弟子を悟らせる法
                          
(ウパディーシャ・サハスリー 「岩波書店」文庫版 シャンカラ より抜粋)



1:さて、解脱に導く手段を願い、この教えを信頼し、求める人々の為に、教える方
  法を説明しよう


2:この解脱に導く手段とは、ブラフマンの知識である。
  この知識以外の手段によって得られる無情なことなどの一切のものに意を用いず、
  息子や財富や人間の世界、祖霊の世界、神の世界という三つの世界に対する欲望
  を棄て、遊行者のうちの最高位にあるパラマハンサ出家遊行者となり、
  心の平安、感覚器官の制御・憐愍などを具え、聖典によってよく知られている弟
  子の性質を持ち、外的にも、内的にも清浄なバラモンであり、聖典の規定に従っ
  て師に近づき、職業、品行、ヴェーダ聖典に対する学識、家柄について念入りに
  調べた弟子に対して、充分に理解するまで、再三再四この知識を話すべきである。


3:行為の結果である世界をよく検討して後、バラモンは無関心に達する。・・・
  彼はこの知識のために、薪を手にもって、聖典に精通し、ブラフマンに安住して
  いる師の許に赴くべきである。
  この智者は、正しい仕方で近づき、心は沈静し、平静を具えた弟子に対して、ブ
  ラフマンの知識をありのままに語る。
  それによって弟子は不壊者、プルシャ、実在を知る。

  なぜならブラフマンの知識が確実に把握されるならば、
  自分自身の至福=解脱と、ブラフマンの知識の存続とに役立つからである。
  また、ブラフマンの知識が存続することは、船というものが向こう岸に行くため
  に、人々の役に立つからである。
  「実に、このブラフマンを、自分の長男またはそれに相応しい弟子に教えるべき
  であるが、他のいかなるものにも、教えるべきではない。
  たとえ、大洋に囲まれ、富に満ちた、この世界を彼に与えようとも、彼は『この
  ブラフマンはそれよりも優れている』というべきであるから」
  次のような天啓聖典と古伝書の聖句に拠れば、師による以外の方法ではブラフマ
  ンの知識は得られないからである。
  「正にこのように、この世に於いて師を持っている人は知る」
  「師から教えられた知識が、最もよく人の目的を果たせる」
  「師は船頭である、彼の正しい知識はこの世で筏と呼ばれる」


4:師は、種々の証拠から、弟子が未だその知識を理解していないということを知っ
  たら、
  それを把握できない諸原因−即ち(一)悪行、(二)世俗の放逸、(三)永遠の
  実在と無情なるものとの識別というヴェーダンタ哲学への入門条件について、あ
  らかじめ充分に学習していないこと、(四)他人の思惑を気にすること、(五)
  カーストに関する謝った考えなどについて、
  また、不憤怒などや、不殺生をはじめとする戒、並びに知識と矛盾しない内省・
  内制に拠って、誤ったものを除去すべきである。


5:そして師は、知識を得る手段である謙遜などの美徳を正しく弟子に体得させるべ
  きである。


6:そして師は、賛否両論を考慮することができ、優れた理解力、記憶力を持ち、心
  の平安、感覚器官の制御、憐愍、慈善心などを具え、
  諸伝統に精通し、この世の知覚できる快楽にも、あの世の知覚できない快楽にも
  執着することなく、一切の祭式とその手段を放棄し、ブラフマンを知り、ブラフ
  マンに安住し、非の打ち所のない生活を送り、偽善、高慢、瞞着、不正、詐欺、
  嫉妬、虚言、我執、自己本位などの欠点を持たず、ただただ他人を助けることを
  目的として、知識を用いることを願っている弟子に対して、
  まず最初に、師は次のようなもっぱらアートマンの唯一性を教えている天啓聖句
  を教えるべきである。

  「愛児よ、太初において、この宇宙は有のみであった。唯一にして、第二のもの
   はなかった」
  「他のものを見ず、他のものを聞かず、他のものを認識しないところそれが豊満
   である」
  「アートマンは、実にこの一切である」
  「ブラフマンは、実にこの一切である」
  「太初において、アートマンはこの宇宙であり、唯一であった」
  「この一切万有は、実にブラフマンである」

  以上のような天啓聖句を教えてから、次のような天啓聖句によってブラフマンの
  特徴を理解させるべきである

  「悪を離れ、その思惟は真実であるの・・アートマン」
  「直接的であって、超越的でないブラフマン」
  「飢渇を超越したもの」
  「そうではない、そうではない」
  「それは粗大でもなく、微細でもない」
  「このアートマンはただ・・そうでもない、そうでもない・・と表現されるに過
   ぎない」
  「実にこの不滅のものは、他に見られることなくして、自ら見るものである」
  「ブラフマンは識であり、歓喜である」
  「ブラフマンを実在として、知識として、無限として知るもの」
  「目に見えず、身体を持たず、表現されない・・ブラフマンに於いては」
  「実に、この偉大にして不生のアートマン」
  「このブラフマンは気息をもたず、意を持たず」
  「このプルシャは、実に内も外も含み、不生である」
  「この偉大なる実在は・・まさに認識のみである」
  「このブラフマンは内もなく、外もない」
  「それは実に、既に知られたものとは異なり、未だ知られていないものを超え
   ている」
  「実に、虚空とは名称・形態を展開するものである」


8:師はまた次のように天啓聖句によって述べられているブラフマンの特徴と矛盾
  することなく
  最高我は輪廻しないということを専ら教えている古伝書の聖句と、
  最高我は一切万有と不異であることを教えている聖句によって
  ブラフマンの特徴を理解させるべきである。

  「かれは生まれることなく、死ぬこともない」
  「彼は誰の悪をも・・・受けない」
  「大いなる風が、常に空間に存在するように・・・一切万有は、私の中に存在
   する」
  「私はアートマンであると知れ!」
  「それは有であるとも、非有であるともいえない」
  「無始であるから、属性を持たない」
  「最高の自在神は、一切万有の中に平等に住している」
  「至上のプルシャは、対象と異なって最高我と称される」


9:このように天啓聖句と古伝書によって、最高我の特徴を理解した弟子が、
  輪廻の大海を渡ることを望むのならば

  「愛児よ、君は誰ですか」と師は、かれに尋ねるべきである。


10:もし弟子が
  「私は、これこれしかじかの家系のものでございます。
  私は元学生で・・あるいは家住者でございましたが、いまはパラマハンサ
  出家遊行者でございます。
  生死という鰐が出没する、輪廻の大海から脱出したいと願っております」
  と答えるならば


11:師は次のようにいうべきである
  「愛児よ、君が死んだときには、まさにこの世に於いて身体は鳥に食べら
  れるか、土に帰ってしまう。
  そうすれば、君は身体を持っていないのに一体どのようにして輪廻の大海
  から脱出したいと願っているのか。
  なぜなら、身体がないのであり川のこちら岸で灰になってしまったならば、
  川の向こう岸へ渡ることはできないであろうから」と


12:もし弟子が
  「私は、身体とは別のものです。身体は生まれ、死に、鳥に食われて、土
  に帰ってしまい、剣や火などによって破壊され、病気などに罹ります。
  私は自分が行った善・悪の業の為に、鳥が巣に入る様に、この身体に入りま
  した。
  再三再四、この身体が消滅するとき、善・悪の業の為に別の身体に入るで
  しょう。
  前の巣が壊れたときに、鳥が別の巣に入るように、このように、私はこの
  始めのない輪廻の中にあります。
  私自身の業の為に、神・動物・人間・餓鬼の世界に於いて、繰り返し得ら
  れた身体を、次々に捨てながら、またまた繰り返し新しい身体を得ました。
  私自身の業の為に、井戸車の様に、生死の絶え間ない輪の中を順次に廻わさ
  れて、この身体を得ました。
  この輪廻の輪の中を廻ることに倦み疲れて、輪廻の輪の中を廻ることを止め
  るために、先生の許にお伺いしました。
  それゆえ、私は永遠であって、身体とは別のものです。
  身体は行ったり来たりします。人が着ている衣服のように・・。」
  と彼が答えるなら


13:師は次のようにいうべきである
  「君のいったことは正しい。正しく見ている。それなのに君は身体と同一視し
  て『私は、これこれしかじかの家系の息子でございます。私は元学生・・・
  或いは家住者でございましたが、今はパラマハンサ出家遊行者でございます』
  などと、間違ったことをなぜ言ったのか」


14:もし弟子が
  「先生、どうして私の言ったことが間違っているのでしょうか?」と尋ねる
   ならば

15:それに対して師は
  「君は、これこれしかじかの家系の息子です」などという言葉によって、アー
  トマン(私)はカースト・家系・入門式などの通過儀礼を持たないのにも
  拘わらず、種々のカースト・家系・通過儀礼をもった身体をアートマン(私)
  であると認識したのであるから、と答えるべきである。」



16:もし弟子が
  「どうして身体は、種々のカースト・家系・通過儀礼を持っているのでしょ
  うか。なぜ私(=アートマン)はカースト・家系・通過儀礼を持たないの
  でしょうか」と尋ねるならば


17:師は
  愛児よ、「なぜならばこの身体は君(=アートマン)とは別のものであって、
  身体は種々のカースト・家系・通過儀礼をどうして持っているのか、なぜまた
  君(=アートマン)はカースト・家系・通過儀礼を持たないか、ということを
  聞きたまえ」と言ってから
  弟子に
  「愛児よ、君は既に『愛児よ、太初においてこの宇宙は有のみであった。唯一
  にして第二のものはなかった』などという天啓聖典や古伝書の諸聖句によって、
  君は万有のアートマンである最高のアートマンが前に述べたような特徴を持って
  いると言うことを既に教えられたのであり、
  また君は、最高アートマンの特徴を持っている、既に教えられた、ということを
  思い出すべきである」


18:最高アートマンの特徴を思い出した弟子に師は彼の第一の質問に答えて次のよ
  うに言うべきである
  「この最高アートマンは虚空と呼ばれ、
  名称や形態とは異なった別のものであり、
  身体を持たず、粗大ではないなどの特徴を持ち、
  悪を離れていることを特徴として
  一切の輪廻の性質に触れることはない。」
  「直接的であって、超越的ではないブラフマンを私に説明せよ・・・それは一切
   万有に内在する汝のアートマンである」
  「他に見られることなくして、自ら見るものである。」
  「他に聞かれることなくして、自ら聞くものである。」
  「他によって思考されることなくして、自ら思考するものである。」
  「他に認識されることなくして、自ら認識するものである」

  この最高アートマンは、常住な認識を自己の本性として
  「内もなく、外もなく」
  「正に認識のみ」である。
  虚空のように遍満しており、無限の力を有し、一切万有のアートマンであって
  飢餓などから自由であり、また出現したり、消滅することもない。
  これは不可思議の力であるから、ただ存在するだけで未開展の名称・形態を
  展開する。
  未開展の名称、形態は自己のアートマンとは本質を異にし、世界の種子であり、

  自己のアートマンの中に住し、それであるとも、それとは別のものであるとも
  言い表すことができず。
  自分自身によってのみ認識される。


19:この名称・形態とは、本来は未開展であるが、まさにこのアートマンから展
  開しながら、虚空という名称・形態をとったのである。
  そしてこの虚空と呼ばれる元素は、このような仕方で清らかな自ら生ずる泡と
  いうもののように、最高のアートマンから生じたものである。

  泡は水とは、同一でもなければ、水と異なったものでもない、
  なぜなら泡は、水を離れて存在することはないから。
  しかし水は清らかであって、汚れを本性とする泡とは異なっている。
  このような最高アートマンは、泡に相当する名称・形態とは異なっており、清浄
  にして清らかであり名称・形態とは本性を異にしている。
  この名称・形態は本来は未開展であるが、最高アートマンから開展しつつ、泡に
  相当する虚空という名称形態を得たのである。


20:名称形態は、開展しながら、次第に粗大なものとなり、虚空から〈風〉と成り、
  風からまた〈火〉となり、火から<水>となり、水から<地>となる。
  このような順序で、前の元素が次にくる元素の中に入ることによって、地で終わ
  る五大元素が生起したのである。
  従って、地は五大元素の性質によって特徴付けられている。そして地から米や麦
  などの五大元素から成る植物が生ずる。
  それらの植物が食べられると、それぞれ女子や男子の身体に関係のある血液や精
  子などが生じる。この両者は、無明に駆られた愛欲の撹拌棒の撹拌によって引き
  出され、聖頌によって浄化されて、受胎に適した時期に胎内に注ぎ込まれる。
  これは子宮の体液がしみ込むことによって成長し、胎児となり、九ヶ月又は十ヶ
  月たって分娩される。


21:これらの身体とは、君とは別のものであって、種々のカースト・家系・通過
  儀礼を持つものである。

22:「意」及び諸感覚器官もまた君とは別のものである。
  『なんとなれば、愛児よ、意は食物からなり、気息は水からなり、言語は火か
  らなっている』などの天啓聖句によれば名称・形態を本質としている。


23:君が前に尋ねた「私はなぜ種々のカースト・家系・通過儀礼を持たないか」の
  その理由は「名称・形態とは本性を異にする、この名称形態の開展者=最高アー
  トマンが、名称・形態を開展しつつ、この身体を造り、みずからは通過儀礼
  の義務からは自由であり、名称・形態の中に入ったのである。

  かれは他に見られることなくして自ら見つつあり、他に聞かれることなく、自ら
  聞きつつあり、他に思考されることなく、自ら思考しつつあり、
  他に認識されることなくして、自ら認識しつつある」

  「一切の形態を識別し、それらの名称を創造して、呼びつつ坐す賢者」、 
  この意味を持った天啓聖句が何千とある。

  「この一切万有を造り終わって、彼はまさにその中に入った」
  「そのなかにはいった生物の支配者」
  「彼はここに、指の爪先まで入った」
  「これは一切万有の中にある汝のアートマンである」
  「かれはまさにこの頭頂を破って、この門から入った」
  「一切万有のなかに隠されているこのアートマン」
  「かの神格は、さあ、私はこの生命としてのアートマンをもってこれら三神格
  (=火・水・食物)の中に入り名称・形態を展開しようと考えた」
  「諸身体の中にあって身体を持っていないアートマン」

  これと同じ趣旨の古伝書の聖句がある
  「アートマンのみが一切の神格である」
  「個我(真の私のこと)は、九つの門を持つ都市(身体のこと)の中に支配者
   として安らかに坐す」
  「私をアートマンであると知れ」
  「最高の自在主は、一切万有の中に平等に安立する」
  「この肉体における最高のプルシャは、傍観者、許容者、最高のアートマンと
   も呼ばれる」
  「しかし至上のプルシャは、これらと異なっていて、最高のプルシャと称せら
   れる」
   それゆえに、君はカースト・家系・通過儀礼を持たないことが証明された。


25:もし弟子が
  「私とアートマンとは別のものでございます。私は無知であり、苦楽を経験し、
   束縛されており、輪廻いたします。
   他方アートマンは、私とは本性を異にし、輪廻することのない神です。
   私は供物、供犠、敬礼などによって、また私の階級、生活期に規定された諸
   行為を実践することによって、その神を崇拝して、輪廻の大海を渡りたい
   と願っております。
   どうして私ごときがその神でありましょうか」というならば


26:師は
  「愛児よ、そのように認識すべきではない。なぜならば差別を認めることは禁
   じられているから」と答えるべきである。

  「差別を認めることがどのようにして禁じられているのでしょうか」と弟子が
   尋ねれば、
   師は次のように答える。

  「私は、彼とは別のものであると考えて、他の神格を崇拝するような人は未だ
   知らない」
  「バラモンはバラモンをアートマンと異なったものとして知るものを排斥した」
  「この世に於いて、多様であるかのように見る者は死から死に至る」


27:これらの天啓聖句は差別を認めることが輪廻の生存に導くことを示している。


28:また解脱とは、同一性を認めることに基づくということを何千という天啓聖
   句が示している。
  
(※この場合の同一性とは知覚との同一性ではなくて、認識の主体との同一性
    である。
    認識の主体とは私であって、この私があるが故に統覚機能は「私と言う観念」
    を自分だと知覚する錯覚を起こすことが出来るが、統覚機能を成立させている
    基盤である認識主体たるアートマンの私は全ての対象と同一だと言うこと)


  「それはアートマンである。汝はそれである。汝はアートマンである」

   などという天啓聖句によってアートマンは最高のアートマンと同一であるこ
   とを教えてから
  「師を持っている人は知る」といい
  「私は無明の束縛から脱しないうちは、ここに留まるであろう。そのとき私は
   完成に達するであろう。」と述べて解脱の可能性を示している。
   また盗人でないものが灼熱された斧による試罪法を受けてろ焼かれなかった
   という実例によっても、天啓聖句は同一性の直観に基づいて、
   自分自身を真実で覆う者には輪廻が存在しないことを教えている。
   他方、盗人が焼かれたという実例によって、差別の実感(五感)に基づいて
   自分自身を虚偽
(※「自分は自我であり、自分は行為しているので私は真我
   ではない・・と思う観念)
で覆う者は輪廻の生存に赴くことを示している。


29:「それらは、この世に於いて或いは虎、或いは獅子或いは蚊であろうとも、
   それらはこれと異なる」などの実例によって、同一性の直観に基づいて
  「彼は自律となる」と天啓聖句は述べている。
  「しかし、これとは別様に知るものは他律となり、彼らには可滅の可能性があ
   る」

   という聖句によって、それと反対の差別の感覚に基づいて、輪廻の生存に赴
   くと言うことを教えている。
   これらはすべてのヴェーダの支派において教えられていることである。
   それ故に君が「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます。
   私は輪廻し、最高のアートマンとは本性を異にしております」
   と言ったのは誤りである。


30:それゆえに差別の感覚は禁じられている。

   祭式の実行は差別の感覚の領域にあり、また聖紐などは祭式の手段である。
   従って、祭式を実行し、祭式の手段を使用することはアートマンと最高のア
   ートマンとの同一性が理解されるならば、禁止されていると知らされるべき
   である。
   なぜなら諸々の祭式を執行し、聖紐などの祭式の手段を使用することは輪廻
   するものに命じられているのであって、アートマンと最高のアートマンとの
   同一性の直観を持っているものに、命じられているのではない。
   そしてアートマンが最高アートマンと異なっているとのことは、差別の感覚
   にのみ基づいているのである。


31:もし祭式が執行されるべきであり、捨てることが望まれていないならば
  「それはアートマンであり、汝はそれである」などの明白な聖句によって、最
   高アートマンは祭式とその手段、さらに祭式の要因である階級・生活期など
   には無関係であって、汝はアートマンとは同一であると直観されるべきであ
   ると述べなかったであろう

   さらに天啓聖句は
  「これはブラフマンを知るものの永遠の偉大さである。

   その偉大さは、行為によって増加することも減少することもない」
  「善が付随することなく、悪が付随することもない。何となればそのとき彼は
   あらゆる心の憂いを超越したからである」
  「そこに於いては盗人も盗人ではない」
   などの聖句によって差別を認めることを許認しなかったであろう。


32:もし祭式、及び祭式の手段である聖紐などを全く捨て去ることが望まれてい
   ないのなら、天啓聖句はアートマンが、本性上祭式と無関係であるというこ
   とや、さらに祭式の要因である四姓制度などとは本性上無関係であることを
   述べなかったであろう。
   それ故に解脱を求める者は、祭式をその手段とともに、全く捨て去るべきで
   ある。
   
   アートマンと最高アートマンとの同一性の直観と矛盾しているからである。
  
   また自己のアートマンは、天啓聖句がブラフマンについて述べているような
   特徴を備えているから、まさしく最高者である、
   と理解されるべきである。


33:もし弟子が
  「先生、私は身体が焼かれたり、切られたりするときには、苦痛をはっきりと
   知覚いたします。また飢餓などによって起こる苦しみをはっきりと知覚いた
   します。しかし最高アートマンはすべての天啓聖典及び古伝書の中で「悪も
   なく、老いることもなく、不死であり、憂いなく、飢渇から自由である」と
   いって一切の輪廻の属性を持たないと述べておられます。

   私は最高のアートマンと本質を異にし、多数の輪廻の属性を供えております
   のに、どうして最高のアートマンを自分自身と理解して輪廻する私を最高ア
   ートマンと見なすことができましょうか。

   それはちょうど火を冷やしたいものと理解するようなことではないでしょう
   か?
   私は輪廻の状態あるとはいえ、生天と至福(解脱)に導く一切の手段にあず
   からる資格がございます。
   生天と至福に導く手段である祭式及び聖紐などの手段を、どうしてまったく
   捨て去ることができましょうか」
   というならば


34:師は次のように答えるべきである

  「君は、私は身体が焼かれたり、切られたりするときは、苦痛をはっきりと知
   覚いたしますといったが、それは正しくない」

  「なぜでしょうか」

  「焼かれたり、切られたりしている木と同様に、身体とは知覚主体に拠って知
   覚される対象である。
   その対象である身体に於いて、焼かれたり切られたりする苦痛が知覚される
   のであるから、その苦痛は焼かれたり切られたりしている場所と同じ場所に
   ある。
(注:苦痛は身体の脳にあるのであり私ではないということ)
   それは身体が苦しんでいるのであって、認識主体にではない。
   なぜなら人々は焼かれたり、切られたりするその場所を、焼かれたり切られ
   たりする苦痛の場所として指摘するけれども、焼かれたり切られたりするの
   を知覚する主体に、苦痛があると指摘するのではないからである」

  「どのように指摘するのでしょうか」
  
  「何処が痛いのかと尋ねられたとき、人は頭が痛いとか胸が痛いとか腹が痛い
   とか言って、焼かれたるするその場所を苦痛の場所として指摘するが、

   しかし知覚主体を苦痛の場所として指摘するのではない。

   もし苦痛、或いは焼かれたり切られたりする苦痛の原因が、知覚主体にある
   のであるなら人が身体を焼かれたり切られたりする場所として指摘するよう
   に、知覚主体を苦痛の場所として指摘するであろう。


35:しかも苦痛そのものは目の中の色や形のように知覚されないであろう。
   それ故に苦痛は、切られたり焼かれたりするのと同じ場所を持つものとして
   知覚されるから、苦痛は焼かれること等と同じく、知覚の対象である。

   また苦痛は、生成を本性としているから、米の調理のように、拠り所を持っ
   ている、苦痛の印象もまた苦痛と同じ拠り所
(注:脳の中枢のこと)を持っ
   ている。
   なぜならば、苦痛の印象は、苦痛を想起すると同時に知覚されるからである。
   苦痛及び苦痛の原因に対する嫌悪も又、まさしく印象と同じより何処を持っ
   ている。
   従って次のように言われている。

  「貪欲と嫌悪は、色・形と共通の拠り所(=統覚機能=魂)を持っている。
   また知覚される恐怖も統覚機能を拠り所としている。」
  「それゆえに認識主体は常に清浄であり、恐怖を持たない」


36:「では一体、色・形などの印象は何を拠り所としているのでしょうか」師は
   次のように答える
 
  「欲望等がある場所である」

  「では一体、その欲望などは何処にあるのでしょうか」

  「欲望・思惟・疑惑・信仰・不信仰・堅固・不堅固・恥・思慮・恐怖・これら
   は一切は意に他ならない」

   等の天啓に拠れば、まさしく統覚機能にある。

   色・形などの印象もまた、そこにある。
   なぜなら

  「色・形は何処にあるのか。心にある」 という天啓聖句があるから

  「彼の心に宿る欲望」
  「なぜならそのとき、かれはあらゆる心の憂いを超越したからである」
  「なぜならこのプルシャには執着がないからである」
  「欲望を超越し、悪を捨て、恐怖を持たないもの。これは彼の本性である」
  「彼は不変者といわれる」
  「始めがないから、属性がないから」などさらに
  「欲望や憎悪などは対象である身体の属性であって、アートマンの属性ではな
   い」
   という古伝書の聖句によっても、不浄は対象のみにあるのであって、アート
   マン(主体)にあるのではない。


37:それ故に君は色・形を始めとする対象の印象などの不浄とは何の関係も持た
   ないから、
   最高のアートマンと本性を異にするものではない。

   このように直接知覚などの知識根拠と矛盾しないから「私は最高のアートマ
   ンである」と理解するのは正しい。
   なぜなら次のような天啓聖句があるから

  「私はブラフマンであると、彼は自分自身を知った」
  「ただ一つ、としてのみ見られるべきである」
  「私は実に下にある、私は実に上にある」
  「アートマンは実に下にある。アートマンは実に上にある」
  「人は一切をアートマンと見るべきである」
  「しかし、その人にとって一切がアートマンとなったとき、そこには彼は何に
   よって何を嗅ぎ得ようか」
  「このアートマンなるものは、この一切である」
  「これは部分を持たない」
  「このブラフマンは内もなく、外もない」
  「これは実に内も含み、外も含み、不生である」
  「ブラフマンは実にこの一切である」
  「かれは、まさしくこの頭頂を破って、この門から入った」
  「これらいっさいは叡智の名称である」
  「ブラフマンは実在であり、知識であり、無限である」
  「このアートマンから虚空が生起した」
  「この一切万有を造り終わって後、彼はまさにこの中に入った」
  「唯一の神は、一切万有の中に隠されている」
  「身体の中にあって身体を持たない」
  「彼は生まれることも、死ぬこともない」
  「人は偉大にして、遍満するアートマンによって、夢眠状態、覚醒状態の両者
   を経験するが、賢者はその彼(アートマン)を覚知して憂えることはない」
  「それは私のアートマンであると知るべきである」
  「しかしアートマンにおいて一切万有を見、一切万有に於いてアートマンを見
   る者はそれから畏縮することはない。」
  「それは動く、それは動かない」
  「ヴェーナはそれを見つつ、一切万有を知る」
  「それは実に火である」
  「私はかってマヌであった、私はかって太陽であった」
  「生類の支配者はそれらの中に入った」
  「太初に於いて愛児よ、この宇宙は有のみであった」
  「これは真実である。それはアートマンである。汝はそれである」


38:また次ような古伝書の諸聖句によって、君は唯一のアートマンであり、最高
   のブラフマンであり、一切の輪廻の属性を持たないと言うことが確立される。
  「一切生類は心臓の中に棲むものの身体である」
  「アートマンのみが一切の神格である」
  「個我(真の私のこと)は九つの門のある都市(身体のこと)に支配者として
   安らかに座る」
  「最高の自在主は一切の万有の中に平等に住す」
  「賢者は学識と戒を具えたバラモンに於いても、牛、象、犬並びに賤民におい
   ても同じものを見る」
  「差別あるものの中の無差別なるもの」
  「ヴァースディーヴァは一切である」


39:もし弟子が
  「先生、アートマンが
   内もなく外もなく
   内も外も含み、不生であり
   ちょうど塩の固まりのように「全く叡智のみであり」
   一切の種類の形態を離れ、虚空のように等質であるならば、
   行為の目的、行為の手段、行為の主体が実際に経験されたり、或いは天啓聖
   典に述べられていると言うことは、一体どうしてでありましょうか?
   このことは天啓聖典、古伝書及び世間一般によく知られていたことであり、
   何百という論者の間に見解の相違を起こす事柄なのですが」
   というならば


40:師は次のように答えるべきである
  「行為の目的、行為の手段、行為の主体が実際に経験されたり、或いは天啓聖
   典に述べられているが、
   
   それは無明の結果である。」

  「しかし、最高の真理の立場から見ればアートマンは唯一であるが、
   無明に基づく見解からすれば多数であるかのように見える。」

  「これはちょうど眼病に罹っている目で見れば、月は唯一であるのに多数のよ
   うに見える様なものである。」
  「実際にBが存在するかのように思われる場合に、AはBを見る」
  「二元が存在するかのように思われる場合に、AはBを見る」
  「この世において、多様であるかのように見る者は、死から死にいたる」
  「しかし、他を見、他を聞き、他を認識する場合は、それは小である・・・
   しかし小は死すべきものである」
  「変化物はただ言語
(注:頭脳と言うこと)による把握であり、名称であり、
   非真実である」

  「私と彼とは別物であると考えてアートマン以外の神格を崇拝する人は未だ知
   らないものである」
  「差別の感覚や、差別の知覚などを非難することは、妥当である。二元は無明
   の結果である。」
   さらに同じ結論が次のようなアートマンの唯一生を教える天啓聖句からも得
   られる。

  「愛児よ、太初に於いて、これは有のみであった」
  「唯一にして、第二のものは存在しなかった」
  「実にその人にとって一切が自分自身のアートマンとなった場合に、彼は何に
   よってなにかを嗅ぐことができようか」
  「唯一性を観じるものに何の混迷があろうか、何の憂いがあろうか」


41:「もしそうであれば、先生、一体何のために、天啓聖句には行為の目的、行
   為の手段などの区別や、世界の生起と掃滅等を
   述べられているのでしょうか」と弟子が訪ねるならば


42:師は次のように答える

  「無明を持っているものは、身体などの差別を得て、アートマンが望ましいも
   のと、のぞましくないものと結合していると考える。
   そして彼は、何らかの手段によって、望ましいものを得ようとし、望ましく
   ないものを捨てたいと望みながら、望ましいものを得る手段と、
   望ましくないものを捨てる手段とを識別する仕方を知らない。

   天啓聖典はそのことに関する無知を徐々に取り除くが、行為の目的・行為の
   手段などの差別を確立しているのではない。

   なぜならこの差別こそが望ましくない性質を持つ輪廻であるから。
   天啓聖典は世界の生起と掃滅などが同一のものであることの理由を示すこと
   によって、その差別の感覚、すなわち輪廻の根源である
   無明を根こそぎにする。


43:無明が天啓聖典、古伝書及び理論によって根こそぎにされた場合には、アー
   トマンは
  「内も外もなく」
  「実に内も外も含み、不生であり」
   塩の固まりのように「叡智のみ」であり、等質であり、虚空のように遍満し
   たものとなる。
   このようにして最高の真理を直観するものはこのアートマンに関して唯一の
   智慧が確立する。
   アートマンには、行為の目的・行為の手段・世界の生起、掃滅などの差別に
   よっては、ほんの僅かなの不浄すらも発生したり成立することはない。


44:そしてこの最高の真理の認識を得たいと望むものは、自己の階級、生活期な
   どがアートマンに属するという誤った見解の基づいて起こる
   五種の願望、即ち息子・財富・三界に対する願望を捨て去るべきである。

   そして、その誤った見解は、正しい見解と矛盾するから、差別の知覚を禁止
   するための理論は妥当である。

   なぜなら聖典と理論によって、唯一のアートマンは輪廻しないという理解が
   生まれたときには、それと矛盾する理解は存在しないからである。

   なぜなら火を冷たいと知覚することはないし、或いは身体は不生であり不死
   であるなどと確信することは無いからである。
   それ故に、一切の祭式及び聖紐などの祭式の手段は無明の結果であるから、
   最高の真理の直観に安住しているものによって捨て去られるべきである。



第二章 理解

45:ある学生が生と死を特徴とする輪廻に倦み疲れ、解脱を求めていた。くつろ
   いで座りブラフマンを確信しているバラモンに、彼は規則で
   定められた仕方で近づいて、次のように尋ねた。

  「先生、どうすれば輪廻から解脱することができましょうか、私は身体と感覚
   器官とその対象を意識しております。私は覚醒状態において
   苦しみを感じます。夢眠状態に於いても苦しみを感じます。熟睡状態に入れ
   ば中断しますが、そのご、再び苦しみを感じます。
   これは一体私の本性なのでしょうか?
   それとは別のものを本性としておりながら何かの原因によるものなのでしょ
   うか?
   もし、それが私の本性であるのならば、私には解脱する望みはありません。
   自分の本性から逃れることはないからです。
   もし、何かの原因によるものであるのなら、その原因を取り除くとき、解脱
   に達することができると思います。


46:師は彼に
  「聞きなさい!君。それは君の本性ではない。ある原因によるものである」


47:このようにいわれて弟子は
  「その原因とは何でしょうか?その原因を取り除くものは何でしょうか?私の
   本性は一体何なのでしょうか?
   その原因が取り除かれたときには、その原因に基づいているものはもはや存
   在しません。
   病人は、その病気の原因が取り除かれた時に健康を回復するように、私は自
   分の本性に立ち返るのだと思います」と尋ねた。


48:師は、
  「その原因は無明であり、それを取り除くものは明知です、無明が取り除かれ
   た時、輪廻の原因がなくなるから、君は生と死を
   特徴とする輪廻から解脱して、夢眠状態においても、覚醒状態に於いても、
   苦しみを感じなくなるのである」と答えた。


49:弟子は
  「その無明とは何でしょうか?その対象とは何なのでしょうか?また明智によ
   って自分の本性に立ち返るわけですが、
   その明智とは何なのでしょうか?」


50:師は答えた
  「君は最高我であって、輪廻しない。それにも拘わらず「私は輪廻しています」
   といって正反対に理解している。 
 
   また行為主体ではないのにも関わらず
  「私は行為の主体である」
   経験の主体でもないにも関わらず「私は経験の主体である」と、
   永遠に存在しているにも拘わらず「永遠に存在はしていない」と正反対に考
   えている。――これが無知なのです。」
(注:そのように思考しているものが
    私と偽って出現している無明・「私という観念」である)


51:弟子が次のように言った
  「私は永遠に存在しているとしても、最高我ではありません。私の本性は行為
   をしたり、経験したりすることを特徴とする輪廻です。
   このことは、直接知覚などでの知識根拠によって認識されるからです。また
   無明を原因としてはおりません。
   無明は自分のアートマンを対象とすることはできないからです。
   無明とはAの性質をBと同一視することです。
   たとえればよく知られている銀をよく知られている真珠母貝と同一視したり、
   よく知られている人間をよく知られている木の幹と同一視し
   たりするように。
   しかし、よく知られていないものを、よく知られているものに、またよく知
   られているものを、よく知られていないものと同一視することはありません。
   アートマンはよく知られていないのでアートマンでないものをアートマンと
   同一視することはありません。
   また、アートマンはよく知られていないのでアートマンをアートマンではな
   いものと同一視することはありません。
   従って、無明がアートマンを対象とすることはありません。


52:師は弟子に答えた
  「それは正しくない。例外があるから。君、必ずもよく知られているものが、
   よく知られているものだけと同一視されるとは限らない。
   アートマンと同一視されるのが現に経験されるから。
   私は色が白い、私は色が黒いという場合には、身体の性質が私と言う‘観念
   の対象であるアートマン’と同一視されているし、私はこれです
   という場合には、‘私という観念の対象であるアートマン’が身体と同一視さ
   れているのです。
 
  (訳注:この場合はアートマンが理解されておらず、観念の対象となってし
    まっている)



53:弟子が言った
  「その場合には、アートマンは私という観念の対象として、よく知られている
   ものです。身体もまた「これ」としてよく知られているものです。
   そういうわけですから。木の幹と人間、真珠母貝と銀の場合と同様に、よく
   知られている身体とアートマンとの相互の同一視されているに過ぎません。
   とすれば、先ほど、先生は「両者ともによく知られているものだけが、相互
   に同一視されるとは限らない」と仰いましたが、それはどのような特別の理由
   に基づくのでしょうか。


54:師は答えた
  「聞きなさい。確かに身体とアートマンとはよく知られている。しかし木の幹
   と人間の場合とは異なって、すべての人によって、はっきりと区別された観
   念の対象として、よく知られているわけではない。」
  
  「では、どのように人々に知られているのでしょうか」

  「常に、全く区別のない観念の対象として知られているのです。誰も『これは
   身体。これはアートマン』というようには、はっきりと区別された
   観念の対象として、身体とアートマンとを把握していないからです。
   従って人々は、『アートマンとはこのようなものである』『アートマンとは
   そのようなものではない』と考えて、アートマンとアートマンでないもの
   に関して非常な混迷に陥っている。
   このような特別な理由から私はそのようには決定できないといったのです」


55:弟子は別の反論を述べた
  「無明によって、Aと同一視されたBは、Aには実在しない、ということが経験さ
   れるのではないでしょうか。
   例えば真珠母貝と同一視された銀は、真珠母貝に実在しない。
   縄と同一視された蛇は、縄には実在しない。
   虚空と同一視された地上の塵埃は虚空に実在しないように。
   それと同様に、身体とアートマンもまた、つねに全く区別のない観念として、
   相互に同一視されるならば、身体はアートマンに、アートマンは
   身体に常に実在しないことになるでしょう。

   真珠母貝などに、無明によって同一視された銀が、常に実在することなく、又
   その逆も同様であるように。身体とアートマンも、無明によって同じ
   ように相互に同一視されるに違いありません。
   とすれば、身体もアートマンも実在しないという結果が付随して起こると思
   います。
   しかし、それは虚無論者の主張ですから承認できません。
   相互同一視ではなく、身体だけが無明によってアートマンと同一視されるという
   のであれば。アートマンは実在するが、身体はアートマンに実在し
   ないという結果にあるでしょう。
   しかし、それは直接知覚などの知識根拠と矛盾するので承認できません。
   従って身体とアートマンは無明によって相互に同一視されると言うことはあり
   ません。」

  「そのときには、身体とアートマンとは、どういう関係にあるというのですか」

  「身体とアートマンは家屋に老いて、常に結合している竹と柱の様に、常に結
   合しております」と弟子が答える。


56:師は次の様に答えた
  「それは正しくない、もしそうであればアートマンは無常であり、他のために
   存在する、という結果が付随して起こるからである

   君の意見ではアートマンは結合したものであるから、竹や柱のようにアート
   マンは他のために存在し、無常である。
   さらに他の人々が、身体と結合していると想定しているアートマンも結合し
   たものであるから、他のために存在する・・などとなってしまう。
   このことによってまず、第一にハッキリとしなければならないことは、

   最高のアートマンは身体と結合していないし、身体とは別物であって、常に
   存在するということです。」


57:弟子は反論した
  「アートマンは結合したものではないとしても、身体に過ぎないとみなされ、
   身体と同一視されてしまうので、アートマンは実在せず、無常であるという
   論理的同一視が起こります。
   その場合には、先生のご意見では、身体はアートマンを持たない、とする虚
   無論者の主張に帰着するという論理的欠陥が生じるでしょう。」


58:師は答えた
  「それは正しくない。アートマンは虚空のように本性上は何ものとも結合して
   いないと言うことが承認されているから。

   アートマンは何ものとも結合していないとしても、身体などの一切のものが
   アートマンを持たないということにはならない。
  
   虚空が一切のものと結合していなくても、一切のものが虚空をもたないとい
   うことにはならないのと同じです。
   従って虚無論者の主張に帰着するという論理的欠陥は生じません。」

    (※上位次元が実在しているので下位次元があり実存しているということ
      であろう、意識が在るので思考が働いている)



59:さらに君は、前にアートマンは実在するとしても、身体がアートマンに実在
   しない場合には、直接知覚などの知識根拠と矛盾すると言ったがそれは
   正しくない。
   というのはアートマンに、身体が実在すると言うことは、そもそも直接知覚
   などの知識根拠によって認識されないから。
   壺の中のナツメの実、牛乳の中のギー、ゴマの中の油、壁の上に描かれよう
   としている絵の様にアートマンの中の身体は、直接知覚などの知識
   提供によって認識されないからである。従って直接知覚などとは矛盾しない。」


60:弟子は尋ねた
  「その場合には、直接知覚などの知識根拠によって知られないアートマンにど
   うして身体が付託されたり、身体にアートマンが同一視されたりするの
   でしょうか?」


61:師は答えた
  「それは何も不都合なことではない。アートマンは本性上知られているから。
   必ずしも偶然に知られるものにのみ同一視され、つねに知られているものに
   は同一視されないとは限らないからです。
   というのは虚空の上に地上の塵埃などが同一視されるのが経験されるから」


62:弟子は別の問題について尋ねた
  「先生、身体とアートマンの相互同一視は、身体・感覚器官などの集まりによ
   ってなされるのでしょうか、それともアートマンによってなされるのでし
   ょうか」


63:師はいった
  「もし身体・感覚器官などの集まりによってなされるならば、そのときには
   どうですか」


64:このように言われて弟子は答えた
  「もし私が身体などの集まりに過ぎないのであるならば、そのとき私は非精
   神的なものですから、他のために存在しております。
   従って私が、身体とアートマンを相互に同一視することはありません。
   もし私が最高我であり、身体などの集まりとは異なるものであるならば、
   私は精神的なものですから、自己を目的としております。
   従って、精神的な私が、アートマンに対して一切の禍である同一視を行います」


65:このように弟子が答えたとき師はいった
  「もし君が誤った同一視が禍の種子であることを知っているのならば、それをし
   てはなりません」


66:弟子は言った
  「先生、私は誤った同一視をせざるをえません。他の何ものかによって私はそれ
   をさせられるのです。私は独立ではありません。」

67:師はいった
  「そのとき君は非精神的なものですから、自己を目的とするものではなりません。
   非独立的な君に誤った同一視をさせるものは、自己を目的とする精神的なもの

   (※マーヤ・無知ということか)
なのです。
   そうであるときには君は身体などの集まりに過ぎないのです。」


68:弟子は反論した
  「もし私が非精神的なものであるのならば、苦楽の感覚や先生の仰ったことを、
   私はどのように認識するのでしょうか?」

69:師は言った
  「君は苦楽の感覚とか私の言ったこととは別のものなのですか?それとも同一の
  ものなのですか?」


70:弟子は答えた
  「確かに私は両者と同一ではありません」
  「なぜか」
  「私は、その両者を壺のように認識の対象として認識しますから。もし私が両者
   と同一であるならば、私はその両者を認識できないことでしょう。
   しかし、私は両者を認識します。
   私は両者とは別のものです。私が両者と同一である場合には、苦楽の感覚の変
   化が自己を目的とするものとなり、また先生の仰ったこともそのようになるこ
   とでしょう。
   しかし、両者が自己を目的とするものであると言うことは合理的ではありませ
   ん。
   白檀から起こる快感と棘から起こる苦痛は、白檀や棘のせいではありません。
   壺がもちいられるのは壺のためではないのですから。従って白檀などはその
   ‘認識主体即ち私’の、役に立つ訳なのです。私は白檀などとは別のものであ
   って、統覚機能にのぼるすべての対象を認識するから
   です」
(※統覚機能に上る全ての対象を認識しているとは、観察者は観察され
   るものであることを観照している、純粋な精神である主体のこと)


71:師は弟子にいった
  「その場合には、君は精神的なものであるから、自己を目的とするものであり、
   他のものによって誤った同一視をさせられることはありません。
   精神的なものが他のものに依存したり、他のものによって誤った同一視をさせら
   れることはない。
   なぜなら二つの灯火のように、二つの精神的なものは平等であるから、精神的
   なものが精神的なもののために存在するということは不合理であるから。
   また精神的なものが非精神的なものの為に存在すると言うこともない。
   非精神的なものは、まさに非精神的なものであるから、
   それが自分自身の目的に関係するということは不合理であるあるから。
   さらに二つの非精神的なものが、お互いのために存在すると言うことも経験さ
   れない。木と壁がお互いに役立つということはないからです。」


72:弟子は反論した
  「召使いとその主人は精神的なものであるという点に於いては等しいわけです
   が、両者は相互の為に存在するということが経験されるのではないでしょうか」


73:師はいった
  「そうではない。火が熱と光輝を本性としてもっているように、君は精神性を
   本性として持っているということを言おうとしたから。そしてその意味
   に於いて『二つの灯火のように』という実例を挙げたのです。

   そういうわけで、君は自分の本性によって、すなわち火の熱と光輝に相当す
   る不変・常住な精神性
(※純粋精神のこと) によって、君の統覚機能にのぼる一
   切のものを知覚するのです。

   このように君がアートマンは常に無差別であるということを承認するならば、
  『私は熟睡状態に於いては中断しますが、覚醒状態と夢眠状態においては繰り
   返し苦を感じます。これは私の本性でしょうか、それとも何かの原因によって
   起こるものでしょうか』と君はなぜ言ったのですか。
   この迷いはなくなったのか、それともなくならないのか?」


74:このように言われて弟子は
  「先生、先生のおかげで迷いはなくなりました。しかし私が不変であることにつ
   いて疑問があります」と答えた。
  「どのようにか」
  「音声などという外界の対象は、それだけで確立しているものではありません。
   非精神的なものですから。それらは、音声などという外界の対象の形相を持っ
   た観念が生じる事によって確立されます。
   一方、これらの観念は、相互に相容れない属性である青・黄などという外界の
   対象の形相とをもっていますから、それだけで確立することは不可能だからで
   あります。
   従って観念は、外界の対象の形相を原因としていると理解されます。それゆえ
   に観念は外界の形相を持つものとして確立されます。
   同様に『私』という観念の拠り所であるもの、即ち、統覚機能の変形である観
   念もまた、他のものと結合しております。
   従って観念は非精神的なものであるというのが理に適っております。

   それゆえに、観念が自己を目的としていることは不可能ですから、自己と本性
   を異にした認識主体の認識対象として確立します。
   音声などという外界の対象と全く同じようにです。
   もし私が他の何ものとも結合していないとすれば、精神性を本性としておりま
   す。
   従って、私は自己を目的としております。
   それにもかかわらず、私は青・黄等という外界の対象の形相をもった諸観念を
   知覚する主体ですから変化いたします。
   それ故に私が不変であるということには疑問があります」

75:師は弟子に答えた
  「君の疑問は理に合わない。君はこれらの観念を必ず残りなく知覚するのである
   から君は変化しない。

    (※真の私は現在意識の私が知覚していない全ての事を必ず残りなく知覚して
     いるということ)
    
それ故に君が不変であるということが証明される。
  
 (※この証明とは真の私から観た観点である)
   しかし君はまさにこの肯定的結論の理由−すなわち統覚機能の動きを余すとこ
   ろなく知覚するという事実を、(君が不変であるということに関して)疑問が
   起こりう理由であるといった。

   これが君の疑問が理に合わない理由である。
   もし君が変化するとすれば、統覚機能がその対象を、感覚器官がその対象を
   余すところなく知覚するということがないように、君は自分の対象である統
   覚機能の動きを余すところなく知覚するということはないであろうし、また
   君は、即ちアートマンは自分の対象の一部すら知覚することはないであろう。
   それ故に
(※真の私の君は余すところなく知覚しているので)君は不変です。」


76:そこで弟子はいった
  「知覚とは、動詞の語幹の意味するもの、すなわち変化に他なりません。
   知覚する主体の本性が不変であるということはこの事実と矛盾しております」


77:師はいった
  「それは正しくない。というのは『知覚』という語が、語幹の意味する変化を
   表すのは比喩的用法であるから、統覚機能の観念が動詞の語幹の意味
   するものであり、変化を本性としているが、最終的にアートマンの知覚が、
   知覚主体であるかのように現れる〈顕現〉という結果で終わる。
  
 (※知覚には段階があり五感から超感覚、第7感であるアチューメント、第8感
     である合一、非分離さらに第9感。第10感と続いている)

   それゆえに統覚機能の観念が知覚という語によって比喩的に示されている。
   例えば『切断』という動作は結果として、切断されるべき対象が二つの部分に
   分けられた静止の状態で終わる。従って本来このような静止の状態を
   意味する、切断という語は比喩的に語根の意味する、切断の動作としてもちい
   られているのと同様です」


78:このようにいわれて弟子は
  「先生、その実例では、私が不変であることを説明することは出来ないのではな
   いでしょうか」
  「どうしてか」
  「切断されるべき対象の変化で終わる『切断』が、比喩的に語根の意味する〈切
   断の動作〉として用いられます。それと同様に、統覚機能の観念もまた、語根
   の意味するものであり知覚という語に拠って比喩的に示され、アートマンの知
   覚の変化で終わるならば、先生の仰った実例ではアートマンが不変である事を
   説明することはできません」


79:師は答えた
  「もし知覚と、知覚主体との間に区別があれば、君のいうことは正しいであろう。
   しかし知覚主体とは恒常知覚に他ならない。
   
(※最高の知覚の主体とは、主体と対象に分離されていないと言うことであり恒
     常な途切れない純粋精神の知覚だと言うこと)

   論理学者の教説におけるように、知覚と知覚主体とは別のものであるというの
   は正しくない」


80:弟子はいった
  「ではどうして語根の意味する動作が知覚という結果で終わるのでしょうか?」


81:師は答えた
  「聞きなさい統覚機能の観念は、アートマンの知覚が知覚主体であるかのように
   現れるという結果で終わると私は言った。
   
(※統覚機能である魂は、最終的にはアートマンの知覚が知覚主体であるかの
     ように顕れるということは、鏡に真我の太陽の知覚が顕れるということ)

   きみはそれを聞かなかったのですか?
   私は統覚機能の観念はアートマンに変化が生じるという結果で終わるとは言わ
   なかった」


82:弟子は言った
  「では、私が不変であるならば。私は私の対象である統覚機能の動きを余すと
   ころなく知覚する主体であると何故仰ったのでしょうか」


83:師は弟子に答えた
  「私は真理だけを話した。
   まさしく〈君は統覚機能の動きを余すところなく知覚する主体である〉とい
   う真理に基づいて、君は不変であると言ったのです。
   
(※真の私は、魂である統覚機能の動きを余すところなく観ている静寂の純
     粋精神であり、不変であるということ)



84:弟子は言った
  「先生、もしそうであれば、私は不変・恒常な知覚を本性としており、他方、
   音声などと言う外界の対象の形相を持った統覚機能の観念が
   生じて、かつそれは私の本性である知覚が知覚主体であるかのように現れる
   という結果で終わります。
  
 (※魂である統覚機能の知覚とは、その知覚の主体ではなくその知覚の、主
     体とは純粋精神であると言うこと)

   その場合には、一体私にはどういう誤りがあるのでしょうか?


85:師は答えた
  「君の言うことは正しい。君には何の誤りもない。しかし私は、無明だけが誤
   りであると前に言った」


86:弟子は尋ねた
  「先生、もし熟睡状態にある場合のように、私に変化が存在しないならば、ど
   うして私は夢眠状態と覚醒状態とを経験するのでしょうか」


87:師は弟子にいった
  「しかし、君は夢眠状態と覚醒状態の両者を常に知覚しているのですか?」

88:弟子は答えた
  「確かに、私は両者を知覚します。しかし断続的であって、常に知覚してい
   るというわけではありませんが」

89:師は彼にいった
  「その両者(覚醒状態と夢眠状態)は偶然的なものであって、君の本性では
   ない。
   もし両者が君の本性であるならば、君の本性、即ち精神性と同じように、
   それだけで確立しており、連続するはずである。
   それに、夢眠状態と覚醒状態は君の本性ではない。

    (※この二つの状態を自分の状態だと錯覚しているのは統覚機能である)

   衣服などのように離れ去るから。
   本性が、その本性の所有者から離れ去ると言うことは経験されない。
   しかし夢眠状態と覚醒状態は精神性のみの状態から離れ去る。
   
(※真の私である純粋精神は夢眠状態や覚醒状態のように熟睡によって中断
    されない)

   もし熟睡状態に於いて自己の本性が離れ去るなら『自己の本性は消滅してし
   まった』とか、あるいは『自己の本性は存在しない』と言って、
   必ずその存在は否認されるであろう。
   なぜなら偶然的であって、自己の本性ではない属性(覚醒状態と夢眠状態)
   は、両方の性質即ち可滅性と非存在性を持っていることが経験されるから。

    (※熟睡状態によって中断される覚醒状態と夢眠状態の意識とは私の意識
      ではないということ)

   ちょうど財産や衣類などが消滅するのが経験され、夢或いは錯乱の中に得
   られたものは実在しないのが経験されるように」


90:弟子は反論した
  「先生、もしそうであれば、夢眠状態や覚醒状態にある場合と異なって、熟睡
   状態に於いては、私は何ものをも知覚しませんから、私の本性、
   即ち精神性も偶然的なものとなるでしょう。又は私の本性は精神性ではない
   こととなるでしょう」


91:師は答えた
  「そうではない。よく考えなさい。それは不合理であるから。
   君が自分の本性、即ち精神性を偶然的なものと見なすならば、そう見なしな
   さい。
   我々も他のもの即ち非精神的なものも、たとえ1世紀かけたとしても、その
   ことを合理的に証明することはできない。
   そのような本性は他のものと結合しているのであるから、何人もそれが他の
   ために存在すること、多数であること、可滅であることを、合理的に
   否定することはできない。
   われわれが既に述べたように、自己を目的としないものが、それだけで確立
   しているということはないからである。
   しかし、精神性を本性とするアートマンはそれだけで確立している。
   従って、他の何ものにも依存していないということを、何人も否定すること
   はできない。
   なぜなら、アートマンは何人からも離れ去ることがないからである。」

    (※アートマンという純粋精神があるからこそ、純粋精神ではない覚醒状
      態や夢眠状態の途切れてしまうところの“身体と結合している非精神
      的意識”も成り立っていると言うこと)


92:弟子は反論した
  「しかし『私は熟睡状態において何も見ません』といって、私はすでにアート
   マンが離れ去ることを指摘したではありませんか」


93:師は答えた
  「それは正しくない、矛盾しているから」
    
(※アートマンは熟睡状態に於いても離れ去っていないと言うこと)

  「どのように矛盾しているのでしょうか」
  「君は見ているのに『私は何ものも見ていなかった』というのは矛盾している」

  「先生、私は熟睡状態に於いては、決して精神性も他の何ものをも見たことが
   ないからです」

  「それならば、君は熟睡状態に於いて見ているのだよ
   君は見られる対象の存在を否定しているだけであって、
   君が見てることを否定しているのではない。
   君が見ること、それが精神性である、と私は言ったのです

    (※見る事である真の私の純粋精神は続いているのに、統覚機能である魂の
    知覚では、真の私である「対象が無い純粋精神の見ている状態」を理解出来
    ないので、熟睡して何も見ていないと、見る事と、対象を知覚している知覚
    を混同してしまうということ)


   君は、その常に存在するものに基づいて『私は何も見なかった』といって見
   られる対象の存在を否定するが、
   それが見ることであり、君の精神性である。
   そうであれば君の精神性は、決して離れ去ることがないから、精神性の不変
   ・恒常性は決して離れ去ることがない、
   精神性の不変・恒常性は自ずから確立しており、
   その確立のためにはいかなる認識根拠をも必要とはしない。

   認識主体は、みずから確立しているとはいえ、それとは別の認識対象を識別
   するために認識根拠を必要とする。

   恒常な識別は、それとは別の、識別を本性とはしないものを識別するために、
   必要とされるが、それは実に不変・恒常にして、
   本性上みずから輝くものである。

   恒常な識別は、それ自身が認識根拠であり、認識主体であることに関して識
   別するためには何ら認識根拠を必要としない。
 
  (※真我の目はそれ自身で認識根拠であり、それを見たり、認識したりする
     と言う他の認識を必要としない、自ら自らを見ている目が目を見ている、
     非対象の目である)

   
   その認識根拠である性質と認識の主体であるという性質の両性質を本性とし
   ているからである。
  
 (※その目は対象と主体が分離していないということ、知覚ではないと言うこと)

   例えば鉄や水などにある光輝や熱は鉄や水などの本性ではないから、他のも
   の、即ち火や太陽などを必要とするが、
   火や太陽などの光輝や熱は常にそれらの本性であるから他のものを必要とし
   ないのと同様です。


94:もし君が「直接知覚・推論などの知識根拠から得られる経験的知識は、それ
   が無常である場合にのみ存在することができ、恒常である場合には存在でき
   ないでしょう。」というならば

 
95:それは正しくない。理解に恒常なものと無常なものとを区別することは不合
   理であるから。
   理解が経験的知識であるとすれば、無常な理解が経験的知識であり、恒常な
  理解はそうではないというような区別は考えられないから。
 
 (※自我から見た場合は自我と真我が別であるが、真我から見た場合には自我
    は真我の光りの中では区別されず、梵我一如である)


96:もし君が経験的知識が恒常的な理解である場合には、知識主体はいかなる知
   識根拠も必要としない。
   しかし、経験的知識が無常なる理解である場合には、知識主体の努力によっ
   て媒介されているから、知識主体は理解を必要としているという区別があり
   ます」というならば


97:その場合には、知識主体自体には、知識根拠を必要としないから、自ら確立
   しているとうことが証明される。


98:もし君が、『理解または経験的知識が存在していないとしても、知識主体は
   恒常であるからいかなる知識根拠も必要としない』というならば、
   それは正しくない。何となれば、理解は知識主体自体の中にのみ存在してい
   るから。君の反論はこのように反論される。


99:もし、知識主体が確立されるのに知識根拠が必要であるならば、知ろうとす
   る欲求は一体何に属するのであろうか?
   知ろうとする欲求を持つもの、それこそが知識主体であると承認されている。
   さらにこのような知ろうとする欲求の対象は知識の対象であって知識の主体
   ではない。
   もし知ろうとする欲求が知識の主体である場合には、結果として、知識の主
   体とその欲求に関して無限遡及になるからである――
  
   この知識の主体に対してはそれとは別の知識の主体が、その知識の主体に対
   してはさらに別の知識の主体があるという具合に、
   欲求の対象が知識主体である場合には、このようになる。
   また知識主体自身は何ものによっても媒介されることがないから、知識の対
   象となることは不合理である。
   この世における知識の対象は、知識主体の欲求・記憶・努力・知識根拠の生
   起を媒介として確立される。
   こういう仕方でなければ、知識の対象に関する理解は経験されないから。
   さらに、だれも知識主体自身が、それ自体の欲求などの中のいづれかによっ
   て、媒介されるとは想定することできない。
   又記憶の対象は記憶されるべき対象であって、記憶する主体ではない。
   同様に欲求の対象は、欲求される対象であって欲求する主体ではない。
   その両者の対象が記憶する主体と欲求する主体であるとすれば、前と同様に、
   無限遡及となることは避けられないからである


100:もし君が『知識主体に関する理解が生じない場合には、知識主体が理解さ
   れることはないのではなでしょうか』というなら


101:それは正しくない。
   理解する主体の理解の対象は、理解されるべき対象であるから。
   もしその対象が理解する主体であるならば、前のように、無限遡及となるこ
   とであろう。
   しかもアートマンにある理解、即ち不変・恒常的なアートマンの光は、火や
   太陽などにある熱や光輝のように、他のものに依存することなく
   確立しているということは、既に前に証明された。

   もし、自分のアートマンにある理解、即ち精神性というアートマンの光は無
   常であるならばアートマンが自己を目的としていることは不合理である。
   さらに我々が既に述べたように、身体と感覚器官の集まりのように、他のも
   のと結合しているから、他のために存在し、欠点を備えている。

  「どのように仰ったのですか、もう一度」

  「自己のアートマンにある精神性、即ちアートマンの光(理解)が無常である
   ならば、記憶などによって媒介されるから、他のものと結合している。
   それ故に、その精神性の光は、その生起の前と、滅して後にはアートマンの
   なかに存在しないこととなるから、視覚などのように他のものと結合
   している事となり、従って他のものに存在するものとなるであろう。

   しかも、この光が生起してアートマンのなかに存在する場合には、アートマ
   ンは自己を目的とするものではない。
   その光が、存在するためにはアートマンは自己を目的とするものであり、そ
   の光が存在しないためにアートマンでないものは他のものの為に存在すると
   言うことが確定されるからである。
   それゆえ、アートマンが恒常的な精神性を光としていることは、他の何もの
   をも必要とすることなしに確立している」


102:弟子は反論した
  「もしその通りであり、知識の主体は経験的意識の媒体ではないのなら、どの
   ようにして知識主体は知識の主体となるのでしょうか」


103:師は答えた
  「経験的知識は、恒常であろうと無常であろうと、その本性には何の差別も存
   在しないから。
   というのは経験的知識は理解に他ならないから。記憶・欲求などが先行して
   無常であろうと、不変・常住であろうと、この経験的知識には、その本性に
   何の差別も存在しない。
   語根の意味するもの、即ち語根stha-等の意味する〔立つ〕等の本性には、
   その結果が行くなど諸動作によって先行されて無常であろうと、
   それらの諸動作によって先行されることなく恒常であろうと、何の区別もない。
   従って‘人々は立っている’‘山々は立っている’などの同じ表現が見られる。
   それと同様に知識主体は恒常的な理解を本性としているとはいえ、それを知
   覚主体として言い表すことは矛盾していない。結果が等しいから」


104:そこで弟子は言った
  「恒常的な理解を本性とするアートマンは不変ですから、大工は手斧などの道
   具と結合するように、身体及び感覚器官と結合しなければアートマンが行為
   の主体となることは不可能であります。
   もし本性上何ものとも結合していないものが身体及び感覚器官を用いる場合
   には結果として無限遡及となることでしょう。
   しかし大工などは、つねに身体及び感覚器官と結合しております、従って手
   斧などを用いても無限遡及とはなりません」


105:師はいった
  「しかし、その場合には本性上、何ものとも結合していないものは、道具を用
   いなければ行為の主体となることは不可能であるから、行為の主体となるた
   めには道具が用いられるべきである。
   しかし道具を用いることもまた変化に他ならないから、その行為の主体とな
   る場合には他の道具が用いられるべきである。
   この道具を用いる場合にも、さらに他の道具が用いられるべきである。
   このように知識主体が独立である場合には、無限遡及はさけられないであろ
   う。

   また行為は、アートマンに行為を起こさせることはない。  
   未だ実行されていない行為は、自己の形相を持たないからである。
   もし、君が他のものがアートマンに近づいてアートマンに行為を起こさせる
   のである・・というならば、それは正しくない。

   なぜならアートマン以外のものがそれだけで確立しており、対象ではない等
   と言うことは不合理であるから。
   アートマンとは、別の非精神的な事物が自分を知識根拠としていると言うこ
   とは経験されないから。
   音声などの一切は、理解という結果で終わる観念によて認識されて確立した
   ものとなる。
   もし、アートマン以外のものが理解を持っているのであれば、それも又アー
   トマンであり、何ものとも結合せず、自己を目的としており、他のために存
   在するものではない。

   さらに我々は、身体・感覚器官及びその対象が自己を目的とするものである
   とは理解されない。
   それらのものは、理解で終わる観念によって確立されるのが経験されるから。


106:弟子は言った
  「弟子を理解するときには、誰も直接知覚などの知識根拠に基づく他の観念を
   必要とはしないのではないでしょうか」


107:師は答えた
  「確かに、覚醒状態に於いては、その通りであろう。
   しかし死及び熟睡状態に於いては、身体も又直接知覚などの知識根拠によっ
   てのみ確立される。
   諸感覚器官も同様である。何となれば、音声などの諸々の外界の対象は身体
   と、感覚器官の形に変化される。
   従って、身体と感覚器官は、直接知覚などの知識根拠に拠って確立される。
   そして確立とはわれわれが既に述べたように、知識根拠から生じる結果即ち
   理解である。
   この理解は不変であり、それだけで確立しており、アートマンの光を本性と
   している。


108:そのとき質問者は言った
  「理解が知識根拠の結果であり、かつ不変・恒常であってアートマンの光を本
   性であるというのは矛盾しておりませんか」
   このように言った弟子に師は答えた
  「矛盾していない」

  「ではどのように矛盾していないというのでしょうか」

  「理解は不変・恒常であっても、直接知覚などの知識根拠に基づく観念(形成
   過程)の終わりに現れる。
   観念形成過程はそれを目的としているからである。

   直接知覚などの知識根拠に基づく観念が無常である場合には、理解は恒常で
   はあるとはいえ、いわば無常であるかのように
   思われる。それ故に理解は比喩的に知識根拠の結果であると言われる


109:弟子は言った
  「先生、もしそうであれば、理解は不変・恒常であり、アートマンの光を本性
   として、それだけでも確立しております。
   自分自身に対して知識根拠を必要としていないからであります。

   それ以外のものは非精神的であり、他のものと、共に活動しますから、他の
   ために存在しております。
   またアートマンでないものは本性上、苦・楽・混迷を起こす観念によって理
   解されますから他のために存在しております。

   アートマンではないものは、まさにそういう本性のものとしてのみ存在して
   いるのであって、他の別の本性のものとしてではありません。
   従ってアートマンではないものは、絶対真理の立場から見れば実在しており 
   ません。

   世間に於いて縄に付託された蛇や、蜃気楼の中の水がその理解を離れて存在
   しないのが経験されますが

   それと同様に、覚醒状態と夢眠状態において経験される二元性も又、その立
   場を離れては存在していないというのが合理的です。

   先生、このように絶対真理の立場から見れば、理解、即ちアートマンの光は
   中断することなく存在しますから、不変・恒常であります。
   またその本性は不二であります。
   あらゆる種類の観念が生じた時でさえも、離れ去ることがありませんから。
   しかし種々の観念は理解から離れ去っていきます。
   
   ちょうど夢眠状態に於いて、青・黄と言う種々の形相を有する諸観念は、そ
   の理解から」離れ去るので、絶対真理から見れば実在しない、
   といわれるように覚醒状態に於いても青・黄等という種々の観念もまたその
   理解から離れ去るので、本性上実在しないはずです。

   そして、この理解を理解する別の主体は存在しません。

   それ故に、理解は自己の本性上、自ら取ったり捨てたりすることはできませ
   ん、他の何ものも存在しないからです。


110:師は言った
  「まさしくその通りである。覚醒状態と夢眠状態を特徴とする輪廻の原因、そ
   れが無明である。

   その無明を取り除くのが明智である。
   このようにして君は無畏に達したのです。
   君は今後覚醒状態と夢眠状態に於いて苦しみを知覚することはない。
   君は輪廻の苦しみから解放されたのです!」


111:オーム




第三章 パリサンキャーナ念想

112:この要点を反復するパリサンキャーナ念想は、解脱を求め、既に得られた
   善悪の業を滅することに専念し
   新たなる善悪の業が蓄積しないことを願っている人々のために説かれるので
   ある。

   貪欲と嫌悪という欠点の原因は無明であり、言語活動、心的活動、身体活動
   の原因は貪欲と嫌悪という欠点である。

   これらの活動から、望ましい果報をもたらす業、望ましくない果報をもたら
   す業、あるいは両者の入り交じった業が蓄積される。

   それゆえに、それらの業から解脱を達成するために、このパリサンキャーナ
   念想が説かれる。


113:さて、音声、可触物、色、形、味、香は感覚器官の対象であり、耳などの
   諸感覚器官によって知覚されるべきものである。
   それゆえに音声などは、それ自体をも、他のものも、認識する力も持たない。

   音声などは土塊などのように、未開展の名称、形態から開展したものに過ぎ
   ないから。
   そして音声などは耳などの感覚器官によって知覚される。

   そして音声などを知覚するものは、知覚の主体であるから、音声などとは種
   を異にしている。

   音声などは相互に結合しているから、生起、成長、状態の変化、衰退、消滅、
   結合、分離、出現、消失、変化の原因、変化の結果
   女性、男性などのたくさんの属性を有している。

   また等しく、苦・楽などの多くの他の属性を持っているのである。
   その音声などの知覚主体は、まさにそれらの知覚主体であるから、音声などの
   感覚器官のあらゆる属性とは本性を異にしている。


114:そこで現に知覚しつつある音声などの感覚器官の対象によって苦しめられて
   いる智者は、以下の様にパリサンキャーナ念想を行うべきである



115:私(アートマン)は、見を本性として、何ものとも結合することなく、変化
   することなく、不動であり、不滅であり、恐れを持たず、極めて繊細である。

   従って音声は、単なる音一般としても、あるいは特殊な属性を持った音―音階
   の第一音などの好ましい音、あるいは賞賛などの望ましい言葉、あるいは嘘、
   嫌悪、侮辱、悪口などの望ましくない言葉―としても、私をその対象となした
   りしても、私に触れることは出来ない。

   なぜなら私は音声と結合しないから。


   まさに、この理由のために、私は音声のために損失を受けたり、利益を得たり
   することはない。

   それ故に賞賛、非難などの快・不快を特徴とする音声は、一体何を為す事が出
   来ようか。
   確かに識別能力をもたず、音声を自分のアートマンと結合していると思ってい
   る人々にとって、好ましい音声は利益をもたらし、好ましくない音声は損失を
   もたらす。
   何となれば彼は識別能力を持っていないからである。
   しかし音声は、識別能力を備えている私アートマンには、毛髪の先ほどの利益
   や損失をももたらす事はできない。


   全く同様に、可蝕物も、可蝕物いっぱんとしても、あるいは特殊な可蝕物−冷
   ・熱・軟・硬・など、および熱病、腹痛などの好ましくない可蝕物においても、
   私には利益や損失を特徴とする如何なる変化をも、もたらすことはない。

   私は可蝕物を持たないから、
   ちょうど拳で打っても、虚空には何の変化も起こらないように。

   同じように色・形も、色形一般としても、あるいは特殊な色、形―女性の身
   体的特徴などを特徴とする好ましい色や形としても、
   私には、なんらの損失も利益ももたらさない。

   同様に味も、味一般として、あるいは特殊な香―花や、塗香などを特徴とす
   る、好ましい香と、好ましくない香―としても
   本性上、香を持たない私には何の損失も利益ももたらさない。なぜなら


   「常に、音声、香、色、形をもたず、不滅であり、また味、香を有しない―
   もの、それを認識して人は死の口から脱する」
   という天啓聖句があるからである。


116:さらに音声などの外界の対象は、全て身体の形を取り、またそれらを知覚
   する耳などの感覚器官の形をとり、二つの内官と苦・楽のようなその対象の
   形を取る。
   なぜならそれは、あらゆる活動の場合に、相互に結合し、複合しているから
   である。
   このようなわけであるから、知識ある私・アートマンにとって何人も、敵で
   も、味方でもなく、中立でもない。
   従って、もし誰かが誤った知識に基づくアートマンに関する間違った誤解の
   ために、私に、行為の結果の特徴である、好ましいものと好ましくないもの
   を結びつけようとするならば、私にはそれを結びつけようとしても無駄であ
   る。
   なぜなら、次のような古伝書の言葉に因れば、私・アートマンはその対象で
   はないからである。

   「これは未開展者である。これは不可思議である、これは不変である」とい
   われる

   同様に、一切の五大元素によって変化を受けることはない。

   なぜならば次の古伝書の言葉に因れば
   私は五大元素の対象ではないからである。

   「私は切られず、私は焼かれず、潤されず、乾燥されない」
   また私を信愛するものも、その反対のものも、身体とその感覚器官の集合体
   にのみ注意を向けて、私に好ましいもの好ましくないものなどを接合させよ
   うと願い、その結果善業と悪業を得るのは、それらの人々のみであって、私
   ではない。
   不老・不死・不畏の私ではない。
   なぜならつぎのような天啓聖典と古伝書の言葉があるからである。

   「既に為したことも、未だ為していないことも、共に私を焼くことはない」
   「これはブラフマンを知っているものの永遠の偉大さである。かれは行為に
    よって増大することもなく、減少することもない」
   「これは内も外も含み、不生である」
   「一切有類の内我も、世間の苦に汚される事はない。その外に存在している
    からである」

    そしてアートマンではないもの、アートマン以外のものは実在していない
    から
    ということが最高の理由である。

    二元は実在していないから、アートマンの不二性に関する、ウパニシャッ
    ドの全ての文章が、詳細に考察されるべきである。
    考察されるべきである。