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意識的自己は自然の一部だ

ニサルガダッタ・マハラジは云う
「意識的自己とは単なる自然の一部分である」

(※意識的自己とは日中の意識している私のことである。
自分が行為し、自分が生きているのだと思い込み、対象知覚をしているところの脳が生み出している「現在の私
・エピソード記憶」の自己のことである。「受動的意識」のことである。
実際に行為しているのは純粋精神である根源であり、この純粋精神がシナプスを発火させ行為を行わしているの
であるから
この意識的自己の私とは、実は肉体の主体ではない。肉体は私の肉体ではなく、根源の肉体、根源の自我である。
自分は肉体のあるじで、自分の肉体だと考え違いをしているのは脳の一部の記憶であり、条件付けられている脳の
或る一部分の記憶の反応である。                                                         
肉体自体も、肉体の脳も、そして肉体の行為も、肉体の所有者も、肉体を使って行為しているものも、さらにこの
自分が肉体の主体だと思っている自我であるエピソード記憶さえもこの記憶である意識的自己のものではなくて
すべてのニューロンを正常に動かしている根源のものである。
だからニサルガダッタ・マハラジは「意識的自己は自然の一部である」というのである。     
根源が肉体を使って行為しているのだし、「自我・エピソード記憶」に対して感情や思考や感覚や体験や知覚を
起こして即ち「この記憶である自我に対して自分が生きて、判断して、選択して行為している」と幻想の実感をさせている。
日中時の意識とはこの意識的自己の意識であり、この自己意識は脳が生み出している私であり、自分が行為して
いるとの実感を疑うことのない意識的自己という受動的意識の私の事である

※無意識的自己とは夢見時の意識であり、夢を見ている私、肉体の死後、サイコ・ノエティック体で幽界に生きる私だ。
肉体の死後、肉体から離れる思考・感情体(サイコ・ノエティック体)の私のことである。肉体の脳ではなく幽体の脳の私だ          
この私とは夢を見ている時の私、または無意識の私、若しくは観察者の私と言われている私だが同じく精妙なる脳による
「受動的意識」にほかならない。
肉体は私ではなく、またエピソード記憶の私も私ではないことを観察しているのが、同様の精妙なる思考体の私である。
この無意識の私・夢見時の私とは肉体の死後シルバーコードの切断で肉体の脳から(熟睡時の意識である魂とともに)
生命に引きられつつ吸気と共に息を引き取る際に、肉体から魂と共に離れる感情思考体だといわれている。
肉体がないサイコ・ノエティック体の私とは思考感情体だから、相手の思考感情を直に読み取れるし直に意思の疎通が
できるが、そのテレパシーとは魂の内奥の純粋意識ではなく、対象を持っている分離二元の自我意識の延長である。
この無意識的自己の私は夢見時の意識であり、行為を起こさしめている純粋意識ではなく、「自我・エピソード記憶」を継続し
蓄積している「無意識」の私、潜在意識の私、集合意識の私でしかない。
行為を起こしている純粋意識が上位次元からシナプスを動かしているため、この次元では計測不能なのである。
統覚機能・魂は、この意識的自己及び無意識的自己を自己だと錯覚してしまったのである。
即ち魂とその「魂の延長である現在のパーソナリティー」は無知、無明に陥ったのである。
だからこの現在のパーソナリティーとは観察者の自己であり、無限遠点の自己であり、この自己は魂から放射されて
いる自己であり魂の内奥と統合すべき自己=魂の一部である現在のパーソナリティー・丸ぽちのないサイコノエティッ
ク体なのである。
賢者が語りかけているのはこの魂の延長の現在のパーソナリティーに対してであって脳が生み出している記憶の反応
の意識的自己に対してではない。
根源は肉体や諸体を使って行為を起こさしめて、さらに記憶の自己を生み出して自分が行為していると思うように錯覚する
幻想の自己を使っておられるのだ。
だからこの意識的自己も無意識的自己も自然の一部なのである。


「気づきとはその彼方にある。                                                 
 自己、意識的自己とは単なる自然が持っている意識に過ぎず、そのことを見ている事が気づきなのである」

(※気づきとは熟睡時の意識であり、統覚機能である魂の意識の事だ。脳幹に繋がっている生命である魂の意識の
ことであり脳が生み出している思考の私ではない。気づきとは決して意識的自己のものではない。個人の心ではない。
気づきとは私の気づきやあなたの気づきではなく、「普遍的なる気づき」なのである
「自我・エピソード記憶」という日中の意識とその継続である潜在意識の反応のことを遠点から静寂の中で見ている意識だ。
意識的自己と、無意識的自己のことを非難なく、判断なく優しく観察することが気づきの始まりといえるからである。
意識的自己である日中の意識と無意識的自己である夢見時の意識が共に静寂になり沈黙したとき、この熟睡時の意識が
意識的自己や無意識的自己の変革を起こしさめそっと姿を現しているといわれている。                                                
気づきの意識とは観照者と言われている意識であり、穢れのない魂の統覚機能そのものの意識である。受動的意識ではない。       
この気づきは真の私からの意識であり、投影された映像の記憶の意識ではない。                               
この熟睡時の奥にある意識を信頼して、意識的自己や無意識的自己自らが、これらの自らの自己を非難なく、判断なく、
愛を以て、無限遠点からこれらの記憶の反応や脳の働きである自己を見る事が気づきの始まりなのである。
意識的自己が見ているのは意識的自己に過ぎず、自我が自我を観察しているに過ぎない
観察者という自我が見ているのは、観察者という自我それ自体に他ならない
私達である意識的自己には思考なくして見る事はできないと言うことを思考が分かるのである
自我が自我を観察しているに過ぎず、自我には思考なくして見る事はできないことを自我が見る事が
浄化された意識的自己(自我)になるのである。観察者は観察されるものであることを観察者が観察するのである。
その観察者である浄化された自我とは、自我が沈黙すると言うことである、そこにもともとあった鏡が綺麗になったのである。                    
観察と観照の違い、若しくは気づきと思考との差、気づきという観照者の意識と観察者である思考・感情体の差とは、
濁っているのか澄んでいるかの違いだけなのである。思考が沈静しているとき、若しくは照見されている時が気づきに
他ならない、とニサルガダッタ・マハラジは言うのである
静寂で澄み切った心に、こそ気づきが顕れているからなのである
そしてその気づきという澄み渡った静寂の明澄なる心に魂の内奥の分離していない純粋意識の輝きが届くのである                                        

※真の私の意識、第四の意識、若しくは熟睡を観照している意識とは
この思考が透明になったときに顕れる気づきの意識より更に奥の純粋意識である。
これが真の私からの現象界への顕現であり、真の私からの真性意識である。
気づきの意識の内奥に真の私、分離できない普遍の意識が拡がっているのであり、それが純粋意識だと思われる
アドヴァイタの賢人が立っているのがこの立ち位置であり、覚者はここから話されているのである。




「肉体や世界や自と他の分離とは記憶の中にある」

放射能の汚染・地震・誕生や病気・死亡・結婚・離婚・出会い・別れ・景気・事故・失敗・成功・天才・鈍才・出来事など
は、根源から投影され脳によって知覚されている映像なのである。それらは記憶の私であり、脳で捉えていることなのである。
それは記憶である私の知覚対象であり、それらの記憶があるから、それらもまたあることが出来るのだ。また記憶の条件付けられ
た反応である恐れや不安、好悪の感情も、愛憎も「自我・エピソード記憶」という脳内の条件付けられている記憶の反応に
しかすぎない。畢竟それらは脳の内部であり、各体の脳のネットワーキングの脳内世界である。気づきは脳を超えている)

そして

「自我という記憶、連続している記憶はマインド・意識の中に表れる」

自我という「脳内のエピソード記憶」とはマインドが各体の脳にシナプスを使ってニューロンに起こしている結果である
現象であり、行為は根源のマインドから起こっているのだ。                             
各転生を通じてコーザル体に蓄積している輪廻している個人の情報・サムスカーラとは各体の脳の記憶から
成り立っており、その記憶を生み出しているのは脳が受信している根源からのマインドである。     
だからマインドがコーザル体に輪廻の記憶を連続させてあたかも魂が転生しているかのように統覚機能に対して思わせて
いるといえるのである。肉体も幽体も霊体もコーザル体も神が使っている行為する演技の媒体なのであり、行為していない
気づきの私ではない。
魂である統覚機能はそれらのコーザル体の記憶ゆえに転生に巻き込まれ、自分が行為し転生していると思っているのである)

そして

「マインド・心・意識は気づきの中に表れる」

気づきとは正しい統覚機能の内奥のこと、正しい魂の状態の事、熟睡時の奥の意識の事である
通常、魂と真我のパイプに「私ではないものを私とする無知」というゴミが詰まっていて魂が大脳と一体化し脳と一緒に
眠ってしまっているので、熟睡している大脳を観照することが出来ないでいる

意識的自己や無意識的自己のことを観照すること・・これらのことがらを意識的自己である「自我・エピソード記憶」の立ち
位置からではなくて、魂の脳幹部・熟睡の意識から観照しているのが気づきである。
この気づきとは意識的自己や無意識的自己が完全に沈黙し、静寂なとき、この澄み渡った心・マインドに本来の鏡が
姿を顕してくるのだ。そしてこの澄み渡った心・鏡に真の私の光が輝き出すのである
気づきとは統覚機能・魂の汚れていない状態の意識のことであるけれども、通常の統覚機能・魂=熟睡時の意識は、
脳と結合しているため脳内の「自我・エピソード記憶」を自分自身と取り違えている。
そして魂は、その自己を取り違えて錯覚・無明・無知ということ即ち集合エレメンタルに覆われて眠ってしまった状態に
陥っている。
魂・統覚機能の意識とは熟睡時の奥の意識の事であり、殆どの人類は自分が肉体や諸体だと信じているが為に行為し
ている身体と同一化し、その身体の自己を自分だと思って無知に覆われている
そうして熟睡時には眠っている大脳と一体化してしまっているのだ)

だから

「この気づきとは存在の中に顕れている光りの反映である」

このことを観照している魂とは真の私からの分身であり、人類の全ての観照している魂の内奥とは一つなる真の
私である。
真の私とは光であり、統覚機能からの現在意識が、脳の中で静寂で沈黙し、澄み渡った状態で、自分ではない記憶
の働きを見ているその心の中に気づきが生まれるという。
そしてその気づきこそ真の私からの光なのである)


「だからあなた自身が創造している世界と宇宙を恐れてはならない

その世界と宇宙はあなたが創造したものであるからである」


ニサルガダッタ・マハラジが此処で述べていることは明らかに気づき=統覚機能のあり方に言及し
気づきこそが存在の中に顕れている光りの反映だと言っている。これは統覚機能・魂の内奥に真の私が実在し

その真の私がわたし自身である無限の統覚機能の私(魂)を通じて内部宇宙(脳内の)と外部宇宙をマインドを使って投影し
且つそれらの次元の無限の投影された私と出来事をかくの如くあらしめ無限の全てを知覚し認識しているということである。
わたしが統覚機能という魂を経由して時間と空間を投影し宇宙を創造し認識しているのだ。と彼は語る

わたしは肉体ではないから、行為しておらず、わたしには自分と他人の区別はない。自分とそれとの区別はわたしにはない。
わたしはエピソード記憶ではなく、その自我ではなく、その自我を生み出すマインドでもその思考でもない、わたしは純粋意識である。
わたしは日本人ではない。肉体ではないからだ。わたしは時間や空間に縛られない普遍なる至高なる愛の純粋意識である。
わたしは他人と分離している個人ではなく人格でもない、わたしは全ての人と一つであり、すべてのものとひとつである。
わたしは地球人や宇宙人ではない、身体を持っていない純粋意識だからである。わたしは次元に縛られない普遍なる愛である。
わたしは肉体ではなく、幽体でもなく霊体でもなく、それらの脳でもない。わたしは何ものとも分離していない至高の愛の意識そのものである。
わたしには考えや記憶や感情や知覚や体験はない、それらは心であり。わたしは心ではない。わたしは個人ではなく全体である
わたしは個人や自我ではなく分離した魂でもない、わたしは魂の内奥の純粋なる意識である
わたしには他者はいない、救済すべき対象が存在していない。
わたしは世界そのものであり、わたしのなかに世界も宇宙もある。わたしは世界や宇宙と分離していない。わたしは世界そのものである。
わたしは脳が生み出した知覚や感覚や感情や意識ではない、それらの私と言う観念ではない。またその私と言う観念が生み出した想念でもない
わたしは魂という現象界の窓口である鏡ではないので、至ることもなく、成ることもなく、既に在る
わたしは心やマインドではないので、二元には分離しておらず、わたしには内部と外部、見る者と見られる者の区別は存在していない
わたしがないところはなく、わたしがいなかったときもない。
と覚醒した方々はいうのだ



だから如何に私達、【根源から魂として現象界に接触した〔鏡・現在のパーソナリティー・サイコノエティック体としての〕私達】
の状態が
脳の熟睡時には(私達である鏡の表面が清澄・静寂でないので脳と一体化し)眠りこけ、夢を見てしまい
夢見時には無意識的自己(再誕時に肉体と同時にコーザル体のサムスカーラに従って造られているサイコ&ノエティ
ック体/思考体・感情体の脳の自己)という夢の中身と同一化してしまい
さらには
夢から目が醒めては各種の脳の中で更なる夢(私と言う観念)に覆われて、自分が行為していると思っている記憶である自我と
一体化していても、即ち意識的自己という脳が生み出した記憶(「自我・エピソード記憶」)の私に覆われて、肉体やその
肉体の頭脳が生み出している欲望や思考や感覚に全く同一化して⇔・い・て・も


私達は絶対的に一つなのだ、意識は分割できないものなのである。私達は魂の奥の意識なのである
私達とは真の私から現象界に接触している真の私の一部分である魂であり
さらにその魂から脳内前頭葉部分に接合している魂の一部分である現在のパーソナリティー(丸ぽちのないサイコノエ
ティック体)の私だが
この鏡である私が脳と接合し、脳の中に取り込まれ、肉体をはじめ幽体や霊体に閉じ込められ、諸脳の思考や想念
を自己の意識と思い込んだ結果、自と他を分離して別々のように感じているだけなのだ。
根源がこの真の私からの魂を通じて、各諸体の脳を使用して宇宙と世界を投影し、知覚しているのである
魂も根源が使用している認識の媒体、即ち鏡なのである。鏡がなければ心という映像も投射されないからである。


だから私達は各次元の脳の中で、私達ではない無意識的自己(サイコ・ノエティック体即ち思考体・感情体の私)や
意識的自己(脳からの「自我・エピソード記憶」)である感覚や五感や思考や感情を自分だと錯覚しているのだ
こころも思考も感情も衝動も行為も脳を通じてキャッチされているものであり、それに対して、脳が生み出した自我
がさらに自分が意識していると、思考したと、行為したと錯覚している、
そうしてその自我という記憶物からの更なる条件反射によって無数の想念形態・エレメンタルを生み出しているわけだ。


その肉体が自分であり、自分が行為していると実感させ、思考も感情も自分が思考し感情しているという実感覚と
その意識を生み出しているのは脳なのである。脳が熟睡と夢見と日中の意識を生み出しているのであり、それらは脳のものだ
そしてその脳が生み出した意識を魂が自分の意識だと取り違えたのである。そして行為していると思ったが故にカルマに
巻き込まれたのだ。
その脳が生み出した意識やマインドの生み出した幻影である「私と言う観念」の私を「魂の私」と取り違えている魂を
通じて根源はこの幻影世界を知覚し認識しているのである。
だから魂は真の私ではなく、真の私の媒体であり鏡であり、窓口なのである(現象界が投影されているウインドウズなのだ)
そしてこれを書いている私とは脳と結合しているサイコノエティック体の私なのである
そしてこの脳としっかりと結びついて「行為していると実感しているこの意識的自己の私」と同一化してはならないのだ。


私達の日常の生活では、そんなことには目も遣らず
肉体や肉体の行為を自分の肉体であり、自分が行為していると信じ切っているのだ
だが
その意識そのものが脳が生み出している錯覚している意識であり、根源が脳を使ってその意識的自己という錯覚を生
み出しているのだ
それゆえに
私達はあらゆる意味合いで全く同じ様に造られていて、同じように錯覚させられている、ひとつの真我から出ている魂なのだ
現実には
私達は行為している肉体ではなく、その肉体の臓器・頭脳が生み出している意識的自己ではない
即ち頭脳が生み出した「自我・エピソード記憶」ではない、
さらに最期の息と共に死後、肉体から離れる幽体や霊体というサイコ・ノエティック体という別次元の脳でもなく
それらの数え切れない現世の記憶を蓄積している「継続している記録体(コーザル体)」でもなく
それらを自分自身だと間違ってとり違えている迷っているサイコノエティック体という現在のパーソナリティー・鏡でもなく
この「現在のパーソナリティーという私の本体」である魂でもない
根源がこれらの全てを生み出し、支え、あらしめておられるからである。


根源がこの個別の魂を通じて脳を使って内部と外部を投影し、二元分離という現象界を投影されているのである。
根源が使っている頭脳が生み出した意識や思考や自我や知覚や諸体のその行為を私だと思い込んだのは根源の窓口である
魂であり
根源はその魂を通じて脳内の宇宙を認識されておられるのである。
本当は神しかいない、全ては神であり、神が全てであり、神以外には何もないのである。
全ては神であるのに神が御自ら、神以外に分離している自己が存在しているという錯覚を現象界に於いて生じせしめられ
御自らが演じておられるのである。
その錯覚が心・マインド・意識なのである。意識・心を使って御自ら錯覚・幻想を起こさしめ知覚し認識しておられるのである。

ラマナ・マハリシは以下の様に行為に関して話している

なんであれこの身体がすること、この身体が通り抜ける体験は、

その身体が存在を顕したときに既に決定されているのである 

人が出来る唯一の自由とは努力をしてジニャーナを得ることである。 

それが彼と身体との同一化を絶ちきる。 

身体はプラーラプダによって宿命づけられた、

避けることの出来ない行為を通り抜けていくだろう。
 

人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、 

あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるかという選択の自由だけをもっているのである。