現在のパーソナリティーの役割
現在のパーソナリティーの私とは読んで字の如く
まさに、この現在の私だ、現在の「意識している私」だ、それはまた「意識されている私」のことでもある
現在の意識している私によって、意識し、されている私とは、現実の現在の生きている私である
けれども、この私は如何に真実の私のように思えていても,魂の私でもなく、魂の内奥の私でもない
この現在の私とは
上位の私は下位の私をみれるが、下位の私は上位の私をみることは出来ない、というところの
その下位の私でもある
現段階の発達状況では、この現在の私は思考を超えたものを見たり、認識したりすることが出来ない
未熟な段階の私である
あるがままをあるがままに見る事が出来ないレベルの私でもある、それがこの現在の私である
この現在の私とは別名自我であり、我性という自我の本性にまみれている現在のパーソナリティーでもある
純化され、透明化される前の、現在のパーソナリティーは自我の我性が脱落しておらず、混濁している
状態である
私という「自己の多層構造」からみても、この現在のパーソナリティーのわたしとは、現在のところ認識し、
認識されている私であり、下位の次元である私だ
というのも
現時点での「現在の私」のレベルでは、「高次の私」に波長を合わせることができる段階にはほど遠いのである
現在のところは、この現在のパーソナリティーとは「思考なくして自己を観察する」ことが出来るほどの
高レベルの状態に至っていないからである
この現在意識である現在のパーソナリティーが「透明さ」の段階に到達していないからである
我性と一緒に混濁しているからである
今のところは、この「現在のパーソナリティー」にとっては、諸体の思考に波長を合わすことができるのみで
思考を超えている「魂からの高次思考である直覚」に波長をあわせることが可能な状態の
ところまでは成長していない
ということは
この現在のパーソナリティーより上位次元の私のことは、すなわち真の私のことなどは
「我性を含み思考であるこの下位次元の私」には、その高次の私とは一体どのような「思考を超えている
意識」なのかを、知る事は出来ないということなのである。
けれども
その上位次元の真の私は、この「現在の私」の事を意識しているであろうし、本当に観察出来ているのだ
我性にまみれた現在のパーソナリティーのことを理解しているのだ。愛しているのである。
その高次の目でもって、この現在のパーソナリティーのことを知悉しているはずであるから。
下位の次元からは、上位の次元のことを観察し、見たり、認識したりすることはできないのであるが
上位の次元からは下位の次元のことはよく見えており、丸見えであり、観察出来るからである。愛している
からである
しかし上位の次元の私は、この三次元界の私(魂の投射としての現在の私)がなければ
三次元界にアクセスすることが出来ない
すなわち現在のパーソナリティーがいなければ、三次元界で働き、作動することが出来ないのである。
それなので上位次元の私は下位次元に魂として降下し
魂は松果体から脳内の脳下垂体などに現在のパーソナリティーを投射しているのであると言われている
かくして、その魂から派生された現在のパーソナリティーは頭脳を始め多くの「霊的諸体である私」たちの
意識を自分の意識だとして混同してしまっているわけである
そういうことであるがゆえに
私たち、現在のパーソナリティーには現在のパーソナリティーのレベルの状態なりに熟考し、意識できるし
現在のパーソナリティーのなかで作動し、現段階での限定されている思考の中で自己観察もどきも
できる。
自己の内部で私として意識し、作動している「下位の私」のことをそれなりに、目に取り付いている色眼鏡を
取り付けているような状態での中で、色眼鏡をかけた状態としての自己観察ならば出来る、
一般常識内での自己観察いわれていることを、それなりには出来ると言うわけである
記憶や想念形態の「自己意識を持っている私たち」も、この同じの名前の同一の肉体を自分自身だ
と思い込んでおり、
その彼らである「私達」は、それなりにその「私自身」として記憶から考え続け、生き続けているのである
現在のパーソナリティーが、脳内に現れてきた「その記憶の私」に意識を向けるとき、記憶の私と
の自己同一視が起こり、その記憶の私が現在のパーソナリティーの私自身だ、と間違って思わ
れてしまっているのである
では、現在のパーソナリティーによって観察出来る、現在のパーソナリティーの私以外の私
にはどんな私がいるのであろうか?
この現在の私によって、私だと思われている私とは?
現在のパーソナリティーが自分だと錯覚してしまった私とは、どんな私であろうか?
その殆どの私とは脳の記憶のことであり。DNAによって生み出されている私である
それはDNAの反応であり、記憶の反応の私のことである。ある状況が与えられたとき
その状況下では決まったように同じように条件反射的に顔を出してくる「記憶の反応の私」である
そのDNAの記憶と、脳内で起こった思考の記憶の反応の私とは、明らかに現在の私
即ち現在のパーソナリティーではないことを、現在のパーソナリティーは、現段階の思考によっても
観察し、見ることは出来る。それはたとえ不充分ではあってもだ・・
思考の記憶の反応や、条件付けられているDNAの思考や感情や衝動などは明らかに
現在のパーソナリティーの思考や感情や衝動ではない
が、そのことを精査して、観察している主体が現在のパーソナリティーである以上は
現在のパーソナリティーのレベル以上の認識を、得ることが出来ない。愛が乏しいからである
いわゆるクリシュナムルティーのいう「思考を介在させない観察」をこの現在のパーソナリティー
が透明化されていない限りは行う事が出来ず、その観察は不正確な観察となってしまう
「思考を介在させない観察」というクリシュナムルティーのいう自己観察を実行するためには、
現在のパーソナリティーのこのままのレベルではそれを実行し「見る事」は出来ないからである
その為には現在のパーソナリティーが純粋化し、精妙化し、透明化していなければならない
「現在のパーソナリティー並びに魂」である「鏡」にこびりついているゴミを取り払わなければならない
そのゴミとはもちろん我性であるけれども、それを鏡から取り払うことが出来るのは
現段階での現在のパーソナリティーによる自己観察では不可能であり
透明化し、魂からの内側の愛の光を透過できる様にまで成長した現在のパーソナリティー
すなわち、純粋化し透明化したので内側からの真我の愛の光を透過して発している
現在のパーソナリティーによる愛のある自己観察だけである
「思考を介在させない観察」とは魂の目と繋がっている自己観察のことであり、それは現在のパ
ーソナリティーが魂と繋がり、魂の内奥の意識とつながっている状態での観察のことである。
それには現在のパーソナリティーのみならず魂が魂の内奥の真我に覚醒していなければならな
いからである。
自己である魂が、自己そのものである真我に気がついている必要があるのである
そのようなことであるからして
真実を見渡すためには(真実の観察を行うためには)
どうしても、現在のパーソナリティーは現在のパーソナリティーではなくて
現在のパーソナリティーを投射している「魂を現象界に接点させている真の主体である私」と繋が
っている必要がある
そして魂が魂の内奥の私に覚醒する必要がある。魂の内奥の私とは、もちろん愛と叡智の真我のことである
けれども、現在のパーソナリティーにとっては、自分の意志によってその真の自己である魂と繋がろうとしても
魂側からの働きかけが前提条件となっているので
魂とつながったと思う事は出来ても、実際につながるということは真の私である魂の方が行うことなのである。
はっきり言うと、「現在の自分」の意志によっては、その上位の自分・魂である自分とは繋がることは出来ない
繋がることが出来るのは、その上位の私である魂の私からみて、この現在のパーソナリティーのステートが
かなり浄化され、純粋化され、透明化され、澄み渡った状態である場合にのみ可能なのである。
現在のパーソナリティーの質が魂の質へと近づき、魂の私へと真剣に歩み始めているときに
内側の内奥から、現在の私の中核である魂の側から、現在のパーソナリティーに向かって働きかけが実行
され始めるといわれている
それには、まずはじめに
こちら側である現在のパーソナリティーによっての、魂の内側へのたゆまざる愛と献身と帰依が必要であり
自己欺瞞に陥ることのない、即ち目的や動機を持たない真の私への愛と信頼とが必要であり
その真我への打算ではない信頼が、嘘偽りのない敬慕がある場合にのみ、内部である魂の私からの働きか
けが始まるのであると言われている。
この肉体の頭脳につながれている「魂からの投射である現在のパーソナリティー」という私にとっては
肉体の脳が三つ脳で構成されているので、この三つの脳からの思考や感情をそれぞれの脳から受けている
その思考と感情や欲望は爬虫類の脳と、動物の脳と、大脳からそれぞれ送信されている。
爬虫類として、哺乳類として、人間肉体としてのそれぞれの知覚や思考や感情を、現在のパーソナリティーは
「自分の私」自身の知覚や思考や感情だと思い込んでしまっている
この三つの脳からの意識が私の意識だとして認識されてしまっているのである
現在のパーソナリティーにとっては、自分自身である魂の私のことを認知する(良心や直覚)よりも先に
もっと、強烈にそれらの三つの脳からの自己意識、私という感覚や知覚や欲望や衝動や考えは起こってきて
認知されてしまうのである。そういうことであるから現在のパーソナリティーにとっては、それらの状況の中において
自分のいる頭脳内でのそれらの三つの脳からの知覚と欲望と感情と衝動や考えを自分のものだと誤って
しまうのは無理ならざることであるように思える
けれども、それにもかかわらず
この現在のパーソナリティーとは魂からの投射として意識であり、その脳の思考や感情ではない「私」である
けれども
この現在のパーソナリティーの私が透明化し魂の私と繋がったときには、魂の奥の真我からの輝きが現在
のパーソナリティーを透過し、今度は逆にそれらの三体の脳や諸体の状態さえもその光で充満させ
その諸体の脳の条件付けを変えることが出来ると言われている
この順番を逆にしてしまい、脳が変わることで現在の私が変わることという教説は間違っているのだ
本当の事はといえば現在のパーソナリティーの私が透明化し、純粋化することで魂の内奥と繋がることで、
その結果として肉体の脳も、諸体の脳も変わっていくのである
より本源的な「分離している私という第一想念」や各体の頭脳からの思考や感情は肉体の頭脳に受信され、
そして脳から送信されている
けれども、それらの脳内での起こっている状況に巻き込まれている「現在意識の私」の中で起こっていることとは
現在のパーソナリティーの中の我性の動き、各種の霊的諸体の脳や、その脳の記憶や、その記憶の反応、知覚
や感覚や思考や感情といったものだけではない、純粋なものも含まれている
その中にはこの脳からの思考だけではなくて、魂からの意識や魂からの直覚が僅かながらもあるのである
魂からの思考や、魂からの感情や、魂としての思いや、優しさ、共感、感動など、・・魂としての知覚やセンス
もわずかではあっても感じる事ができる
そのような魂からの高次思考や高次感情を知覚すること、認識することは時たまにせよ出来るのである、
美しく、思いやりの共感や感動することや、アチューメントとして直覚することは出来る
そして、その魂からの知覚やセンスなどは作品として、「魂の芸術」として人々を心の奥から感動させるのである
さて、そこで、今回の当初の表題である、現在のパーソナリティーの役割について考察してみよう
現在のパーソナリティーの自分がどうして、このような複雑な脳と身体の中において
魂から投射されているのであろうかと考えないだろうか
なぜ、この様な肉体の脳の中に、魂が降ろされ、そして魂からのこの現在の私が魂の一部分として
投射されているのであろうかと?
なぜ、自分である現在のパーソナリティーは自分自身である魂と繋がっているにもかかわらず
充分にそのことを意識することが出来ないのであろうかと?
このことを考えると、この現在のパーソナリティーの役割とは
この現象界での、魂にとっての目的を遂行するために必要なることを行うためにであろうか
そのあることを行うために真我によってこの物質界に派遣されているのであることが理解される
それは魂を覆っているある「潜在意識のヘドロ・無明」を除去することのために
現在のパーソナリティーは派遣されているのであると思われる
現象界に降りた魂に、
こびり付いたヘドロをきれいにすること
それは魂の内奥と一つになった魂とその現在のパーソナリティーによってのみ出来ることであり
この魂がきれいになることこそが
あの創世記のアダムとイブのように「知恵の果実」を食してエデンの園を追放された人間が
再び神の子としてエデンの園に神の元に戻るということではないだろうか
そのためには
魂の投射意識体である現在のパーソナリティーが、まずはじめに魂と一つとなり
その新たに誕生した真実の目でもって
その魂にとりついているヘドロ・無知・無明を
真実の般若の目で、真我の目で、そのヘドロ・無知・無明を看破することによって除去する
真実の魂の目で直視すること
そのことが、そのヘドロの意識を解消させることになるのではないのかと思われる
現在のパーソナリティーにはその役割があるということであろう
魂や魂の内奥のこと、そして真の私のこと等は、そして真理と愛とか叡智とかのことは思考を超え
ている次元であるが故に思考によっては接近することが出来ない
哲学や思想や、宗教や教えが如何に立派であり、実証的で、思索的に非の打ち所のないものであっても
その哲学や思想や教えというものは、思考の上に立脚ししており、お互いに思考や理性や知性でもって
検証していく・・というその過程の中では
その過程が思考である以上は、思考以上の次元の意識である真理はなく真我もないということ
思考である哲学や思想や宗教によっては真理を開示することは出来ないと言うことである、
思考による理解や説明では、真実や真理を体現できないと言うことであり、真理や真実を理解するのは
思考ではなく思考を超えている魂の内奥の意識であると言うことであろう
真理や実相や真我を開示することが出来るのは、思考ではなく、それらの思考が構築した哲学や思想や
鋭利な論理ではなくて、魂の内奥の次元の、その思考を超えた意識による認識だけであること
多くの宗教の教祖たちによって言われている、超越的な事柄もあくまで思考の領域であり、その超越体験や
実証も、現象も、この現象次元の思考から見たことであり、それ以上ではない
それらは主体と客体の区別の存在していない次元の事柄ではないと思われる
真実においては対象と主体は分離しておらず、そしてそれを認識している主体とは「すべてである真実の愛」で
あるからである、と言われている
肉体やその働き、そしてこの肉体や頭脳を生み出した絶大なる叡智が私たちの生命を生み出し、思考を支え
条件付けられた「私という観念」が活躍している次元の場を提供しており
この過程をハッキリと見れば、どこにも分離している私などが介在している余地のないことが、よく分かる
だが、このことの概念的な思考による理解でもって「私とは単なる観念」であり、「わたしは存在していない」という
間違った結論に誘導されてはいけない
その「私は存在していない」「私などは存在していなかった」という観念こそが「私という観念」のものである
その「私は存在していない」「私などどこにも存在していなかった」といっている私も実はその観念であり
その「存在していない私」が、「私は存在していなかった」といっているに過ぎない、ということに気がつくべきである
それらの教説とは無知な私たちに向けて語られている思考の領域内の教説にすぎず
真実は決して、教説や教えや思考による理解の範疇には存在していない
それらの教説や教えはある部分では確かに真実である・・・
それは・・このように完全完璧に作られている肉体も、自然も、宇宙も、頭脳もそして、あらゆる生物も世界も
自己も、私が作ったのではない・・と・・・けれど
「私という観念」がこれらの創造物を覆い、無知と無明が世を覆ってしまった・・等など
けれどもこれらの教えに共通していることは、私たちの極度に歪んでしまった認識の奥に、決して認識される
ことのない認識、「自他に分離して認識する」ことのない真実の認識が在る事を決して語らない
なぜならそれらは言語や思考や情報などの領域ではなく、言語や思考や情報では決して知ることもなく
理解されることのない次元であるからである。それこそが魂の内奥の次元であると思われる
私たちという偽りの私の奥に、決して思考しない、判断しない、分離して見ない、真実の目を持っている魂の内奥の
真我の存在とは語らないし語れない、言語や思考を超越しているからである。そこには魂の奥の直覚しか接近できない
この偽我や自我の奥に、偽りのサングラスを幾重にも重ねている眼鏡の奥に真の裸眼の全体の私は存在している
と教えられている
この虚妄の認識、自他の分離の認識をすることが出来るのさえも、真実の認識があるからこそである
日中の顕在意識や夢の意識を支え、そして潜在意識を支え、無意識を支え、熟睡を支えている意識されることの
ない意識が、意識しているからこそ私たちは意識していることが出来ている
この魂と真我の探求に際して、
言葉や思考を超えている真我の状態についての具体的な叙述のない哲学や思想や宗教や教えは、私たちを
どこにも導かないであろう
一見すると同じようにこの世界の、肉体の、頭脳の完全性を説き、「私とは観念であり存在していない」と説く
教えすらも、実は片面の真理しか説くことが出来ていない。なぜなら、それが哲学と宗教の限界なのである。
思考を否定することによって思考の虜に陥り、無我を説き自我が存在していない事を説きながらも自我の虜
になっているからである。と