現在意識
現在意識とは何だろうか?
現在意識とは、現在のこの現況の私である意識ではないだろうか
ということは、現在意識ではない潜在意識の私もあり、集合意識の私もある
それらの現在・潜在・集合意識を遙かに超えた
純粋意識のわたし・・それが賢者達の言われる「あるがままの私・真我」である。
現在意識とは何だろうか?
それは、根源の道具。この次元を超越し、次元を成り立たせている純粋意識の道具であると教えられている。
ではこの現在意識と、純粋意識との関係とは、どうなっているのだろうか?
それは現在意識が極度に清まって、夾雑物・思考が沈潜したとき、そこに純粋意識の光りが差し込み
純粋意識みずからが顕れるといわれる。
だが現在意識や潜在意識が純粋意識に変容したり、進化したりするのではないのだと・・
ここは重要な注意点であると思われる。
そして、その現在意識に於ける純粋意識のアンテナがチャクラであり、神道の言う鏡なのではないだろうか?
鏡が綺麗に清まり、アンテナの機能が復元したとき、この現在意識に純粋意識が受信され顕れるのであると。
これは現在意識が変容したり、拡大したり、新たなる段階入ったり、結合したり、純粋意識へと生まれ変わったりすることではない。
あくまで日中と夢見と熟睡を繰り返しているこの現在意識という意識が、透明となり、波動が純粋になり、心が清まり、静かになったときに
即ち思考が静まり、沈潜したとき、透き通る青空に雲一つないような現在意識の状態のときに、そこへ純粋意識の光が差し込むのである。
すなわち、これがこの現在意識のアンテナの機能が回復し、純粋意識を受信できるようになったということである。
現在意識とは肉体の脳の意識であり、諸体の脳の意識であり、ごく僅かに魂からの閃きがあるのが一般人の現在意識の状況である。
現在の私達である純粋意識を受信するアンテナである各精妙体のチャクラは殆どが機能不全の状態になっているといわれる。
そういうわけで、真の私の意識とは、現在意識である諸体のチャクラがアンテナとなり、鏡となって受け取る高次元の意識なのである
だから現在意識が純粋意識に変容するのではない。成長し進化して新しい意識が誕生する訳ではない。
「現在の私」・自我が真我になるのではない。
純粋意識とは、はじめからこの現在意識の基底としてあるわけだから。はじめから真の私は真の私なのだ。現在意識を支えていたのだ。
この純粋意識が基底に実在しているからこそ現在意識は機能して意識する事が出来るのである。
これは神道で言う鏡が綺麗に掃除され、清まったときに純粋意識である真我の太陽の光を反射できるようになった、ということでもあり、
世界中の古来からの覚者たちの共通した本来の教えである。
この現在の意識が拡大したり、深化したり、進歩して、能力と、機能が高まって純粋意識になるのではないということはキーポイントである。
現在意識は純粋意識の道具なのであるから・・
現在意識は自分が行為していると思い込み、自由意志があると思っている・・
それ故に、その思い込んでいる、その現在意識の自由意志と、その行為を現在意識の私は正しく用いるべきなのである。
「天の御心のなるが如く、地に於いてもならしめ給え」・・と、それがキリストの「愛」であることは論を待たない。
この現在意識と純粋意識との関係はそのまま、‘「現在の私」・自我’と‘真の私・真我’との関係でもある
これは、自我が努力して真我になるのではなくて、自我という鏡が綺麗になることによって真我という光りを反射すること
純粋意識を受信することができるということではないか
覚者がたの言い方はそれぞれの特色があるが、同じ事を示しておられるのである。
この純粋意識とは、薬物や、脳内麻薬や、変性意識や集合意識などによる意識の拡大、や認識能力の拡大ではない・・といわれる
純粋意識はそれらの意識とは次元が違うのである
上記のそれらは内側からではなく外側のものであるからだ。時空間のなのかで言語や各国の言葉やテレパシーで語りかけるもの
は外側であり
外側のものは内側ではない、それらは魂の内奥の純粋意識ではなく、真の私ではない。
純粋意識の光、即ち現在意識に差し込む光とは外側からではなく、内側から光りは差し込むからなのである
私達に於いては、現在意識のそれらの夾雑物が沈静化し、「現在の私」の現在意識のヴァイブレーションが透明化し、波動が精妙になったとき
非思考であり、非対象である至高の純粋意識が、沈黙のなかに、そっと姿を現している・・と教えられている
そして、その非思考、非対象の純粋意識こそが本来の私、真の私といわれている純粋主体ではないだろうか
それが賢者達の教えられていることである