誰の私?


現在の意識の私とは自分が生みだしたのか?

この私という素晴らしいメカニズムである現在意識の私・主体を誰が生みだしたのであろうか?

それとも最初からあったのだろうか?

この私という自己は、現在の意識の自分が生みだしたのであろうか?

いないな、何でこの現在の自分が

この現在の自分という複雑きわまりないメカニズムを備えている「現在意識の私」を生み出せるか

どうして、この現在意識の自分に「世界と内部を認識したり、判断する私」をどのようにして創造できるのであろうか!

意識と思考と感情や記憶・・・いわゆる「こころ」というものを、

この私、この現在意識の自分が生み出したのだ、とでもいうのであろうか・・・



自分の事を、何気なく誰も疑うことなくて、自分だ、自分の肉体だ、自分の心だ、などと思っているが、

その思い、その感動、その苦しみ、その自己意識は、その自己意識である自分が生み出したのだとは思われない

こころや思考や感情を生み出すことは現代科学を見ても解るように至難の業であるからである



例えば「見ること」ということを一つとっても大変に複雑な要素が絡んで成立しているのである

眼球の動き・・瞼の開閉・・視神経の働き・・・網膜の正常な働き

そして焦点がピッタリと合って、映像を結ぶことが出来て(此処まではカメラと同じである)

今度はそれを何の映像であるのかの知覚作業が脳内の複雑なる過程を経て記憶と連動して正常に働き

次の認識という段階へと作業がすすみ、今度はその認識を評価したり判断したりする作業を経て

はじめて「見ている」と言うことが発生している


更に

この映像を知覚して、それを認識し判断し、それによってすぐさま行動に移すことは膨大な神経と記憶の連係プレーであり

これを通常は意識しないで行っている


この知覚を認識し、判断評価するという事は「私」と思われている自己がしていると思われているけれども

この素晴らしいメカニズムをこの現在の自己が果たして造りだしているとは決して思われない

この知覚を認識し、判断し、評価している「私」と思われている自己こそが創造された被創造物なのではないだろうか

私というこの「知覚を統括して認識をして、判断し、評価し、行為している」私・自己・・・

この現在の私という自己意識であるものが、

その高度なメカニズムの上で発生している「知覚し判断している私」を造ったのだとは誰も思わないだろう

この肉体を自分だと思い込んでいる私とは、私という観念であり、その私という観念は造られている主体なのであり

「主体だと思い込んでいる観念」である。

その私・自己と言う意識を持つ私(観念)は超絶なる叡智によって造られたのである。

生命と叡智と有し、血液と呼吸の循環を為し、神経と諸体を創った「無限・全体であり表現不能なるもの」によって、

大自然や宇宙の星々と同じように造られ維持されているのである。



この苦しみと悲しみを見てみよう

カメラや映像機器やPCやロボットには苦しみや悲しみという自己意識が生み出す思考や感情は持ち合わせていない

この苦しみや悲しみを造り出すことは現代の科学を持ってしても至難である、おそらく出来ないだろう


この悲しみや苦しみは私達が生み出せるものではない、私達を通じて生み出されているもので有る

苦しみ事が出来、そして悲しむことが出来る様な感情や思考は私達には生み出せない

そして「自分は主体である」と思わせるほどの「高度の私という観念」を誰が生みだしたのであろうか


それは勿論、現在の私ではない

私という観念は結果であり、原因とは、結果である私達にはない

如何に広大で精緻な思考であっても、その思考は現在の私では生み出せない

思考も、その思考している私も

両者共に創造されているプロセスの結果である(ロボットの製作過程を見れば分かる事である)

「私という観念」を含む複雑なプロセスが生み出され起動しているので

個人的な思考や感情が「私という観念」を通じて、二次的に生み出すことができているのである

それであるにも拘わらず現在の私は、その悲しみや、苦しみを知覚し、認識し、判断し、自分の悲しみだというのである



ではこの「認識している観念の私」とは私が生みだしたのであろうか? 勿論否である

この現在の私は生み出され、創造されて、起動し、維持されているものである。

超絶なる叡智と生命の根源による被創造物なのである。それによって生まれ、維持されているのである。

細胞と宇宙と素粒子の秩序を見ればその叡智には、ただただ、感動し、感服するのみである




非常に狭い範囲の領域と次元だけを知覚し、そして記憶から認識し

そして判断している「継続している観念の私」は「その全宇宙の同一の叡智」によって

生み出されて、そして自己意識を持ち、条件付けに従って、思考し、感情を抱き、悲しみ、笑い、憎み、そして喜ぶ

そのような私と言う思考と感情と記憶であり自己意識を持った「私という観念」は創造されたのであり

この私とは被創造物なのである。従って創造主の一部である。



この現在の私とはこの現在の私が創造したのではない、

全ての「人類の私」は同じ根源によって、同一の叡智によって同一に生み出されている

おなじ仕組みであり、同じように分け隔てなく維持されている

そしてそれなのに、

その私である「私という観念」ゆえに、自分が自分なのだ、私は私であり、自分の人生である、私が感じている

私が思考している、私が苦しんでいる、私が悲しんでいる・・・自分は人とは違うんだ等々・・・

自分の肉体である、自分の頭脳である、自分の知覚である、自分の幽体であり、霊体である、自分の自分であり

自分の思考であり、自分の感情であり、自分の喜びであり、自分の判断であり、評価であり、認識であり、知覚だと・・・

そのように思い込んでいるのである・・・(全く同じように創造されているのに・・・)


そのように思い込んでいる私

そのように自分が思考していると思い込んでいる私

そのように自分が輪廻していると思い込んでいる私

そのように自分が私・主体だと思い込んでいる私


その私こそ創造された、全くの被創造の「私という観念」であるに過ぎない。


上にあるが如くに下にもあるとすれば、このまったくの被創造物である「私という観念」である現在の私とは

「本当の私である根源」によって創造されたもので有り、その根源は真我である、と言えよう




この肉体の私も(動物魂の私)も、観念の私である幽体や霊体の私も、肉体も、このように息をして、血流が循環している

この事実からして生命と繋がっており、その生命とは、私のものでもあなたのものでもないが故に

呼吸と血流の循環を通じて生命が此処に働いており、

その生命をあらしめているものが基底に在るが故にこの観念の私群が成立し、維持させられているので

あることが解る



生命をあらしめているものが私達を生かしておられるのである

生命をあらしめているものが私達を創造されたのであり、私達を維持されている

それこそが真の私達の内奥の「真の私」なのであろう





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