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豊撓について



シャンカラは言う


『「意識
(純粋意識の事)は自己(真の私)の属性」であり、

体毛から爪に至るまで身体に行き渡っており、

(注:シャンカラは真我は身体の隅々まで行き渡っている、高次の知覚と意識であり、
 神我はすべての真我であり、神我ではない時空間は存在していない
と言っている)

それは行為者
(すなわち行為しているわたし)

身体を有する自己(自分は身体を所有していると思っている「わたしという観念」)

とは異なっている」




「生きている自己
(真我のこと)はすべてに息き渡っている

(注:息は眠ることがなく、その息の意識は中断されることはない。息とは自己の属性である
また息は生命でありすべてを生かし生きている、一つなる生命である)


それは皮膚が全身に行き渡っているように」




輪廻について

「なぜなら

知覚の属性なしには、単独の自己に輪廻の状態は存在しないからである

(注:この単独の自己とは真我からの顕現である魂を指しており、生きている自己とは真我を指していると思われる)

知覚の属性とは、すなわち欲求、憎悪、快楽、苦痛などのようなものであって、

その知覚の属性とは、自己が輪廻している状態において存在するときの、

(注輪廻しているのは、現在のパーソナリティーや感情体や思考体やエーテル複体やワサナではなくて魂であり
魂が分離している「わたしという観念」の知覚を自分の知覚だと取り違えてしまった結果、魂が輪廻に巻き込まれたといっている
スクリーンが影像を自分だと思い違いし、青空が雲を自分だと間違ってしまったように)


その場合の自己の主要なるものである。」

(注:この知覚の属性とは、通常の分離している知覚を指しており、自他の分離していない高次の知覚を指しているのではない


「であるから

自己とは行為者でもないし、楽しみ味わっているものでもなく、輪廻しているものでもなく

永遠に再生から解放されているのに、

「自己」
(真実の自己)に知覚という制限している付加物の性質の転移に

(注:上記の真我の全身に行き渡っている意識ではない、肉体を通じて対象を分離して捉える身体感覚を指している)

よって生ぜしめられた、行為者であること、楽しみ味わうものであること、等によって特徴付けられている

輪廻の状態が存在しているからである」

(注:魂の自己が魂が、その「分離したわたしという観念」による知覚を自分の知覚と取り違えて
魂である自分が行為していると信じて輪廻に巻き込まれてしまっていると言うこと)





「そして「その知覚」が身体から出ていくことなどによって、

生きている自己が「身体から」出ていくこと

(注:生きている自己とは魂のことである)

などの輪廻ということがあるのである。

だが、この輪廻は自己そのものに関してではない。」

(注:魂や諸身体である知覚体などが身体から出ていくことは、その身体から出ていく魂と知覚体とが
近物質界次元の事柄であり、アストラル界などの次元ではない高次元から観た場合は高次の私は動いておらず
肉体に入ったり出たりしていないということ、その自己そのものは高次元であるから極小が極大であり、一点の此処が
すべての宇宙であり、そのことは物質界の次元思考では全く把握できない)




「そして「生命としての自己」は百の部分に分けられている、

それは一本の毛髪の先端の百分の一の部分として理解されるべきである」

(注:生命としての自己とは、永遠の生命であり、真我のこの次元との接触している部分である魂であり
その真我の分霊である魂は真我を髪の毛とすると髪の毛の先端の百に分かれている部分だと言っている)


「なのでそのように生命である自己は、原子状であると同時にそれは無限であるというのである」

「実に、肉体を拠り所とする粗大なる肉体への生起と没入は、生きている自己には存在しない」


又豊撓について語っている

「しかし、
(真我としてすべて一つなる私があなたであるとき)一切が彼の自己そのものになったとき、

人は何によって誰を見るべきであろうか

人が他の者を見ず、他の者を聞かず、他の者を認識しないところはどこでも、それが豊撓である

しかし人が他の者を見、他の者を聞き、他の者を認識するところはでこでも、それは少ないものである


他の者を見ることがなく豊撓であるもの、それは不死である。

しかし他の者を見て、他の者を聞くもの、それは少ない者、それは死すべき者である」』


注:意識は熟睡や夢見や思考には中断されない

呼吸や血流の循環は熟睡や夢見や日中の思考によっては中断されない
同じように
意識は、熟睡や夢見や日中の思考によっては中断されない
意識である愛のある純粋理性は熟睡や夢見や思考によっては中断されない
にもかかわらず
現在のパーソナリティーは気づきがないので意識を意識できず
思考を意識と取り違えて、自分は意識していると思っている
自分は目が覚めて意識していると思っている
だがそれは意識ではなくて、分離している思考に過ぎない
それは意識ではない



それと同じ文脈で
夜、思考が続いて眠らないのを、自分は意識であり目覚めていると思い込んでいる人がいる
けれども
そのように思考が意識の振りをして夜も寝ないで続いていても、それは意識ではない
その人が熟睡を見ていると信じているのは意識ではなくて思考である、
思考が続いているだけだ
それは意識の振りをしている思考である、
それは思考が眠らないで続いているだけだ




思考は意識を思考しているが
意識は意識を意識している
意識は高次次元の空間でもあるからだ




夢を見て、熟睡では無意識となり、日中は分離感覚を持っている思考という
日中の「意識もどき」とは、意識ではなく、マインドである、または観念である



それは
現在のパーソナリティーが発育しておらず
現在のパーソナリティーが各体のチャクラや魂や真我と充分に
繋がっていないので
各体の思考、および魂や真我の意識である
気づきに繋がらず
マインドという思考に繋がれ、その思考に覆われ
夢見と熟睡と日中の思考の間を行き来している




私達は目であるにもかかわらず目を閉じているのである