自我とは単独ではない
  
  自我とは単独ではない
  それはPCがネットワークで又はクラウドで世界中のPCと繋がっているように
  私と言う観念である自我も、世界中のPCを通じて繋がっているひとつのものだ
  その「私と言う観念」はPCに入っている基本ソフト「ウインドウズ」のようなものだ
  その自我が入っているPCという頭脳も単体や単独ではなくて世界中が一つの
  インターネットで同じように繋がっているPCだ。そしてそのPCを動かしておられるのは自我の私ではなくて根源である。
  
  さて
  朝ベッドで目をさました私とはどの私か?
  目を醒ましたのは誰か?
  誰がベッドから目を醒ましたのか?
  「私という自我」が目を覚ましたのだ。
  ハートという鏡を覆っている「私という自我・マインド」は
  大脳と前頭前野に結合しているので脳の状況を自分の状態と実感しているのだ。
  大脳が休眠するのでそれに絡んでいる自我は一緒に眠るのである
  脳と一体化しているのが自我であるといえる
  昼寝から、通勤の電車でウトウトから目を醒ましたのは誰なのか?
  それは・・目を醒ましたこの私とは「肉体を私だと思っているその私」である。
  世界を分離していると見ているこの私のことである。
  自と他が異なっていることを実感しているこの自我の私のことである。
  「自分が行為をしている」と疑いなく実感しているこの私・自我のことである。
  その私である「私と言う観念」であるところの自我が脳と繋がっているので
  (脳の状態即ち)目を醒ましたのである。
  
  では
  今この文章を書いている私とはどの私であるのか
  この私とは朝ベッドから目をさました(脳と一体化しているところの)「肉
  体を私だと思っている私・自我」であり、即ち「無知・無明・マインド」であり
  その私が現在もこうして継続している
  脳の条件付けと、その脳を自分と思って脳の影響を受けている自我は(一体化して)脳と共振しており、脳の状況が薬物等の影響で一時的に変わるが、自我が変わらない限りはその変化は一時的なのである
  インプラント、マントラ、想念投射、ディクシャ、薬物、器機などで脳に影響を与えても脳に繋がっている自我が変わらない限りはその変化は一時的であるといえる。
  
  ではさらに思考してみよう・・
  この継続している私とは誰のことか?
  それはこの継続している私とは記憶のことである。
  では何の記憶であるのか?
  それは『私とは他とは分離している「私だ」という実感している根本観念』の
  記憶である。「マインド・無明」の記憶である
  「私とは他と異なっている私という実体だ」と実感している私とは、個別の肉体に入った「その根本観念の記憶」のことだ
  ・・それは所謂個人とか人格とか言われているものであり、
  脳に起こっている、(脳と同一化し鏡を覆っている)“全人類が等しい「私と言う観念」”の個別的な記憶のことである。
  (自我にはこの「私と言う観念」を到底生み出せない。その逆にこの自我とは
  「私と言う観念」そのものの記憶・コーザル記憶である)
  
  従って通常の肉体の死亡とは何を指しているのか?死後に継続しているもの
  とは何か?
  「私と言う観念」が、即ちこの「観念の記憶・コーザル記憶」が死後も継続しているのであり、だから死後のあの世でさえ自分が同じこの肉体の30歳くらいの顔・姿形をしてなおかつ似た様な服を着て、あまつさえ靴も履いているというのだ。
  (幽体離脱?しても魂が何故同じ洋服を着ているのか?と云うのとおなじことだ
  魂が自分は肉体だと錯覚し思い込んだのでバドル界を生み出している)
  
  だから肉体の死後、又は幽体離脱して私達が行くあの世とは記憶の世界なのだ。
  それは霊界のことではない。エレメンタルの世界なのだ。
  世界中の人類が“同一の「私と言う観念」”の個別的な霊魂であるように、それが肉体の死後その「私と言う観念」の生み出した記憶界に行くのであってアストラル界やメンタル界ではない。
  
  肉体を失っても生前と同じように食事をして更にこの世と同じ様な生活というのは
  まさにベッドに入って夜に見ている夢と同じくそれはその夢を創り出している記憶の反応(共通の記憶の世界)に過ぎない界域のことだ。
  死後に行く世界とは夢と同じプロセスが起こっているのと同じ次元・記憶の反応なのだ。それは記憶の潜在意識世界だ。
  それは幽界や霊界ではなく、まして高次元界ではない、全くあるがままではない。
  死後の世界は本当のアストラル界やメンタル界ではなくて自分の記憶の中に、沈んでいくのだ。
  自分の無意識界というものは他の人と共有構造であって「自分は個人で別だと思っていることが万人が同じで」万人が繋がっているのであるから共通の無意識界に行くのである。これが通常の人類の死後の世界だ。
  
  これはまた夢の世界でもあるが、死後も同じく夢の世界である。
  何故なら、肉体がないのに肉体があり、洋服はないのに洋服を着たり靴を履いてい
  るのだ、肉体がないのに何故食事をしたり、眠る必要がないのに何故肉体と同
  じく眠るのだろうか・・・それは記憶の中の次元だからだ
  
  それはどうしてなのか?
  私達はこの生きている間にアストラル体を再形成していないので
  死後もアストラル界に行くことはなく。メンタル体も再形成されていないから霊界にも行けない。諸体が再形成されていないので記憶界という共通の無意識界に留まっているのだ。
  けれども死後、私達の魂はこの中有界という冥界である無意識界には長くは留まっておらず、魂の内奥からの光に触れて、そしてまた物質界に戻って来ているのだ。魂から分離した記憶はサムスカーラとなってまた新しい肉体を得た魂に引き寄せられる。
  
  ではこの現世とは何か?この物質界とは何か?
  この物質界とはあの世と同じく夢の世界なのではないのか、鏡を覆っている「私と言う観念」であるマインドの世界なのだ
  そして今これを書いている物質界というものの知覚とは夢の中の世界で生きているように「曇りなきハートである鏡」を覆っているマインドの知覚なのだ
  「私と言う観念」である記憶の私が同じくその記憶の中身を内部と外部に投影して見ているのだ、即ち知覚しているのだ。知覚しているものも知覚されているものも「鏡を覆っているマーヤ・マインド」なのだ
  決してあるがままを見ているのではなくて記憶・自我が、その記憶・自我によって生み出されている「エレメンタル」を見ているからだ
  
  
  だがその自我という「私と言う観念」の記憶は、その結果である自我には生み出せない。自我・記憶も、その記憶が生み出しているエレメンタルも「私と言う観念」の結果であるからだ。
  エレメンタルは記憶が生み出し、記憶は自我が生み出し、自我は私という観念が生み出し、私と言う観念は神が生み出したのではないか
  
  自我は自我には生み出せず
  エレメンタルはエレメンタルによっては生み出せない
  それは何故かというと
  この「記憶の反応である夢」とは、とうてい自我には生み出せるものではないからだ。この分離している私とは(この自我とは)、到底、自身であるこの記憶には生み出せないからだ。
  逆に、この私という「他人とは異なっているという肉体の感覚と知覚をベースにした個人」、その個人感覚、「継続している記憶」「自我という実感」「その自我の起こしている嫉妬心」や「高慢や劣等感や自己関心」「この高度な狡猾心」これらもこの自我の私が生み出したのではない・・自我をも含めてこれらは神の芸術作品なのではないだろうか?
  
  
  自我とは神の芸術作品なのである(神は私と言う観念を使って自我を生み出している?)
  何故なら自我には自我は生み出せず
  自我の本質である記憶もその記憶の継続性もとうてい生み出せないからからである
  自我に思考や思考が生み出した錯覚を生み出せるのであろうか?
  自我こそがその思考やその思考の記憶ではないのか、
  自我に競争心や自他の分離を生み出せるのか?競争心や分離が自我ではないのか
  自我に自我の悲しみを生み出せるのか?その悲しみが自我ではないか
  自我に自我の苦痛を生み出せるのか?その苦痛が自我ではないか
  自我に嫉妬心などの妄想が生み出せるのか?自我もその嫉妬心も妄想が生み出したものなのではないか
  自我に自我自身である「自分が行為しているという錯覚」を生み出せるのか?
  この自我という個別性を生み出し、行為しているという錯覚を生み出しているのは
  同時に行為も生み出している根源である。実際に行為しているものである
  
  行為が生み出されているのと同じく、行為しているという「実感のある私」である「私と言う観念」も、その個人の実感も、即ち自我もその行為と同時に生み出されているものではないか
  神は実際に行為をしていると同時に、行為していると錯覚しているこの私という個人感覚の自我をも生み出し、それに行為しているという実感を与え、記憶という形で継続させておられるのであろう。
  輪廻転生劇場は神の自作自演の劇場であるといえる。
  
  こうして書いている私こそ、何億兆とあるその神の芸術作品の一つに過ぎないのであろう。
  神は実際には単一の「私と言う観念」を使って、さも何兆と単体があるように思っているその私を生み出し、その私という自我を通じて行為をしておられるということか
  この「何兆とある私」の錯覚として神の芸術作品を発表しておられるのは神である
  この私という自我の本質は神の芸術作品であるのだということになる
  天使も悪魔も、ホワイトもブラックも、天才もその逆も、等しく神の芸術作品に他ならない
  ・・ということを見ている眼には天使も悪魔もなく全てが神に見えているはずだ
  何故ならマーヤをマーヤとしてみているこの目には天使も悪魔もなく神の完全完璧だけが見えているはずだからだ。
  マーヤを見ている眼は錯覚というマーヤから解放されているからだ。
  
  この行為も、この意識も、この思考も、従ってこの自我も、この時空間も、神の中に起こっている神の映像という神の作品に他ならないのではないか
  それは
  この三次元の物質界に留まらず死後のあの世という冥界も然りであり
  他の平行宇宙の自然界も然りであり
  この太陽系だけではなくて他の宇宙系の現象界もそうであり
  三次元だけではなくて、アストラル界やメンタル界やそれを超えている
  次元階層世界も神の映像の一部であるということだろう。