熟睡時の意識と脳の状態
現在の私達の意識状態とは、
‘魂からの現在のパーソナリティー’が大脳としっかりと結合している状態での意識である
いまのところは、「魂である私の意識」は顕在意識化されていないのである
現在のパーソナリティーの意識が顕在意識となっているからである
そういうことであるから、真の私である「真の認識主体」の意識は
現在のパーソナリティーの状態が純粋化されておらず、透明化していないので
現段階では、その魂の内奥の意識が現在のパーソナリティーに現れ難い状態、すなわち無意識状態
となっているからである
現在のところは顕在意識の中心である現在のパーソナリティーは諸体の頭脳の中におり
その霊的諸体も霊的諸体の脳も非常に混濁化しており、純粋でもなく、透明でもない状態の意識
段階であるといえる。
この霊的諸体が開発され、高度化されていて、能力が絶大であっても、純粋化され、透明化されている
とはいえない。
私達である「現在意識という主体」が諸体の不透明な意識状態の頭脳に深く浸透しているために、その諸体
の頭脳の意識状態がそのまま顕在意識化され「これは私の意識」だ、として現在のパーソナリティーによって
錯覚されてしまっているのである
その諸体の状態がそのままに、現在の私達の意識状態として、自覚され、認識されているので、その諸体の
状態が非常に大切なものとなる訳である。
その混濁している諸体の意識の中身とは、はもちろん「分離した私という観念」でもある
その諸体の状態如何が、そのまま現在の意識として現在の私によって私自身として認識されてしまう。
このような現在意識とは、分離思考であるから「分離して認識しているもの」であり、それは同時に「対象として認識され
ているもの」である。その観念とは「分離している主体と客体」として現れている。
現在の霊的諸体が混濁し、透明となっていない状況では、本当の私である「認識している主体」「意識である主体=魂」とは
顕在化されておらず、現在のパーソナリティーによっては意識されていない。
ということは、
その魂の内奥の意識とは
現在意識によっての、日常での分離意識や認識の対象でもなく、分離している主体でもないので、
現在の私たちの諸体の状態が透明化しない限りは、その魂と魂の内奥の「認識主体」「意識主体」は顕在意
識化されないということになってしまう。
日中の意識とは、殆どが現在のパーソナリティーに生起して(によって認識されて)いる肉体とエーテル体・アストラル体・
メンタル体を中心とした意識であるし、さらにそれに付け加えて、現在のパーソナリティーが生み出した記憶である人格
そしてその記憶、それに外部からやってきた想念やエレメンタルの意識の混合状態となっているのであるけれども
それが人格障害や人格分裂、統合失調症にならないのは(現在のパーソナリティーが分裂しないのは)、主体として
真の認識主体であり、真の知覚主体である魂と魂の内奥の非二元性分離の意識によって支えられているからである
その支えによって、この現在のパーソナリティーが「これらの私」たちという種々の「私の観念」達が表出していることを
認知できているのである
スクリーンがあるので映像が流れているのを見ていることが出来るわけである。
けれども通常は現在のパーソナリティーは、これらの「私と言っている観念達」を自分の思考や感情だと勘違いして
しまっているということである。
が、もっとはっきりと観れば、現在のパーソナリティーすらもスクリーンではなくて、スクリーンに現れている映像である
からである
であるからシャンカラは、本当の「認識主体」と「意識主体」とは、この霊的諸体を中心にした現在のパーソナリティー
ではなくて(分離思考ではなくて)、魂の内奥の真我であると云っている
だが本当の「認識主体」と「意識主体」とは、顕在意識ではなくて、その顕在意識や潜在意識や下意識の
基底の意識として、それらを支えているスクリーンとしての意識なのであって、そのスクリーンの意識は
現在の意識には意識されず、無意識となってしまっているのである。
夢見の時の意識の殆どは、アストラル体と現在のパーソナリティーの記憶が反応している意識状態であり
肉体とエーテル複体の脳は、この夢を見ている時は休止状態なので、アストラル体が中心となった
意識状態が、この夢見の時の意識状態である。
この「日中の意識」も「夢見の意識」も、つねに本当の「意識主体」「認識主体」によって意識され、認識されている
のであるけれども、日中の意識状態の時と同じように、
この本当の「意識主体」「認識主体」は、現在のパーソナリティーである顕在意識によっては意識されずに、
現在のパーソナリティーにとっては「無意識の状態」のままとなっているのである
この無意識状態の原因は現在のパーソナリティーや霊的諸体の「汚れ」が原因である
現在の私は魂と魂の内奥と同じヴァイブレーションでないからである。魂の内奥に対して透明でないからである
というのも、現在意識を構成しているこのアストラル体とメンタル体と人格や現在のパーソナリティーの状態が
透明化されず、純粋化されていない限りは、魂の意識がこれらの霊的諸体を透化して現在のパーソナリティーの意識に
表面化され意識化されないからである。
魂の内奥の意識が現在のパーソナリティーに届かないのである。
この現在のパーソナリティーと霊的諸体の状態が、そのまま現在の私の意識状態となっているのである
それというのも、私たちである魂や現在のパーソナリティーは、肉体や諸体にしっかりと結ばれているが故なのである。
それゆえに、魂の意識と「魂の内奥の意識」が現在のパーソナリティーの意識に知覚され認識されるためには
この現在のパーソナリティーの状態・・即ち肉体やエーテル複体やアストラル体やメンタル体等が同時に
非常に大切なのである
これらの霊的諸体の状態によって、魂と魂の内奥の意識が顕在意識としてどの程度、意識されるかどうかが、
変化してくる。
というのは、これらの霊的諸体も現在のパーソナリティーの構成員であるからである。
これらの霊的諸体および現在のパーソナリティーが純粋化して透明化されていないかぎりは魂の意識も、
魂の内奥の意識も、表面の意識には届かず、現在のパーソナリティーにとっては魂の意識や
魂の内奥の意識は意識されないままとなってしまうからなのである
これは熟睡時の状態に対比される
夢見のない熟睡時には、肉体の意識もエーテル複体の意識も、アストラル体の意識も
メンタル体の意識も、現在のパーソナリティーの意識も、休止状態となっており
スクリーンそのものである「認識主体」「意識主体」には、まったく顕在意識の内容であるところの思考や感情や欲望や
動機や願望や目的や判断や、自他分離の二元性の認識という「自我と霊的諸身体の意識」という
ものは、発生しておらず、意識化されていない。
すなわちスクリーンには分離観念・思考が投影されていない。
熟睡時とは、純粋に「認識主体」「意識主体」である「真の私の状態」なのであるが、それを認識すべき現在意識
即ち、これらの自我や霊的諸体としての意識(分離して認識する現在のパーソナリティーの意識)
は休止状態であるので(分離して認識する現在のパーソナリティーの意識が不活性状態なので)
この熟睡時における魂と魂の内奥の意識とその高次体験や高次直覚を現在意識化することができないでいる。
現在のパーソナリティーにとっては無意識の状態であり、それを、何も見ず、何も知覚しないので、熟睡として
認識してしまうこととなるのである。
(スクリーンに何も映っていない状態のことを「スクリーン自体の意識と、この状態を観察している現在のパーソナリティー
という観察者」が繋がり結合していない状態では、これを観察している現在のパーソナリティーにとっては何も知覚しない
熟睡と認識してしまうのである)
現在意識の私は、これを無意識として、熟睡として認識してしまう、
けれども、これは単に現在のパーソナリティーにとっての無意識(熟睡)であり
これらの諸体の頭脳の意識状態にとっての、熟睡という無意識状態なのであり
逆に、魂の側から見れば、熟睡時の体験とは
意識がないのではなくて、その反対に真の意識に触れており、真の主体に触れている、ということである
この「真の意識」「真の知覚主体」「真の認識主体」というスクリーンである真の私に触れているにもかかわらず
現在のパーソナリティーや諸体の状態が純粋化されておらず、透明化されていないがために
(この魂の派出された意識にとっては魂の内奥の意識である「認識主体」「意識主体」「意識自体」に出会っている
にもかかわらず)
私達の現在のパーソナリティーや諸体の意識は、熟睡してしまっているので、この真の私の意識を認識できないでいる
それが熟睡の意識状態のなかで実際に起こっていることなのである
それと類似していることとして転生の際に起きていることが指摘される
死後における再誕時には、肉体は焼却されて、灰にされ、すでになく、エーテル複体も既になく
アストラル体もメンタル体も既になく
現在のパーソナリティーとは息とともに魂へ、情報や記憶としてコーザル原子とともに収束されている状態のなかで
この魂が、真の「認識主体」、「意識主体」、「意識そのもの」である真我に出会うのである、と
けれども
魂が再び、新たなる肉体を得て、現在のパーソナリティーが過去世の記憶を切断された状態で転生し
カルマに従っての諸体の状態として肉体の脳に結合されるとき、すなわち生まれ変わってくるとき
私たち魂は、本当の私自身である「真の私である真我」を忘却した状態で再び肉体に舞い戻ってくる
この
輪廻のサイクルと輪廻の状態を見るとき
どうしても、現在のパーソナリティーをはじめとして諸体が純粋化され
透明化されない限りは、私たちである魂にとって
魂の故郷である真の私・真我に戻ることはできないと思われる
すでに戻っているにもかかわらず、戻っていないと思っているのは
魂であり、魂が真我という、自分の内実を見ていないからなのである、
と教えられている