不二一元への試考
不二一元とは何だろうか?
二元は一つであるということだ。二元に見えているものは一元であるということ。即ち二元は実は一つのものが二つに顕現しており
その二元とは、同じであり、二つではなくて一つだという教えだ。実相と現象は一つと言うことだ。
不二一元とは、二元が実際は一つであることを示しているのだ。
不二一元とはアートマンはブラフマンであることを示している。
行為がある次元は、行為がない次元があるから存立していると。
瞑想も解脱も解放も起こる事であり、それは既に在ると、既に起こっていることであると。
なぜなら自我は根源の演技(コーザル体)であり、根源しかいないのであるから。
そのことに関連することが、熟睡に於いても垣間見ることが出来るだろう。
熟睡とは大脳の休止状態であり、熟睡中には「心という対象で成り立っているもの」が統覚機能では知覚されていない状態であるという。
統覚機能は諸体を引き連れ大脳から離れており、ハートには生命という真の私が対象知覚されることなく息づいている状態である。
即ち「心という二元のもの」が知覚されていない状態であるが、意識は見ている状態だと言われている。ただ対象がないのである。
対象知覚してしまう、統覚機能がいないからであり、大脳はそのとき休止しているが脳死しているわけではない。生命は意識(非対象の)
と共に肉体から離れていないからである。離れるときは統覚機能は諸体と共に生命の中に入って息は引き取られるのである。
脳に接点を持っている「鏡である意識=心」は、見ているのであるが通常は自身の外側を見ていると。
その「鏡である意識」がその意識自身である内側ではなくて、その意識を取り巻いている外側を自分自身と錯覚しているがために、
何も思考や心がない状態、即ち対象が知覚されていない状態を、その現在の私は何もない状態=熟睡=無意識だと間違えるのである。
現在の私とは脳の状態でもあるからである
熟睡とは無意識ではなくて意識の状態なのであり、その意識が外側を向いているので対象がない状態のことを(二元という知覚がない状態)を
「何もない無意識」と捉えているに過ぎないという。それは思考やマインドが知覚されていない意識状態なのであると。
分離している私が知覚されていない状態が熟睡なのだ。
すなわち実際には、熟睡とは意識にとって「対象知覚という心」が不在の状態なのであり、意識は覚醒時にも夢見時も熟睡時にも見ていると。
だからこそ、それ故に、大脳ではない呼吸や血流や他の中脳や小脳はきちんと熟睡中も働いているのである。
大脳新皮質といわれる脳の部分が活動を休止している状態を、その大脳と一体化してしまっている統覚機能の部分が自分は熟睡していると捉
えているのであると。
大脳が受信している心=思考=二元・分離が大脳が休んでいるので休止されており、大脳に位置している一部の意識には心が知覚さ
れていない状態であり、その心と一体化している「統覚機能の意識」は眠っているのではなく見ているのである。ただ外側を見ている。
意識は大脳ではないので眠ったりはしないと。けれども意識が外を向いているので「心の不在」を見ているのである。
それを熟睡と捉えるのは意識の一部が意識自身の内側を見ていないから、意識ではないものを意識だと錯覚しているのだ。
その熟睡こそ“心という「対象知覚」がない状態”であるから、意識の一部はその知覚がない状態を見て錯覚しているが、眠ってはいないと。
それ故に、翌日、大脳が醒めた後は同じ意識が、再び心という二元に覆われてしまうことが可能なのである。そして自我がまた現れる
心が知覚されるとき、自我が出現し、肉体や諸体が出現し、世界が出現し。思考と行為が出現し映し出される。
即ち大脳の休息を経て「私という観念」が再び大脳に出現したのである。即ち私・自我が朝ベッドから目を醒ましたのである。
しかしこの無知の心が続いている最中でも、意識は24時間継続して途切れることなく絶えず観照している。意識という鏡であるからだと。
ではこの熟睡時に大脳から離れている統覚機能・心とは一体何なのであろうか?それは二元・分離から成り立っている限定された時間
空間だ。それは根源によって使われている心である。
真の私とは意識であり、意識が自身であるから、肉体や各身体や思考や心は真の私ではない。意識を理性や知性では触れることは出来ない
逆説や言葉や心では意識ではないものを「否定的接近」で表現するしかない。
では意識自身ではない心とは(意識自身ではない二元とは)一体何か?
その心とは、「分離している私」の感覚、そして主体と客体の分離感覚であり、時間と分離空間である。
その心であるマインドの中身とは相対立している観念から成立している。それらは一見すると、全く正反対のもののように
見受けられるけれども、実際にはそれは全く同じものなのであると思われる。
片方は片方が有るが故に存在している。それを全く別のものとして捉えていることが二元の状態なのであり、それが錯覚なのである。
実際には一つであり、二つではないのにそれを別々の全く正反対のものと捉えてしまうことが心の特徴である。表裏は一体であると。
そして、その二元を一つのものとして見ることが照見であり、意識なのであると。それを正しく見ているのが真我の自分自身であり
その二元を二元として別個の分離したものとして見ていることが「私という観念」の実感なのである。それこそが我性である。
■「私」は在る!「私」は知覚の対象では決してない!知覚の対象、超知覚の対象、直覚の対象は決して「私」ではない。感じる対象は「私」
ではない。感じる事が出来るものは「私」ではない。感じているものも「私」ではない。「私」はあらゆる霊的知覚をも超えている。霊的知覚では
「私」ではないものを知るだけだ。
「私」は実在している。「私」は無限であり、「私」は普遍であり、「私」は既に在る。知られうるものは「私」ではない!
知覚されうるもの、感じられ得るものは「私」では決してない!
「私」がないときもなく、ないところもない。「私」は対象ではない。対象を知覚している私とは「私」ではない。
ゆえに
「私」は決してあらゆる種類の知覚の対象ではない。肉体の目による対象ではなく、精妙体の目による対象ではなく、あらゆる
知られること、知られうる知覚の対象ではない。何故なら見ている「目」そのものであるから。「私」は全ての目を通じて見ている。
「私」は見ている。「私」は対象なく見ている。「私」は知覚そのものを見ている目であり、純粋主体である。「私」は在る。
如何なる目によっても「私」は知覚されない。見ているからだ。見られ得るもの、知られうるものは「私」ではない。
「私」は見ている。
何故なら「私」はいかなるときも見ており、「私」は在るからだ!既に「在る」。「私」は目そのものである。
■「私」は知られない、知られうるものは「私」ではない。知られうるものは、認識の対象であり、知覚の対象であり、知識の対象である。
私は対象ではなく、認識そのもの、主体そのものである。「私」は客体を持たず、対象が存在していない。なぜなら普遍であり、全てであり、
「私」は一つであるから。
「私」には対象はない。分離なく認識しているもの、主客の分割なく見ているもの、「目」それ自体であるから。見られうるもの、
知られうる私は「私」ではない。全ての中に「私」はあり、「私」の中に全てがあるからだ。
如何なる最高の知識や、神知の知識や、精緻なる理論や、哲学や、科学や、霊眼や、直覚でもって、認識し、知ること
ができるもの、それは、決して私ではない。
私は知識や思考で知られることはない。私は思考なき智慧そのものであって、智慧の対象ではない。知られうるものは「私」
ではない。如何なる神知の知識も私に至ることはない。「私」を知ることはない。
「私」は知覚や感覚の対象ではなく、知識の対象や智慧の対象や、直覚や最高の目の対象ではない。「私」は目それ
自体であるから。
「私」は在るものであり、チャクラやクンダリーニなどによって表現されるものを超えている。「私」を対象として見ることは出来ない。
「私」は分割されず、判断されず、決して対象にはならない。私は全てを見ているもの、全てを知っているもの、全てであるも
のである。決して見れるもの、対象を持っているもの、知られるものではい。「私」は対象なく見ており、知っているからである。
■「私」は至らない、成らない。成るものや、至ることが出来るものは「私」ではない。「私」は瞑想や修行の結果ではない。
「私」は至ることの基定である時間や空間を超えており、如何なる時間や空間に縛られず、時間や空間にあるものではない。
「私」は在る!瞑想や修行の結果として解脱したり、悟りを得て至ったものは「私」ではない。時間の経過として至ったもの
は時間であり「私」ではない。「私」は時間の中には、ないからである。
「私」は解脱や悟りの結果ではない。悟りや解脱は至ること、成ることであり。「私」は悟りや解脱ではなく既に「在る」!ことだ。
「私」は至ることはない。「私」は既に在り、既に解脱し、既に全体であり、既に悟りそのものであるから。解脱しようとしたり、悟
ろうとしていて、その手段や方法を模索し実践するものは決して私ではなく、それは時間の範疇にあり、過去現在未来という
マーヤであるものであり、時間を超えている「私」ではない。「私」は至ることはない、既に至っているからだ。
瞑想したり、修行して真我に至ったり、実現するのではない。既に「私」は真我なのである。
時間を介在させてはいけない。時間が錯覚なのであるから。
「私」とは時間や空間を超えており、既に今此処に在り、至ること、時間ではないものなのであるから。時間の中では「私」
ではないものを私と錯覚することが待っているのみである。時間を照見せよ!。時間は存在していないのだ!。
「私」とは、主体それ自体であり、全てのものの主体である。「個人を見ているその統覚機能」を見ている全てであるものである。
「私」は非二元、非分離であり、「私」を分割したり、分離することは出来ない。「私」には時間はない。
私は意識であるから、普遍の意識であるから、純粋の意識であり、分離し主体と客体に対象化することもなく、されることもない。
■光りと闇とは不二である。
闇があるが故に光りは光りと知覚されるのではないか。闇がある所に闇はなく、光りがあるところには闇はない。
この光は内奥の真我の純粋意識であり、闇とは無知であり、自らを知らないことである
錯覚は根源が使役している、と言われている。その錯覚とは根源の食料であると言われてもいる。
光りだけの場合には光りは知覚されない、光のために闇はある。光りの知覚は闇を必要とする。光りは闇と不二である。
不二一元は知覚を超えており、光と闇の知覚を超え、光と闇の相克を超えている。
光と闇の区別、光と闇の知覚は心という二元に属しており、不二一元である意識には光と闇を超越している。
■白と黒とで開展している
キャンバスとは白紙であり、それは透明であり。白でも黒でもない。白と黒の区別、知覚は心という二元から生じている。
白と黒の識別は心で成り立っている。
心ではない不二一元の意識があるところ、そこには白と黒、ブラックとホワイトの区別は超越されている。
白というホワイトを認識しているところには黒であるブラックも内在している。白は黒が、黒は白を、相互が拮抗して補完し
現象界が開展している。
■憎しみと愛情(愛ではないもの)は異ならない
憎しみを観照している中には憎しみはない。同じように愛情を観照している中では愛情を超えている。そこに
好悪、愛憎を超えた愛があるからだ。この愛こそ心ではない不二一元の精華であり本質であるといえる。
自他の分離区別、または自分は誰それを愛しているという自己意識こそ心という二元の状態であり
我性の本質であるもの、即ち自他を分離している心の働きでもある。
同じように私は謙虚である、私は高次の意識である、私は真我であるという、自意識。その自他に分離した自己意識
こそ真我ではないマインドの状態であることを証明している。非思考の中には自己という自己感覚はなく、愛憎はない。
マインドはない。愛があるからだ。従って、心であるところの「自分は悟った」「我は神なり」という自我意識はない。
■善と悪は表裏である
善であるということの自覚とは悪を含んでいる。善といえるには悪が必要であり、同様に悪との知覚判断は善の観念
を前提としている。両者は相互に補完し、共にマインドの中だけにある。
悪の中に善を見、善を善と見ているのが意識である。
虚偽を虚偽と見て、虚偽の中に真理を見、真理を真理と見ている事が不二一元の目である。虚偽とは悪ではない。
悪を愛の中で見ているとき、そこには悪は存在していない。それを見る事が正見である。
悪を悪と見ているのは二元の心であるに過ぎず、それは如何に精密精妙であっても分離二元の思考であるに過ぎない
不二一元であるとき善も悪もなく、白も黒もなく、限定された時間も空間もなく、私も貴方もない、思考が無いからだ。
そこには自他の分離がなく、悪はなく、善もなく、愛しかない、至福しかない。無限しかない。
■私は思考しない、していない。私は知覚しない、していない。私は行為しない、していない。私は知ろうとしないし、知らない。
私は「私と言う観念」であるところの、自分が行為し、自分が思考し、自分が欲望し、自分が悩み、自分が苦しみ、自分が
知覚しているという実感とその信仰を持っている自我ではない。それらの起こっている行為が、思考が、欲望が、感情が、
五感が、知覚が「私と言う観念」そのものであり、自我そのものである。それが記憶であり、所謂全人類共通の私である。
それが脳の条件付けによって発生している私と言う観念の私である。
根源がその思考である私を使って演技しておられるのである。
その私とは思考であって意識ではない。心が生み出したものは意識ではなく記憶であり、記憶の反応であって「私」ではない。
私とは「私と言う観念の私」にとっては未知なる私である。知ることのない即ち知覚や思考や心の対象ではない私である
思考している私、行為している私、欲望している私、知覚している私とは、私と言う観念であって心が生み出している虚構
映像に過ぎない。その知覚している私、即ち知覚は「私」ではない
私は知ることをしないし、知ることがない、知識によって束縛されない、即ち私は知られないし、私は知らない、何も知らない。
私は理解しているので知らないことで全てを理解している。
■敵も味方もない
敵とは味方であり、味方とは敵である。この敵と味方を区別し、それを知覚している状態こそ心であり、二元の錯覚である。
心とは私ではない。私は心ではない。私とは敵でも味方でもない、男でも女でもない。個人でも民族や集合や地球人でも
ない。その個人の集合でもない。意識とは心の拡大ではない。意識がないところはなく、ないときもないからである。
意識には敵もわたしであり、味方は敵と同じくわたしであり、敵も味方もない、敵と味方の双方の中に全く同じ一つの意識
「私」を見ており、両者の中に「私」が生きているからである。
■内部と外部は一つである
外部は内部であり、その外部である内部とは外部であるにも拘わらず、外部と内部を分割し、自他を分離し、時間を
過去現在未来に分離し、空間をこことあそこに区別し、私と世界を、私と宇宙を分離させ、行為を自分がしているように
思っているもの・・・それが全人類を等しく覆っているもの、即ち無知であり、無明であり、マーヤである。
日中の覚醒時の意識を覆い、夢見時の記憶の反応であり、熟睡時に不在のもの・・それが無知・無明である
その無知・無明こそ、自身が自分だと思っているものであり、全ての人類において自分が肉体だと思っているものである。
そしてその無明が、行為している肉体を見て自分が行為していると思い、その記憶が統覚機能に収納されて、魂は
自分が肉体時に於いて行為して、いると思うが故にカルマが発生しているのである。カルマがDNAを操作している。
統覚機能は内部に非常に近い「私」の一部であるが、しかし外部であり、その魂である統覚機能は内部ではない
「私」である意識は、思考ではなく、行為しておらず、人格でもなく、自他の分離もなく、内と外の分離なく、世界との分離もなく
真我との分離もなく、全体と一つである。「私」は神のマーヤである時間・空間に縛られていないので輪廻転生している
システムに縛られている魂ではない。自由なるものであり、行為させ錯覚を起こさしめているマーヤを生じさせている
御方と一つであり、御方と分離していない私である。故にアートマンはブラフマンである。
■男は女である
性同一障害に見られるように、肉体と魂の齟齬に苦しんでいる人は多いが、その魂の性別こそ二元の心である。
不二一元は性別を超越している。意識には男も女も私も貴方もない。区別はない。区別があるのは心であるから。
あるがままを観照している目には男も女もなく、意識には性別はない、何故なら意識は部分ではなく全体であるからだ
性同一障害を引き起こしている魂こそ心の領域にあり、それは自身ではない、自身の内奥ではない、「私」ではない。
■進歩は退歩である。下手は上手である。凡才とは天才である
進歩している私とは誰か?退歩する私とは誰か?才能が継続しているサムスカーラとは魂の属性ではあるが「私」
ではない。では、その才能の持ち主の魂とは誰か?それは神そのものであって分離した魂や、個別の私のものではない。
魂は神の一部であり、神のものである。魂の私が実在ではなくて、全体である神が全ての魂の親なのだ。
悟る私とは誰か?混迷に堕する私は誰か?誰が成就するのか、誰が成就しないで転生しているのか?
悟る私は、「私」ではない。それは「本当の私」ではない。意識は既に意識であり分離しておらず悟ることはないからだ。
既に悟りそのものであるからである。
上手は下手であり、下手は上手だ。凡才とは天才であり、それらは全て等しく根源が演じている自我達である。
個人・自我・私は神の道具である。真我は個人ではなく、全体であるのだ。全ての魂の内奥である。
個人・自我を使って根源が演じているのである。魂の内奥に於いては自他に分離できるような、あなたも私も存在し
ていない。「私」とは一つの真実の私、普遍なる私だからだ。
■苦は楽である、快楽は苦痛である
苦痛と快楽、好きと嫌い、成功と失敗、金持ちと貧乏、防衛と攻撃、頂点と底辺等は相互に支え合って存在している。
それらの知覚、判断、評価それは同一のものを誤って錯覚しているのだ、即ち、その錯覚とは心の構成物である。
心こそ愛憎、好悪、悟りと迷妄、成就と堕落、頂点と底辺、社長と部下、私とあなた、金欠とセレブ、悪魔と天使、白と黒
自我と真我という相反するものによって成り立っている。それを分離して捉えているのが思考だ。心も思考も錯覚なのである
意識にはそれらの錯覚は存在せず、判断や評価や階位はない、真実の愛があるからだ。それは分離がない意識だ。
■最高は最低である。トップはビリが成立させている
最高と言うことは最低が成立させているのだ。最高とは最低があるが故に成り立っている観念であり、私が一歩先を
歩んでいるということは、私は一番最後尾だということだ。
直覚とは私をあなた方と全く区別していない意識であり、それは私やあなた方を全く同一の真の私として等しく見ている
からである
到達すること、成就とは、成就していないものを含んでいる。最後尾があるが故に先頭がなりたっているからである。
一番はビリがあるが故に成り立っており、その一番を求めること、自分に覚醒を求めることが無明の心の働きである。
それが我性の働きである。なぜなら意識は既に此処に在り、既に悟っているからである。
オリンピックをはじめとしての競技だけでなく、社会に於いても、家庭に於いても、一番であろうとし、最高であろうとする、
その悟ろうとすること、又その悟りの為の手段を求めること、そのものが無明である我性の働きなのである。
心という二元があるとき、分離葛藤があり、常に解脱をめざし、悟りをめざし、最高を目指すのである。
その思考が目指している最高とは最低なのだと言うことが、思考には分からないのだ。
■神々と悪魔は、共に心の中にある
諸宗教の神々も悪魔も心を離れて存在することは出来ない。心を基底である意識が支えているが故に、それら
の上昇と下降の働きを持つものが、心の世界に於いて存在することが出来るのである。
だが、それは心の世界である現象界に於いて、根源のお役目を遂行しているものなのである。
二元分離の次元を超越している不二一元の中には、それらのものはともに一つの真我の中に溶解している。
神々も悪魔も共にマインドの次元に於いてのみ存在することが許されており、それら全ての次元を支えている次元なき
純粋意識の中では神々も悪魔も、唯一なる神の中で一緒に笑っている。それは根源のお役目の一つなのである。
■過去は未来であり、未来は過去である
過去は未来であり、未来は過去である。それらは時間の流れの中に存在しており、この時空間がないとき、それはない。
時間がないところには、過去も未来もない、今があるからであり、その今は全ての時間に常に実在している。
過去も未来も記憶が支えており、記憶とは思考であり、心の一部分であるものであり、根源のマーヤであるものである。
それは真実在の真我には存在していない。真実在の真我の中には記憶や過去や未来はない。
過去や未来を持ち、過去生と来世を持っているものは記憶であって「私」ではない。それは神の演技としての自我に過
ぎない。真の私はその自我・記憶ではなく、その記憶を自分だと錯覚している統覚機能・魂でもない。
真の私とは統覚機能・魂を観照している「全てである純粋精神」であるものである。
■出発点は到達点である
スタート地点とは到達地点である。道があり、頂上があり、道を上っている私とは「私」ではない。
出発点と通達点、改善と「〜に至ること」、悟ること解脱することこそ時間が生み出した錯覚であり、心の次元の虚偽である。
それは神の演技されているこころである。その自我も山頂も、その登り道もこの現象界にのみ存する。心にのみ存している。
エベレストという解脱を目指して登頂しているものは私ではなくて、「自我という」もの、即ち神が演技している映像であるものだ。
「私」は既にスタート地点であり、到達点であり、山の裾野であり、山の頂上であり、その登坂している私達である。
「私」には登ることはない、何故なら「私」は山であり、谷であり、出発点であり、その到達点の頂上であるからである。
■継続し、持続するものは記憶であり、意識は日々新たである
輪廻し、持続している者、ベッドから毎朝同じように目を醒ます者、それは継続している記憶であり、私ではない
意識の「有情無情の全体である私」は、この持続している私にとっては未知なる者であり、日々新たなる者である
それに反して継続している自我(私という観念)は思考であり記憶から成り立っており、それは継続している
時間を本性としているからである
私は継続しない、瞬間瞬間新たであり時間を超えているからである
■選択する者は思考であり、心であり、分離している。自由なる私は選択しない
選択があるところ束縛があり、私ではない私とは記憶であり、観念によって束縛されている。束縛があるから選択している。
選択とは行為を目的としている、行為がない所には選択はない。選択は自我を前提として、自分が行為しているという
錯覚を前提にしている。意識であるとき、そこには行為はなく、従って選択はない、自由であるからである
選択は自分は肉体であるという観念を前提にしている。私が意識であり肉体ではなく、思考でもなく、心でもないとき
そこには選択はない。あるがままがあるがままにあるからである。
■自我と真我と異ならない
なぜなら、神以外には何もいないからであり、神以外の私はないからである。全ては神だからである。
真の私は全てであり、すべてが「わたし」の中にあり、何も分離していないので、起こっている全ては完全完璧の中で観照
されているからである。その観照している中には、思考はなく心もなく全ての全てである愛だけが全てに実在している。
真我の目の中には対立しているもの、分離しているもの、次元の差別や段階は存在しておらず、同時に完全完璧として
存在している。なぜならあるがままを見ているからであり、思考や心が見ているあるがままとは、あるがままではなくて、分離と
いう幻影を見ているからである。
真我の目には真我を見ており、あらゆるものが真我であり、全てが一つであり全てが神である。
その目でもって自我を見るときには、自我は真我そのものと成っている。その目が愛であるからだ。
その目の中には自我はなく、そこには一つなる真我しか見えないのである。
■見るものと見られるものは同じである
見ているものとは観察者ではなく正しい意味ではアートマンである。即ち真我であり、非対象で非思考の至高の意識である
このアートマンによって看破されているものとは心であり「主体と客体」によって成り立っているこの脳内投影世界である。
そしてアートマンであるとき、その脳内投影世界は存在していない。ブラフマンがあるからだ
この脳内世界である現象界はブラフマンによって投影されている内部世界と外部世界であり、共にブラフマンの中にある。
そしてこの投影を為されているブラフマンとはアートマンであると言われている。
それが不二一元である。アートマンとブラフマンは異ならないのである
■豊かな人は貧乏である。金持ちは乞食である
諸体の脳によって、私達・記憶の自我は発生し継続しており、その諸体の脳は条件付けられている。
その頭脳の条件付けが我性を更に強化する、即ち安全でありたい、安定したい、立派になりたい、一番になりたい
成就したい、真実を知りたい等々である。そしてこの条件付けの我性の最たるものが神のようになることであり
その野望が物質界に転化した場合には、金銭での他人への支配欲となり、金銭への執着となり、金持ちを願うことになり
その反動が貧乏や乞食という金銭を基軸にした執着である。それは共に思考の欲求である。
だが実際は金持ちはその金銭の欲望に捕らわれており、乞食なのであり、乞食はその金持ちである。
豊かさを求めることは既に豊かで豊饒であることに気がつかない記憶であり思考の動きである。
なぜならその思考とは断片であり、自分は既に全体そのものであり豊饒であることを理解出来ないのである。
心・思考である自我や個体は「私」によって生かされていることに気がつかないのである。
■健康は病気である。誕生は死亡である
健康と病気、誕生と死亡は、根源が起こしている事であり、自我は為しておらず、根源の為していることである。
個人の人格や現在のパーソナリティーの健康や病気、誕生と死亡とは人格には因らない、選択に拠らない。
病気と健康は根源が為しており、生死と同じく自我は関与していない。
「私」は肉体ではなく諸体でもなく健康になったり、病気になったり、行為したり、死んだり生まれたりしていない。
病気や健康や生死は肉体の事であり、それは「私」の事ではない。それらは肉体を私だと信じている「私と言う観念」
・自我にとっての関心事ではあっても、その関心している事そのことが魂が外側を向いていることを証明している
■根源は自我の自由意志を使って行為している
それ故にこの自由意志が有ると思っている自我は、〈死ぬもの狂いで〉この偽りの自由意志を使って行為主体である
ところの「自由であり、映像を投影されている御方」を愛すべきなのである。その御方の御心を実践するべきである。
それが自由であり、自由意志であり、それが御方の意志である。御方によって自由意志というものを貸与されている
私達・自我の正しいあり方なのである。
■観察しているものは観察されているものである
自分が観察していると思っているのは「私と言う観念」であり、内部や外部に自我を見ているのは自我である。
その自我は、鏡に自我自身が映されているのに、自分が鏡だと思っている。若しくは自分が鏡を見ていると思っている。
鏡の前に入れ替わり立ち替わり顕れるものが観察者と観察されるものである思考=自我である。
観察者・思考、それは鏡ではない。鏡があるから映すことが可能になっているのだ。
不安を観察しているのは不安自体であり、恐怖を感じているものは恐怖自身である。自我を見ているのは自我だ。
具象を見ているのは具象という記憶である。
何もないキャンバス・鏡を見ているものは思考ではなくて、そのキャンバス・鏡自体である。
それは意識であり、純粋空間に浮かんでいる雲という思考を見ているのは、思考を見ている意識自体、空間自体である。
自身が意識そのものであるとき、対象は存在せず、全ったき沈黙の中に、思考に触れられない意識が現れている。
鏡があるので観察のプロセス(観察者と観察されるもの)も成立している(現象界も成り立っている)
実際には、その観察しているプロセスにはどこにも“他と分離している私”というようなものは介在していないのにも拘わらず
“私が見ている”“私が観察している”“私が瞑想している”と思っているのが「私と言う観念」・無明である。
■主体は客体である
主体と客体が分離していると錯覚しているものは「私」ではなくて、私という観念であり、それは思考であり心である
ものである。根源がその心を使って演技しておられるのである。
真の意味で私といえる「私」とは主体であり、その主体は客体と分離しておらず、「私はそれである」といえる「私」である
その「私」は真実の主体であり、普遍であり在るものであり、常在であり、過去現在未来を超越して、こことあそこの
分離がない純粋空間である、その純粋空間である意識である。
■遠くは近くである
こことあそことの距離を生み出しているのは思考であって、この思考・マインドがない領域次元では距離はない。
物質界に於いては非常に厳密なる距離が測定できる、しかしアストラル界に於いては距離はなく、思った瞬間にそ
こに、それはある(移動ではなくて空間がこの物質界とは違うのである)
距離はメンタル界に於いては殆どが意味を成さず、何億光年離れた銀河もこの身近にある物体も等しい距離なのである。
魂の内奥、霊的松果体の位置の内奥にある最小の地点は全宇宙であり、全てに遍在している。それが意識であり
「私」である。そのとき「私」にはこことあそこ、というような区別がもはや存在していない、純粋空間であり虚空そのものである
からである。そして、その絶対純粋空間があるが故に全ての次元の時空間は存在していることが出来るのである。
■自己とは他己であり、私は貴方である
自己も他己も、私もあなたも、神のものであり、根源の道具である。
しかしこの認識が自己や他己という自由意志を持っていると思っている個我(自由意志を与えられている個我)が
推測しているとき、それは全くの誤解に過ぎず、理解ではない。それは単なる観念であり思考に過ぎないからだ。
従って某宗教のようにワンネス、ワンワールド、「全ては一つ」などの言葉を、どこで、どの私から発しているのかが
非常に問題なのである。それは似て非なるものであり、似ている概念を使って間違っている内容で洗脳しているからだ。
個人である自我が我性から、単なる観念でもって「全ては一つだ」と言ったとしても、それは全くの砂上の楼閣であり、その
実体が我性である限り、迷妄と害悪を発しており、周囲に災いをまき散らしていることに気がつくべきである。
「すべては一つ」は真我における現実であり、それを自我が同じように「すべては一つ」と云うとき、自我の我性が未だに
残存している以上は、それを云っている私は決して一つではない知覚に占有されている自我なのである
それは自己欺瞞であり、自他を騙すことになることの危険性を熟知しなければならない。切れる包丁は三歳児が持つ
と危険なのだ
これは「すべては一つ」だけではない、「神が行為している」「私は行為していない」も同様に真実の観念ではあっても
自我がそれを思考している限り、その真実の観念が自己矛盾した観念となってしまうのである。
「自己は他己であり、私は貴方である」とは記憶の自己や、「私と言う観念」が発している言葉である限りは、それは
思考であり、自己欺瞞であり、災いである。真実の私がそれを話しているとき、その私には思考や時間や空間はなく
沈黙があり、私の内部には微塵も心・マインドがないことであろう。静寂があることだろう。
虚偽と真実とは、オーバーシャドウや、変性意識に拠るものではなくて、内部に、この沈黙があるかどうかが決め手となるのだ。
■他と分離してる私はいない
私、私が、私のものは存在していない。私自身が「私」であるからだ。この場合の「私」とは指示代名詞である思考や
心には理解出来ない。思考には未知なる「私」である。なぜなら「私」は脳の結果ではなく、思考ではなく、心ではない。
「私」とは心が生み出した、覚醒時の、夢見時の、熟睡時の大脳の思考ではなく、分離していない意識であるからだ。
夢が見る内容、覚醒時の、そして熟睡時の思考や心とは脳の結果であり、諸体の状態であり、その脳や諸体は
勿論自我のもの、自我の私ではない。自我が夢を見ているのではない。夢によって「夢を見ている私」という自我が
創られている。この夢とは夢だけではなく、熟睡も日中の覚醒の時も続いている。内部も外部も思考と心によって
創られている夢なのである。それは起こっているのでありその起こっているプロセスの結果が行為と出来事である。
それなのに、自我は自分の身体、自分の心、自分の夢、自分の行為、自分の環境、自分の私、自分の自由意志と
思うように条件付けられている。その条件付け、それこそ「私と言う観念」であり、無明である。
■一つは全てである
「私」は一つであり、自他に分離しておらず、それは「私」であり、全てが「私」である、「私」の中に世界が有り、
「私」の中に宇宙が有る
「私」は拡がっているのではなく、また限りがないのではなく、全てであり、無限である。
その無限の中に愛があり、全てはただ一つであり、そのとき心は存在しておらず、あなたや私の区別はない。
■最小は最大であり、極小は極大である
距離と質量の差は、かりの姿であり。現代の最新の物理学が示しているように、たった一つの素粒子が全てを現している。
この現象を、この百花繚乱の世界に見せているのは素粒子であるもの、それ自体を生み出している根源である。
この根源と真の私の内奥とは異ならないのである。
素粒子は全宇宙であり、それは全宇宙に在り、それはまたこの霊的松果体の内奥の極小であるものであるからである。
以上は、私なりの「私」への推測です。私は上記のことを純粋意識から見ているのではなくて
私個人の思考から、この真理と思われる、これらの純粋意識を推理・推測したものです。
思考には意識(真理)に対して否定的接近しかできません
思考の役目は虚偽の否定であり、そばに寄ることは出来ても、中に入ること、真実の直認・肯定は、純粋意識しかできません。
言葉は指示代名詞であり、思考を心にまで導きますが、そこから先の理解とは、心ではなく純粋意識が行います。
言葉は心であり、真実の言葉は心の世界に影響を及ぼしますが、純粋意識は言葉を超え、心を超えているのです。
それは言葉によって世界が作られているように、純粋意識は世界を超えているからです。
久保栄治という個人がその純粋意識(真理)を理解しているわけではありません。
上記の「神が行為している」「行為は起こっている」などの言葉を、もし久保栄治が自身の言葉として語っているなら
この久保栄治は真我そのものということになります、
「行為をしているのは神です」というなら「神」を知っている必要があるのですから・・・
それでもし、真我がこの久保栄治に顕現して、そのように、本で読んだ知識ではなくて自分自身として語っているなら、ここに
神聖なる愛と神聖なる至福、静寂、優しさ、慈しみ、平和、調和、美、生命など真我の特性が内側から限りなく溢れていることでしょう
しかし残念なことに久保栄治には真我が顕現しておりません。
何故ならば久保栄治自身(自我)を見れば直ぐに分かります
これらの真我である神聖なる愛が、この久保栄治という個体には溢れていないからです。
ですので、この久保栄治個人にそれがないと言うことは明らかです。
久保栄治は「神」を「愛」を知っていないからです。「神」や「愛」を知っているなら、限りない愛が溢れているはずですから。
久保栄治は単になりきって、今までに記憶したことを知識から鸚鵡のように繰り返して話しているだけなのです。
ですからこの久保栄治の言葉は、借り物であり、虚偽だと言うことになります。
「神」や「真我」という言葉を使う以上は、事前に「神」を直知していなければ、嘘をついていることになるからです。
もし「真の私」の目なら、世界は私であり、世界は完全完璧で、愛だけを見ることでしょう、内も外も「愛」しかないからです
けれども「私と言う観念」である自他に分離した目からは飢餓とテロと殺戮と絶望と悲惨が顕れることでしょう・・時間だからです
・・如何に正確な聖者の言葉であっても、注釈としての前置きを明示して語らない場合は久保栄治は嘘をついていることになります。
久保栄治が語っている上記の言葉は聖者のコピーなのです、ですのでそれは偽物です。
久保栄治は「神」も「真我」も知らないのに「“神”が行為している」「神が自我を使っている」と言っているのですから・・
それらの「あるがまま」とは真我の立ち位置からの真我の認識であり、そこに久保栄治が立っていない限りは嘘を語っています。
同じように、久保栄治のような偽物達が、さも自身の言葉のように「真我」を語っていても、
そこに真我の証である神聖なる愛が、限りなく溢れていない場合にはそれは口先だけの詐欺なのです。
なぜなら自分の知らない真我の立ち位置からの見解のことを、さも自分が、それを見て直知しているか
のように語っているからです。その直知が真我のか否かは、限りない愛や、思いやりや、慈悲が溢れているかどうかで分かるのです。