イブンアラビー
光へ向かう道「苦しみとは神へ向かう道」
以下のユーチューブからの紹介です
余りにも素晴らしいので多くの方々にユーチューブを見てもらいたいです
https://www.youtube.com/watch?v=Z6RvHRBV4rE
思い通りにならない現実
理解されない孤独
繰り返す心配の連鎖
まるで世界が、自分に背を向けているかのように感じる瞬間がある。
だが、そうしたときにこそ、一つの問いが立ち上がる。
この痛みはどこから来たのか
そして何故いま、このかたちで顕れたのか
見えない何かが、内側から静かに語りかけてくる。
苦しみとは、只の結果ではない
それは、魂が深く働きかけている証である。
眠っていた真の自己が、外の世界のかたちを借りて、目を醒まそうとしている
心が避けそうな体験の中にこそ、本当の声がある。
そこに耳を澄ませることが出来るか
逃げることは容易い
だが、向き合うことでしか見えない風景がある。
苦しみは、魂にとっての扉である
それは内へと続く道であり、そこを通らなければ、光の本質には触れられない。
問い続けることだ
これは罰なのか、それとも導きなのか
この苦しみの先に何が待っているのか
答えはいつも、自分の深いところで息づいている。
幼き日々、すべては単純だった
空は青く、風は優しく、世界はまだ敵ではなかった
だが時とともに、心は幾重にも覆われ、内なる声は遠ざかっていく。
社会に合わせ、期待に応え、評価に縛られながら、いつしか人は本当の自分を見失う
見失ったまま歩く人生は、やがて苦しみに形を変える。
それは偶然ではない
魂は、忘れ去られた真実を思い出させようとしている。
それは怒りや焦燥となって現れ、時に絶望として姿を変える
しかし、その奥にあるものを見つめなければならない。
苦しみの仮面を剥ぎ取ったとき、そこには「呼びかけ」がある
人生に於ける最大の忘れ物、それは自分自身である。
真の自己とは、外の世界では見つからない
それは内に潜み、時折、痛みという形で姿を現す
苦しみが深いほど、その呼びかけは強くなる。
いにしえの智者たちは、内なる世界を旅した
見えるものよりも、見えないものに価値を置いた。
彼らは知っていた
本当の光とは、闇をくぐった者にしか見えないことを
その闇とは、只の困難ではない
それは内側に積もった偽りの層であり、自己への無理解である。
それゆえに、苦しみは浄化の力を持つ
外ではなく、内を整えること。
答えでは無く、問いの中に身を置くこと。
自分が自分であることを、もう一度深く確かめること。
魂は忘れられることを拒む
そして苦しみという名の使者を送り
静かに、だが確かに語りかけてくる。
「此処にいる、そして思い出してほしい」と。
多くの者は、苦しみを越えた先に「終わりなき平穏」を求める
だが、真実はその逆にある
魂は安定よりも目覚めを選ぶ。
静けさの中に沈むことではなくて揺らぎの中で自らを知ろうとする。
例えば、ある者は愛を失い、心に深い裂け目を抱える
また、ある者は長年の努力が報われずに自らの価値を見失う
病が訪れ、身体の自由を奪われる者もいる
それらのどれもが、外から見れば「不幸」に映るだろう。
だが、その内側では、確かな変容が進んでいる。
苦しみは、魂を削るのではない
魂の表面に積もった余計なものを、静かに剥がしていく
誰かに褒められることや、他人に勝ること
持たねばならないという幻想や、失ってはならないという恐れ、
そうした外側の鎧が、一枚ずつ崩れていく
そして、残るのは、ただ一つの問いだ
「私とは何か」と。
立場ではなく、役割でもなく、記憶や所有物でもない何か
それに触れるために、人生は揺さぶられる。
光とは眩しさではない
それは、自分自身の本質に触れたときに立ち上がる静かな気配である
闇の中でこそ、その輪郭は浮かび上がる
誰にも見えず、誰にも証明できなくても、確かにそこにある
人生に於ける真の恩寵は「与えられたもの」ではなくて「気づかされたこと」である。
苦しみの只中にあって、なおも何かを見いだすとき
魂は自らの居場所を知る
それは表面の幸せを越えた、深い満足の始まりである
もし、苦しみがなかったとしたら、人は何処まで自分を欺し続けるのであろうか。
何一つ壊れず、揺れず、順調に運ぶ毎日の中で、内側にある空白に
気づけただろうか
魂は、時に大きな衝撃を用いて、人を目覚めへと導く。
それは表面の秩序を壊す力であり、静かな日常に亀裂を入れる行為である。
だが、それがなければ、人は本当の問いを持つことは出来ない
自分は何ものか
何故ここに生まれたのか
何を手放し、何を守るべきなのか
苦しみの中で生まれる問いは、鋭く、そして尊い
それは心の底を照らし、隠していた欲望や恐れを明らかにする
そして気づくのだ
自分が握りしめていたものの多くが、もう必要ではないことに
他人からの承認に、いつまで執着するのか
過去の失敗を、いつまで背負い続けるのか
完璧であろうとすることが、何故そんなにも苦しいのか
そうした問いが、自らを解き放つ鍵となる
視点が変われば、世界もまた変わる。
苦しみは、単なる障害ではなく、視野を開く力である。
同じ景色が、全く異なる意味を持ち始める
失ったと思っていたものが、実は不要だったと気づく瞬間が訪れる。
そうして、内側に静かに満ちていくものが在る
それは外の世界にはない種類の確かさであり
条件も比較も越えた「在ること」の喜びである
全てを失っても、なお残るもの
それが魂の居場所である
本当の導きは、声髙に語りかけては来ない。
それは沈黙のうちにやってきて、苦しみの底でそっと光る
多くを語らず、ただそこに「在る」というかたちで寄り添う
だからこそ、人は静かにならなければ、その気配に気づくことが出来ない。
問いを持つことは、答えを探すことではない
それは、答えのない状態に耐え、そこに留まるという意志である
揺れながらも、その場から逃げずにいるという覚悟である。
魂は、その沈黙の中で整っていく
目の前の苦しみが、只の苦しみで終わらないように
そこに意味を求めるのではなくて、自らが意味となるように
どこかに連れて行かれるのではなくて、自らのうちへ戻ってくること。
光へ向かう道とは、遠くにあるものを追いかける旅ではない。
それは、既にここに在るものを、深く見つめ直す行為である。
足元の痛み、胸の軋み、眼差しの奥にある揺らぎ
それら全てが、光への入口となる。
誰もが、その入口を持っている
だが気づく者だけが、それを扉として開くことが出来る。
開かれた扉の先にあるのは、穏やかな肯定である。
何も変える必要はなかったと
どこかで知っていた感覚である。
苦しみを通じて、魂は深くなる。
深くなることで、世界は静かに変わっていく
変えるのではなくて、変わるというかたちで
それが魂の仕事である。
風が止み、光が差すとき、ようやく気づく、
あの嵐こそが、自分を整えていたのだと
何も見えなかった暗闇が実は内なる目を開かせるためのものだったと
苦しみは過ぎ去り、だがそこに残されたものは、かっての私ではない。
全ては戻る為の旅だった
どこかへ行くのでもなく、何かを達成するのでもない
ただ本来の場所へ、静かに立ち返るために
その道すがら、失しなわれたと思っていたものが、実は最初から自分の中に在ったと知る。
光とは遠くの星ではなく、いま、ここに息づくあり方である
誰かに証明されることも、他と比べられることもない
それは、ただ「在る」ことに、深く根差している。
呼吸のように、沈黙のように
苦しみを越えた者は、語らない。
語る必要がないほど、すべてが澄んでいるからだ。
その背に宿るものが、静かにまわりを癒やしていく。
他者を救おうとするのではなく、自らが整っていることが、周囲を照らす。
人生の意味を探し続けるのではなく
意味の無い瞬間にも、意味を見いだせるようになること。
光とは、そうした柔らかな眼差しである
苦しみは魂の仕事だった。
それは、何かを壊すためではなく、思い出すための働きだった
真の自己へと向かうための、遠くて深い呼びかけだった。
その声に耳を澄ませた者だけが、静かな光の中を歩みはじめる。
「あなたの中に宇宙がある」イブン・アラビー
あなたの中に宇宙が有る。
沈黙の奥にあなたは何を感じるだろうか?
外の世界はつねに動き続けている。
目に見えるもの、
手に触れるもの、
言葉として発せられるもの、
人はそれを現実と呼ぶけれども
本当の現実は
その奥にあるものだ。
私はあなたに伝えたい。
あなたの中に宇宙が有る。
それは詩ではない
比喩でもない
それは、
全ての存在が静かに息づいている“現実”だ。
この世界は
一つの息から生まれた。
無限の優しさをたたえたその息は、
音を持ち、形を持ち、文字を作り、世界を開いた。
あなたもまた、
その息から生まれた一つのあらわれ。
つまり宇宙は
あなたの外に在るのではなく
あなたの中に映し出されている。
心を深く見つめてご覧。
そこには、説明できない「何か」が在るはずだ。
それは意識の奥に
静かに拡がっている。
「雲」のような場所。
まだ何も形を持たず
けれど、全ての可能性を孕んだ空間。
私はその場所に「雲」という名を与えた。
世界はそこから生まれ
又そこへと帰って行く。。
その雲は遠くに在るのではない
今此処に
あなたの心の奥で
静かに存在している。
誰もがそこへ帰ることが出来る。
思考が静まったとき、
言葉を探す必要がなくなったとき、
ただ「在る」という感覚だけが残る。
その「在る」という感覚こそが
あなたの本質だ。
名も、形も超えた場所で
その感覚の奥を
もう少しだけ覗いてみてほしい。
そこには限りない拡がりと
静けさをたたえた宇宙が静かに在る。
あなたはその宇宙の一部ではない。
あなたはその宇宙そのものなのだ。
友よ
あなたの中にある
「雲」のこと
少し思い出してくれたかな、
まだ、かたちをもたず
静かに満ちているその空間。
言葉になる前の想いが
息を潜めて揺れている場所。
そこは只の空っぽではない。
全ての可能性が
沈黙の中に抱かれている。
まだ芽吹く前の種が
土の中に眠るように
あらゆる世界は
その雲から芽を出し
かたちを持って行く。
けれど、この雲は
あなただけのものではないんだ、
それは「存在すること」そのものなんだよ。
この世界には無限の界層がある。
目にみえるもの、
見えないもの、
石や木や星、
人間の感情、時間の流れ
それらすべてが
存在の一つの段階であり
それぞれに「神の息」が
形を変えて流れている。
でもね、それは縦に並んだものじゃない
上下ではない。
すべてはあなたのうちに折りたたまれている。
あなたは世界の中心ではない。
でも同時に、
世界そのものでもあるんだ。
なぜなら、全ての存在が
あなたという「鏡」に映っているから。
この鏡はただ映すだけではない
世界を反射しながら
同時にその意味を問う。
感情が動くとき
それはあなたの内なる
宇宙がさざめく音。
出会いが起こるとき、
それは宇宙があなたに語りかけている証。
だからね
あなたが誰かを見ているとき
本当は、自分自身の中にある
何かを見つめている。
優しさも、怒りも、羨望も
それはあなたの宇宙が
あなたに語っている言葉なんだ。
この世界のあらゆる存在は
神の自己開示として
あなたの前に姿を顕している。
そして、あなた自身もまた
神が「自分自身を知るため」
に写し出した一つの姿。
だから、あなたの中に
宇宙が有るというのは
あなたが特別だからではない。
それは、全ての存在が、
神の光を宿しているという、
静かな真理。
この気づきの中に入っていくと、
境界はだんだんとかすんでいく。
わたし、あなた、
あの人、あのもの・・・・
それらすべてが
一つの呼吸の中に
溶けていく感覚を持ち始める。
友よ
それを不思議に思わないで下さい。
むしろ、それが本来のあなたのあり方なのだ。
あなたのなかに世界があると言うことは、
あなたが世界をやさしく
抱きしめられる存在だ。
と言うことである。
さあ友よ
ここまでゆっくりと
あなたの中の宇宙を見てきたね
ではもう一つだけ
深く静かな問いを一緒に見つめてみよう。
わたしとあなたの間に
本当に何かがあるのだろうか?
あなたという存在と
世界という現象、
それはまるで
別々のもののように、
思えるかも知れない。
でも本当はどうだろう。
その分け目は何処にある?
その境界線は、どこから来た?
私が見てきたのはね、
すべてが「一つの存在」、
として流れているという真実だった。
わたしたちはそれぞれに名を持ち、
形を持ち、
思考を持つ、
けれど、そのすべては
ただ一つの「在ること」が
さまざまな姿になって
あらわれているだけなんだ。
あなたが「わたし」と呼ぶもの
それは、たったいま
この瞬間も変わり続けている。
感情が移り、身体が成長し、
考え方も変わる。
それなのに、なぜ「私」は
変わらずにここにいるのか?
それは「わたし」が
本当は名前やかたちではないからなんだよ。
真の「わたし」とは
その変わっていくすべての背後で
ただ在り続けている
沈黙のような存在。
そしてね、あなたの中の
その「わたし」は、
わたしのなかの「私」と
何の違いもない。
わたしたちが別々に見えるのは
丁度、光がガラスの中で、
別れて映るのに似ている。
光は一つ。
でもその映り方が違うだけ、
角度や表面や色によって
違って「見える」だけなんだ。
だからこそ、私は言うんだ。
「わたしとあなたの間に
本質的な違いは無い」。
「あなたの見るすべてのものは
あなたの中にある神の光の映り」。
世界を見るとき
それは世界そのものを
見ているのではなく、
神があなたの目を通して
自分自身を映しているんだ。
誰かの悲しみを見たとき、
あなたはその人の中の光が
弱まっているように
感じるかも知れない。
でも、それはあなたの中の光が
共に揺れているからこそ
感じ取れるものなんだよ。
だから、どんな存在にも
やさしくあろう。
どんな心の動きにも耳を澄ませよう。
なぜなら、それはあなたの宇宙が
語っている声だから。
あなたはわたし。
わたしはあなた。
その深い理解が生まれるとき、
世界は不思議な静けさに包まれ始める。
友よ、
もう分ける必要は無い。
区切る必要も、争う必要もない。
すべては、ひとつの呼吸。
一つの光、一つのいのち。
そしてその中心に
あなたは、やさしく坐っている。
友よ
ここまでゆっくりと
静かな旅をしてきたね。
外の世界では
何も変わっていないように
見えるかもしれない。
けれど、あなたのなかでは
静かに何かが
開かれ始めている。
気づいているだろうか
あなたが問いかけを重ねる度に
言葉は優しく解けて
「わたし」という輪郭が、
そっとかすんでいったことに。
そしてその奥から
とても静かな
でも確かなものが
姿をあらわしてきたことに。
「ただ在る」という感覚。
名前も、役割も、目標もいらない。
何かになる必要も、
何かから逃げる必要もない。
ただ、在る。
それだけで、すでにすべてだった。
この「在ること」こそが、
宇宙の根であり、
あなたのもっとも
深い本質でもある。
それは遠くの星々の向こうにあるわけでも
難しい理論の中に
隠されているわけでもない。
いま、ここに、
息をしているこの瞬間に
あなたはそのままで、完全だった。
問いを繰り返すことは
必要なことだった、
「わたしは誰か?」という問いは
あなたを深く内側へと
導いてくれる灯だった。
けれど、旅の終わりには、
その問いさえも、そっと手放していい。
なぜなら
「答え」ではなく「在ること」こそが
すでに答えだったから。
友よ
この気づきを、日常に持ち帰ってほしい。
朝の光に包まれるときも、
誰かに声を掛けられたときも、
心が揺れたときも、
すべての瞬間に、
「神の眼差し」が宿っていると知ってほしい。
そしてその眼差しは
決してあなたから
離れたことはなかった。
むしろ、あなたが
その眼差しだったのだ。
だから、もう焦らなくていい。
どこかに行こうとしなくていい。
何かになろうとしなくていい。
あなたは
もう宇宙の中心に還っている。
やさしく、静かに。
ただ、そこに在るだけで
すべてが、あなたの中にある。
すべてが、あなたである。
この広がりを
忘れそうになったときは、
また目を閉じて
静かに呼吸してごらん。
そして、
何も持たず、
何も求めず
ただ「在ること」に
身を委ねてごらん。
それだけで
もうあなたは
この世界と一つになっている。
あなたは神以外のものを見ることが出来ない。
神以外は何も存在していない。
見る者は神であり、見られるものも神である。
見る者は神であり、見られるものも神である
自己を知るものは主を知るものである。
あなたが自己を知るとき、あなたの自我は消え
自分は神以外のものではないことを知る。
見る者は見られるものである。
知るものは知られる者である。
創造主と被創造物、知覚者と知覚される対象、
それらは一つであり、神以外のものはない。
神に融合する者は神をおいて他にはない。
何故ならば、神から分離しているものなど何もなく
神から分離するものも神をおいて他にないからだ 。
見る者は神であり、見られるものも神である。
あなたは、自分が自分であると考えたが、
しかし、あなたはあなたではなく、そうであったことは一度もない。
もしあなたが、あなたであるのなら、あなたは主であり、
二人のうちの二番目となる。
そう考えるのをやめるように。
神の存在とあなたの存在の間に
何ら違いは無い。
神はあなたと違わないし
あなたは神と違いはない。
無知によって自分は神ではないというなら、
あなた頑固者だが、
しかし無知が消えれば、
あなたは従順な人だ。
あなたの融合とは分離であり、
あなたの分離とは融合。
あなたの距離は近接であり、
それにより、あなたは適者となる。
知性を捨て、啓示の光によって理解する。
そうすると、あなたが守っているものは
あなたから逃げ出さない。
他を神と結びつけることで
あなた自身を堕落させてはならない。
他を神と結びつけることは
堕落だ。
疑念も不確実さもなく
私は主を通じて主を知った。
私の本質は欠如や不完全さがなく
まさに神の本質。
それらの間に他者性はなく
私の自己は見えないものが現れる場。
私は混じり気や傷のない
自分自身を知ったので
距離や近さもない
最愛のものとの融合に達した。
与えることも、混ぜることもなく
私はあふれるほどの贈り物を受けとった。
私の自己は神の中で消えることはなく
消えた者が残ることもない
自己を知るものは
神以外の何も見ないが、自己を知らない者は神を見ない。
自己を知るものは神を知るものである。