否定的接近の道は困難である


聖者達から「私は肉体ではない」と教えられて

私は肉体ではない・私は肉体ではない・・・と、懸命になっているのは誰か?そう思い込んでいるのは誰か?

それは肉体を自分だと思っている現在意識であり、現在のパーソナリティーであり、自我であり、記憶(人格)である。

その自分を肉体だと思ってそのように知覚しているご本人が

自分の実際の知覚や意識内容とは全く反しているのに、逆に「私は肉体ではない」と思い込んでいるに過ぎない・・・


これは、まさしく自己撞着であり、自己欺瞞であり、自己洗脳に過ぎない。

肉体の意識であり、五感の記憶である意識、肉体を自分だと思っている意識が

「自分は肉体ではない」と自分を偽っている状態であるに過ぎない。


では本当に、「自分は肉体でもなく諸体ではない」と嘘偽りなく、言えているのは誰か?

それこそが真の私である

ではその真の私とは、果たしてそのように「私は肉体ではない」と言明したりするのであろうか?

そこが問題である



真我であるのなら「私は私を愛しています」と言うのである・・と教えられている。



この場合の「私を愛していますと言っている私」とは真の私のことであり

その「私を愛しています」と言っている私にとっては、愛している対象の私とは、見ている私であるのと同様の真我であると

見ているのである。

そこには真の私以外の私はおらず、愛している私と愛されている私は一つになっている。

主体と客体の区別、自他の分離はその真の私の中にはないからである。



ではその時の、「私は私を愛しています」という愛されている私とはどうなっているのであろうか?

真我によって愛されている私とは現在意識の私であり、現在意識の現在のパーソナリティーの私であり自我である。

そして、その時、自我である現在のパーソナリティーのヴァイブレーションは上昇し、洗練され、昇華し

魂の内奥の真我に愛されているゆえに、真我によって、現在意識の私は変容しているのである。



これは「啐啄同時」なのである。こちら側である「現在意識の私」が魂の内奥への真の私を信頼し、愛するとき

真の私側から同じように働き掛けているのであり、その真の私側からの働き掛けがあるが故に私達は「融合・変容」という

解放のチャンスを与えられるのである


おそらく、私達である「現在意識である現在のパーソナリティーという自我」が

真の私と直結し融合し変容したときにはそのように

真の私によって「私は私を愛しています」よ、といわれているように、自らもまたそのように言うのに違いない

それが自分が自分を愛している状態なのである・・・それは変容したからである。


ならば、その時

その真の私と魂の内奥によって繋がれ融合した現在のパーソナリティーは

「私は肉体ではない、私は思考ではない、私は観念に過ぎない、私は存在していない」と否定的接近道の聖者達のように

そのように言うのであろうか?


この「私は肉体ではない」と、若し、本当に実感し直覚しているのであるなら、

それを言明している主体とは、「肉体や諸体ではない私」であることだろう、それは真の私であることだろう



ではその時点で、その段階での真の私は、この「自分の事を肉体だと思っている私」のことをどう思っているのかである?

真の私とは、現在のパーソナリティーの私の事をどう見ているのかである。


「現在のパーソナリティーとは仮象であり、実存であり、存在していないのだ」と見ているのだろうか?

同じように「私とは観念であり存在していない」と見ているのか、

それとも、自他の非分離の中で、見る者も見られる者も同じ真我であり

充溢する神聖なる愛の中で「私は私を愛している」と見ているのか?


この自分は肉体ではないと自覚している私は「現在意識の自我であり現在のパーソナリティーの私」のことを

一体どう思っているのであろうかと言うことである


此処が否定的接近という困難な道であるものが現在の私に対してどのように思っているのかというなのである

「私は肉体ではない」「私はマインドではない」「私とは観念にすぎない」等々はその道での特徴ある表現方法である・・が

わたしには、それをとやかく言う立場ではないし、段階でもないので、わたしにはそれは言えないが


本当に現在のパーソナリティーである現在意識が「魂の内奥の真の私」と繋がったとき

その時に、否定的接近道を説いている覚者のように「私は肉体ではない、私とは観念にすぎない、私は存在して

いない」というのか、どうかである


それとも、その「自分は肉体ではない」との言明は真の私と直結している「融合状態」の

一歩手前の段階での言明であるのだろうか?










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