終焉ではなくて変容



自我及び現在のパーソナリティーに必要なのは

自我が自我のことを終焉させようとしたり抹殺しようとすることではなくて、自我が自我を心から愛することである。

それは私という現在のパーソナリティーが、私である現在のパーソナリティーを愛することであって、自己が自我を死滅させ

終焉せしめようとすることではない

大切なのは自我の変容であり、現在のパーソナリティーの変容である、それは高次の私との融合である。

自我が自我のことを死滅させようとしたり、終焉させようとしたりすることは自我に恐怖心を与え自我がますます変容すること

を延期させてしまい、自我はより巧妙となり、自我は再に肥大化してしまうこととなる。

なぜなら自我が自我を終焉させようとすること自体が自我の働きなのであるからして・・・



自我が自我を愛し、抱きしめ、その苦しみと悲しみを一緒に味わい、共に一緒に自己の魂の内奥へと向かうとき

その現在のパーソナリティーが現在のパーソナリティーを愛することで変容をもたらす、統合をもたらす奇跡が起こる

その高次の私へ向かおうとすることで低位の自己が高次の自己へと変容する、高位の自己へと融合していくのである。



自己を見るとは、低位の自己から低位の自己のことを見るのではない、この低位の自己を高次の自己が見ることである。

自己を見るとは高次の自己のみができることであり、低位の自己では自己の姿をよく「見ること」は出来ない。

低位の自己では、この自己の反応を見るのみであり、その反応と同一化してしまうのみである。


自己を正しく見る為には、自己を見渡せる一段上にある高次元の高次の自己でなければならないのである。


何故なら、その低位の自己では、ハッキリと低位の自己を見ることは出来ず、見渡せないからである、

鳥瞰出来ないのである。



自己を見るためには、自己以上の〈自己を見渡せる次元にある〉上位の自己が生まれていなければならない。


その自己を見渡している上位の自己と、その見られている自己が融合若しくは結合したとき、

その見られている自己はその自己を見渡している上位の自己へと融合し変容する。同質になる。

そうしてはじめて上位の自己が低位の自己と融合したとき、そのときにのみ正しく自分の一部として

低位の自己のことを愛を持って分離なく見ることが可能となる。



間違っている教えを識別することが大切である。


それは誰が悟っているのかとか、どの教えが正しいのかとか、誰が正しいかとか、誰に従うのか?ではない!

誰かや個人とかは全く問題ではなくて、なにが真実なのか、何が真理なのかだけが問題である、

人格や個人は偽装することが出来るからである。親切で愛深そうに演技することが出来るからである。

それゆえに誰に従うとか、誰を信じるかの問題ではない、何が真理かが問題なのである


自身を神であると思っている神々に従うのではなく、神を詐称する神々に従うのではなくて

真実に従い、自身の内なる真我にしたがい、魂の内奥にある真我の真理を受容するのである

大切なのはそのような自己を神だと思っている神ではなくて、真実であり、真理である真我である

真の神は「私は神であると宣言する神」ではなく、「それが私である」との、非二元の内なる内奥の神我である



行為に関しても、行為は起こっていると賢者によって言われている、がしかし、それを自我がそのように言うことは

虚偽を言っていることとなる。

その無為とは神我の実体感であり、真我の意識から視ている真実であって、私達の実体感ではない

現在のパーソナリティーの私達とは五感や六感しかもっておらず、肉体を私だと思っている感覚しかないのである

賢者達はその次元の真我と融合した知覚状態であり、空間そのものであり行為はしていないと言明される・・・がしかし

現在の私達にとって、その融合と変容が起こっていない段階で、その状態ではない私達がそれを言明する事は

その言明は、嘘をついていることとなり、虚偽の言明に他ならない・・・自己は未だ変容していないからである

それは即ち感覚と知覚が変容していないからである。すべての私が私になっていないからである。


その真我の段階の私であれば確かに行為はしていないことであろうし、「無為」であることだろう。何故ならそこでは

それを言明している私とはまさに、「全ての私」であるであろうから、遍在し、意識としてあらゆる所に存在している

ことであろうから・・である




それ故に、「無為」それを嘘偽りなく言うためには、私達は高次の私と融合し変容することが真っ先に求められるのである

現在の私達にとっては、自己を死滅させようとすることではなくて、高次の自己と融合し、高次の自己へと変容することこそが

必須なのではないだろうか


そしてその時こそ、あるがままの自己をハッキリと見ることが出来るときである

同じ地平にいて、どうして自己を見ることが出来るであろうか、自己を見るためには自己を見渡せる高次の自己へと

自己が変容している必要が有るのである


その為には現在のパーソナリティー、現在の現在意識が浄化され、現在意識の発しているヴァイブレーションが高次の自己の

波動状態へと接近している必要が有る


低次の自己が内なる高次の自己へと常に注意を向けていること、

それこそ高次の自己が一番、私達に願っていることではないだろうか

それこそが高次の私への尊敬であり、高次の自己への信頼であり、高次の自己への回帰することであり、

高次の自己を愛することではないだろうか

そして、そうすることこそが高次の自己が、私達に対して願っていることではないだろうか・・・・





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