキャンダルもいろいろと言われておりますが、彼
を通じて人類にもたらされた福音は仏陀やキリスト
にも決して劣らないものであると思われます。聖者
や神々も渇望する高次の真理が彼を通じて人類にも
たらされたのです。
さて話は変わりますがUFO宇宙人問題についてで
すが、人類が幼稚な現段階のレベルの頭脳や肉体や
諸身体の波動でもって接することが出来る宇宙人達
は、その接する私達当事者の波動に合ったものであ
り、高次ノエティク体が形成されていない個体には
それにあったブラザー達との遭遇があることでしょ
う。そして高次に進化した宇宙のブラザー達は物質
的や超次元的な乗り物を必要とはしていないし、地
球を見守ってはいても地球の進化の過程に干渉した
りすることはないでしょう。宇宙人問題は全宇宙の
進化も含め意識の進化抜きには語ることは出来ない
ことですし、地球の政府にコンタクトするような宇
宙人のグループは私達が目指しているものではあり
ません。
クリシュナムルティー達を通じて人類にもたらされ
ている福音は彼の書籍やDVDから知ることが出来
ますけれども、その内容を理解することとは、Kと
同じレベルでなければならないので非常に困難です。
聖者や神々若しくは解放寸前の瞑想の極まった熟練
者以外には誤解しかない事でしょう。
私が推測するに、クリシュナムルティー達の語る言
葉は思考を超えている次元から私達の中核実在に対
して語られており、それは進化の過程を上り詰めた
未来の地球人類の意識に対してなのかもしれません。
それは瞑想の熟練者がやっと到達した境地に対して
なのかもしれません。
K(クリシュナムルティー)達の語る言葉は平易で
明快ではあっても、記憶や情報という思考や心や自
己即ちマインドには近づくことすら出来ないと思わ
れます。学ぶ前提として瞑想や禅などのかなりな熟
練の後、思考の停止のエクササイズで深い沈黙・静
寂の境地に達している必要が有ると思います。K達
は私達の中核に対して語っているのであり、私であ
ると思っている思考や心や自己に対してではないと
思います。私達は成長を続けている「私」と、私で
はない「私自己を名乗っている人格やエレメンタル」
を識別できなければ学ぶ出発点にすら立てないので
す。未発達の私久保栄治はこれら人類にもたらされ
ているクリシュナムルティー達を通じての多くの叡
智や慈悲に対して心から感謝すると共に、この人類
の進化の道とは多くの入り口があり、また紆余曲折
はあっても必ずや地球人類の意識は全ての人と一緒
に真実に至ることを信じております。何故なら私達
のマインドとは地球でひとつであり、さらに賢者達
であり、賢者達が見ている私達とはマインドを超え
ていると信じているからです。

長い文を読んでいただき有り難うございました。