真のわたしではないものから離れよう
(ある不二一元論の哲学者の教えから)
離れようではないか、真のわたしではないものから
真の私ではないものから離れるように促されているのが現在のパーソナリティーである
この現在のパーソナリティーのあり方が真のわたしや,賢者によって指導されている私であり
現在のパーソナリティーが自身である真のわたしに帰還する事が求められている
現在のパーソナリティーが自身ではないものを自分自身だと錯覚しているからである
現在のパーソナリティーの本質はハートであり、そのハートがマインドに覆われている
のである
離れよう、「私という観念」から、分離した私から、自我から
想念や、思考や、言葉や、感覚や、感情や、既知なるものや
その既知なるものの「至ろうとする」錯覚から離れよう
知覚や、記憶や、そしてマインドから離れよう・・・
何故なら真のわたしはそれらの‘マインド’ではないからだ。
わたしとは未知なるものであるから、既に在る。
マインドの「既知なるものとなった未知なるもの」とは、未知なるものではなく
既知なる「わたしではないところの私」である。
「私」「私の」「私が」「私のもの」「私の身体」「私の心」「私の魂」
は錯覚である、これらの全ては一つなるものである
やって来ている想念や個人や人格とはその既知なるマインドの記憶の反応であって
真のわたしではない。思考が思考者を生みその個人や人格が鏡に去来している。
又、自我であるところの個体の肉体を自分だと錯覚している全ての人類に共通
の「私と言う観念」は自我の私であって真のわたしではない。
それらは鏡に写し出されているマインドの種々相・体であり、質料である。
だがこれら個々の鏡・窓・魂もマインド側の立ち位置から見ている事柄だ
これはマインドの観点であって、実際には私やあなたの魂の分離はない。
魂の内奥はひとつなる真我であり、ひとつなる真のわたしだから
分離した私やあなたはいない、全ては一つのわたしであり、全体が一つであり
その一つなる中に全ての全ては起こっている。
真のわたしとは、それらを思考なく分離なく観照している限りない普遍なる意識
のことである。至高なるアートマンのことである。
離れよう、欲望から、願いから、目的から、一つであるのに一つになろうとする錯覚から
特に真我を実現しようとする目的や欲望や願いから離れよう
既に未知なるものであるわたしが既知なる私と同一化してはいけない
その至ろうとする欲望が、わたしの目を見えなくしているのだ。
何故なら真のわたしとは既に在り、なろうとする欲望を持っていないからだ
真我を実現しようとしているのは真我である真のわたしではなくて
私と言う観念であり、そのマインドであるからだ。それがわたしではない既知なるものだ
「真のわたし」ではない私のことを「真のわたし」だと思っているのは現在のパーソ
ナリティーが取り違えて思っているのだ。
思考し、対象化して知覚する既知なる私は「真のわたし」ではない。
「真のわたし」は思考ではないから思うことはない。
真我であるアートマン・真のわたし以外に何があるのだろうか
離れよう、行為から、
離れよう!行為している私から、そして自分が行為していると思っている私から
行為から離れるとき、物事は自然にもっとも理に適
った行為を、行為自らが為されることだろう。
選択は自由がないところにのみ発生する。
行為とは「真のわたし」ではない肉体や身体が関わっている。
肉体や身体は神の宮であり、根源がそれを生かし使用されている。
行為とは思考やマインドではなくて根源の純粋精神が起こしている
根源の純粋精神が肉体や身体と思考やマインド・自我を使って行為されている。
「真のわたし」は身体ではないので行為には関わっていないのだ。
それなので行為していると思っている私は「私と言う観念」の自我であり
肉体と同一化している「私と言う観念」である。
というのも、真のわたしは肉体ではなく、マインドでもないから行為をしていないのだ!
知っている私、知る私、知られうる私、知覚している私、知覚されている私、対象化
する私、対象化される私、それらの既知なる私とは断じてわたしではない。
それらの私とはマインドが生み出している個人人格である
離れよう、離れようとすることや、離れようとする動機や目的から・・
真我に至るために動機や目的や判断を伴ったマインドから離れようと
するということは、マインドの奸計であり、マインドに束縛されることだ。
離れようとすることすらからも離れよう。既に離れているからである。
未知なる私と繋がろうとすることはわたしではない既知なる私=マインドの
働きであり、すでに真の私であるのに真の私ではないと思い込んでいる無知が
起こしている動きである。
何故なら真のわたしは離れようとすることがらから、既に離れ
ており、離れようとする動機や目的を持っていないからだ。
離れよう、時間から、
時間とはマインド・心の特性であり虚偽である。根源は時間を使って
二元分離の仮象宇宙・仮象世界を現象させておられる。
なること、至ることは時間であり、時間は幻影である。時間とは
真のわたしではない肉体や身体にのみ拘わっている事柄であり。
真のわたしは肉体や精妙体ではないので生まれ、育ち、老い、死ぬという
時間の産物ではない。時間があるものは肉体であり、質料である。
真のわたしには時間はなく、真のわたしには過去も現在も未来も存在していない。
過去現在未來はマインドの中にあり、真のわたしはマインドではないので
真のわたしには時間はない。時間がないとき生まれることも死ぬこともない。
真のわたしには過去はない、未來もない、現在もない、時間ではない今があるからだ。
時間の中で成長したり、至ったり、実現したりするものは真のわたしではない。
その至る私とは「私と言う観念」の幻影に過ぎない。実現する私や、悟る私や
離れる私や、在ろうとする私や、見ている私や、魂の私という私があるのではなくて
ただ根源だけがあり、何処にもそのような分離している私というような実体はない、
在るのは根源だけだ。全ては根源だけである。全てが根源だけである。
離れよう、知覚から
対象を分離して知覚している私から離れよう。それはマインドであってわたしではない。
既にわたしは在り、既知なる私が未知なる私に融合したり、統合したりするのではない。
その既知なる私が抱く妄想が未知なる私に至ろうとすることである。
その既知なる私とはマインドであり、対象として知覚し、知覚される分離した個人だ。
マインドだから対象があるのだ。真のわたしは対象を分離して知覚していないのだから。
分離している自我・私を拒絶することは私と戦っていることだ。
私と戦っているということは、自我・私と一体化してしまっ
ているということだ
あるがままの私に全身で耳を傾け、あるがままの私の言っていることを思考なく拝聴する
ことがあるがままの私から離れていくことだ。
何故なら真のわたしは自我ではないからだ。真のわたしは自我を愛しているからだ。
真のわたしは対象を分離して知覚している私ではない。愛であるからだ。
離れよう、何にかに至ることや、実現することから
至ろうとするそれらの至るための方法とその実践から離れよう
それは二元のマインドの働きであり、現在のパーソナリティーが真のわた
しからの分離を強めていく。
その繰り返しは、マインドの二元の葛藤に嵌っていくだけだ。
それは真のわたしを否定する動きである。なろうとすることは既に在るこ
とから、即ち真のわたしから離れて行くことだ。
何もしなくても、何処に行かなくても真のわたしは既に今ここに在るからだ。
実現しようとしたり、在ろうとしたり、見ようとしたり、至ろうとする
マインドの働きがないとき、自然に花が適切な時期に咲くように、瞑想
が起こり、正しい行為が起こり、ハートが真のわたしと繋がり、そして真
のわたしが花開くことだろう。
そこが出発点であり終着点なのではないだろうか、離れたことなどなかったからだ
何故なら真のわたしは、なにもしなくても既に在るからだ
マインドは常に何かをしている、自分(現在のパーソナリティー)は真のわ
たしではないと思っているからだ。自分を覆っているマインドが脱落して何も
しないとき「在る」ことが真のわたしから顕れる。これは「啐啄同時」である。
そのとき現在のパーソナリティーは何もしないということを為して真のわたし
に全託しているからである。
何かをする事が完全に終息したとき、真のわたしは初めから既に在った
ことが現在のパーソナリティーに露わになり、真のわたしが自ずと顕れる。
本来在るものが見えなくなっているのは
マインドの働きと同一化して、動いてしまうからである。
求めて動くからである。錯覚を本物と取り違えているからである。
動いてしまうから在るものが見えないのである。
現在のパーソナリティーであるハートにとっては
動かず、為さず留まること、今ここあるがままに留まることが肝要である。
見えないのはなろうとするからである。
見ようとするのではなく、既に見ているのであって、すでに思考なく、分離なく見ており
その見の中には自他の分離はなく、世界と宇宙のすべてはわたしであり、見るわたしは
見られる全てであることを見るのである。
全ての全ては根源であり他と分離している個は存在していないのであるから
その中で、普遍なる意識である見る事が起こるのである。
「わたしは世界である」ことが実際に「高次知覚」されることだろう
なろうとすることは思考の働きであり既に在るのにそこから遠ざかることだからである。
ハートである現在のパーソナリティーはマインドと
同一化せず、
何も求めず、
何処にも行かず、
何も至らず、
何にもなろうとはせず、
何も為さず、
何も思わず、
何れの思考やマインドや観念と同一化せず、自我と同一化せず
何も喋らず、
何にも頼らず、
何にも権威にせず、如何なる権威にも従わず
何も願わず、
何も成就せず
何も変わることをせず、
何も対象を知覚せず
如何なる分離した私やマインドと同一化しないで
既に見ている事を見ること、在ろうとせず唯々在ること、既に在るからだ。
あるがままをあるがままに思考なく見ていることを、ただ見ること。
その見ることとは、全体の中で起こる事であることを見ること。
このプロセスには全く個人や、自我や私は介在しておらず、完璧にその時節に
花が咲き出すように、見ること、在ることは自然に起こるのである。
真のわたしではないマインドとは常に求め、常に至ろうと藻掻き、常に方法を
模索し、常に行為を為していると錯覚し、常に思考や想念や観念を重ね、修行をし、
常に思考なく見ようとし、分離なく在ろうとしている。それがマインドである。
分離した対象など存在していないのに、対象を知覚している。
既に未知なるものなのに未知なるものに至ろうとしている、
既に到達しているのに到達しようとしている
既に未知なるわたしなのに未知なるわたしと融合しようとしている。
悟るべき私はいないのに、私が悟ろうとしている
私が努力している、私が瞑想している、私が真我に近づいていると錯覚している
思考なく見ているのに、思考なく見ようとする、在るのに在ろうとする
決していまここあるがままに留まらない。
だからこそ
そのようなマインドから離れること
マインドの「離れようとすること」からも離れること
既にマインドから離れていることを見ること
マインドと同一化しないこと。
そのとき正しい道を歩み始めている。
そのとき何もしないのに全ては自然に行われ、為され、秩序が顕れている。
そのときわたしが、全体が、一つなるものがおのずと顕れている。
すべては一つなるものであり、一つなるもの以外には何もないからである。
(ある不二一元論の哲学者の教えより抜萃)
※ここでの私とは真我ではない現在意識での自我を指し、真のわたしとはアートマン、真我、本来の全体なる意識を指しています