第四の意識
第四の意識とは何のことであろうか?
第四の意識とは、真の私の意識のことであり、一〜三番目の意識とは真の私ではない意識のことである。
それは生じたものであり、諸体であり、死すべきものであるものの意識であるとも云われている。
それにひきかえ第四の意識とは不生、不滅、普遍の意識であり、すべての私の内にある真の私の意識、真実の目の意識といわれている。
一から三までの意識とは、「私だとおもっているが、それは私ではない」意識、即ち諸体の意識であり、「私という観念」による意識や、
それらによる知覚や記憶、そしてその思考や感情のことである。
第一番目の意識とは、現在の日中の通常の私たちにとって馴染みのあるこの「自意識である意識」、現在のパーソナリティーである現在意識のことである。
それは、また脳内で引き起こされている複数の私からの複層的、重層的、断片的なる思考、感情、知覚、行為、分離自己感覚、欲望、衝動、目的、動機、非難、
判断、評価などのことでもある。
第二番目の意識とは現在の私たちの夢見の意識のことである、夢の状態の意識である
第三番目の意識とは熟睡しているときの意識であり、高級諸界にて生命やプラーナを得て回復しているにもかかわらず無意識として知覚されている状態の意識である。
そして第四番目の第四の意識とは真の私の意識のことであり、一〜三番目の意識状態に拘わらず変わることなく実在している意識であるといわれている。
そして何よりもこの真の私の意識が実在して息と血流を循環させる生命という根源の意識が支えているからこそ、これ以下の一〜三の意識も存在していることが
できているわけである。
それにも拘わらず、第一〜三番目の意識に於いては、第四の意識があるから自分が実存していることが出来ているということを全く気がついていない。
この私達である自我意識がこうして生きていることができるのも、個的な身体を維持させている、普遍なる生命が、ここで生きておられ、息をして下さっている
からなのである。
さて複在している意識の階層、そのことを少し詳しく見てみよう
第一番目の現在意識とは、
現在のパーソナリティー(自我)の現在意識のことであり、真の私からの魂が松果体を経路してから脳の部位に神経を介して投射された意識
すなわち自我であり現在のパーソナリティーのことである。
脳で受信され、脳内で繰り広げられている、種々の思考や感情や衝動や欲望、行為、そしてまた、それに対して自身である記憶から発生している
思考や感情、自我意識そしてその自我の目的や動機や隠されている欲望に自らが振り回されてしまっているその現在意識。
その現在意識の現在の私は決して内側を見ないし、真の私を求めていないのである。自己の安定と安全そして欲望の成就を求めているからである。
現在のパーソナリティーは「脳という受信器であり記憶装置であり、かつ受信器であり記憶装置という高度のPCの様なもの」から受け取った思考感情を
自分自身として誤って知覚し、そして、それに対して、さらに、反応してしまっている。
現在のパーソナリティーは肉体や脳に関わっており、そこで起こっている事である思考や感情や出来事や行為に対して巻き込まれ、それに対してさらに、
反応し、「自分自身である記憶」から、そしてこの覆い被さっている「私という観念」によって、”私が””私の”というように条件付けられているように思考し、
欲し、願い、行動を起こし、そしてそれらを脳を通じて送信している。
そしてその脳から送信しているものがさらにエレメンタルとなって、再び発信元である現在のパーソナリティーに仲間を連れて舞い戻ってきている。
その現在のパーソナリティーによる思考や感情や行動とは、受信装置である脳の基本的な条件付けの制約を受けているものであり、脳が受け取っている
マインドからの思考を受信しており、現在のパーソナリティーは、その「私という観念」・無明に全く覆われしまっている状況である。
この現在のパーソナリティーという現在意識が知覚している思考感情とは殆どが脳の反応、また脳を経由したマインドの思考であり、
それはまた諸体のチャクラを通じての、諸体の状態での思考や感情や感覚や知覚でもある。
極言すれば現在のパーソナリティーは諸体のチャクラの状態そのものである。ともいえる
現在のパーソナリティーは、やってきたマインドを自分の心だと思い違いし、記憶したのである。
そして動物魂による行動や肉体自身による行動を自分の行為だと信じ込み、
カルマによる衝動的行動、マインドによって起こっている行動を自分自身の行為と勘違いして、
それらの行動に対してさらに自我として、現在のパーソナリティーとして行為し、
更なるカルマを生みだし輪廻の鎖に縛られてしまっているのである。
それは自分ではないものを自分だと勘違いしているからなのだ。
自分とは魂であり、魂の内奥の真の私であることを信じられないことから、それは発生している。
事実に於いてはこの現在のパーソナリティーの認識や知覚とは、殆どが脳が受け取ったマインドによる、マインドの知覚や認識であり、それは即ち「私という
観念」による思考、感情、感覚、行為であり、その思考、感情、感覚、行為を外部から対象として見ている観察者とは真の私ではなく、
その観察者こそがマインドのもう一つの姿なのである
その観察者によって観察される思考や感情などの観察対象とは、観察者自身がマインドであるようにマインドが生み出したのだ。
観察者は観察されるものなのだ。
現在のパーソナリティーは、脳で起こっているマインドを見て、そのマインドである「私という観念」と同一視し、自分は心だと思ってしまったのである。
というのも、その「私という観念」であるそのマインドは、そのマインド自体の構造からして「私が」「私の」という、他から分離している主体感覚を持って
いる知覚や思考であり、主体のようであり、そのマインドである主体を、その私を自分だと勘違いしてしまうのもやむを得ないことかもしれない。
が、けれども、それはマインドであって、全くもって真の私ではない。マインドは私ではない。
第二番目の意識とは、夢の中での夢意識の事である。これは実は第一番目の意識時にも同様に続いているのだが、第一番目の意識時には
現在意識には知覚されていないだけである。
これらの種々の意識の構造とは、同時に存在している複層的、もしくは重層的なものであって、実際には第一番から四番の真の私の意識までもが、
同時に存続しているのであるけれども、現在のパーソナリティーの状態によって知覚されないだけなのだ。
高次の意識の知覚や認識とは、各諸体のチャクラの透明化の状態・レベル、及び肉体の受信器のである脳の状態に左右されるので、諸体の状態
でもある現在のパーソナリティーには伝わっていないだけで、実際には、この現在のパーソナリティーとは魂を通じて内奥の真の私の意識とつなが
っているのである。
夢の意識とは現在のパーソナリティーの記憶の反応であり、記憶に頼っている意識状態が現在のパーソナリティーである。
深い夢の中では、肉体の脳から一部を残して現在のパーソナリティーは魂と共に肉体から離れて、自身の潜在意識領域界で体験をして
その体験を肉体脳を通じて脳に残っている現在のパーソナリティーの一部の現在意識に伝え翻訳している
そしてその潜在意識領域界での体験の内容が夢であり、このプロセスを称して、通常これを夢といっている。
この夢の状態とは、死後のバルド界での体験と酷似しており、現在のパーソナリティーが自身の
記憶である潜在意識領域界(バルド界)での体験を、肉体にとどまっている場合はこれを夢と称し、肉体を離れている状態は死後のバルド界という
のである
が、しかしこれらは、現在のパーソナリティーが記憶に基づいて見ている夢であることには何ら変わりがない意識状態である。
第三番目の熟睡意識とは、諸体の意識状態でもある。といえる。
熟睡とは、諸体のチャクラが純粋化しておらず活性状態でもないので魂の内奥の純粋意識が、(同じように純粋化していない現在のパーソ
ナリティーと同様に)条件付けが解けていない肉体の頭脳にも、伝わらないのである。
肉体脳の条件付けの解除は現在のパーソナリティーによってではなくて、魂の内側の真我に由らなければ出来ないのである。
真我の純粋意識は、現在のパーソナリティーにも伝わっているのであるが、各諸体のアンテナであるチャクラが純粋化し活性化していないので、
現在のパーソナリティーにはそれを意識化できないのである
それが熟睡ということにも適応される
通常の熟睡中には、
肉体に下生した魂は、一部分を肉体に残して、殆どは一時的にシルバーコードに繋がれたまま肉体を離れ、高級諸界で高次のプラーナなどを吸収
して蘇り、それを諸体及び現在のパーソナリティー及び神経を通じて肉体と肉体脳にそれらの生命素を与え続けている。
それ故に熟睡によって新たに活力がよみがえり、一時的に苦しみから癒されるのである。
この熟睡というプロセスの間、現在のパーソナリティーの一部は肉体にとどまっており、肉体に戻った魂の高級諸界での体験とその生命エネルギー
・プラーナを充分には伝えることができないのである
というのも、受け取る側の霊的諸体のチャクラの状態が不十分であり、純粋化していないので、肉体脳と肉体脳にとどまっていた現在のパーソナリティー
の現在意識に、その高級諸界の意識とプラーナを、受け取ることができないので、現在意識はその高級諸界でのことは無意識となってしまい、熟睡という
状態に陥ってしまっているのだ。
すなわち
現在のパーソナリティーのエーテル複体や三体である精妙体のチャクラの状態が未発達であり透明化されていない故に、その高級諸界の意識とプラーナを
意識化することができないのである。ゆえに現在のパーソナリティーや諸体にとって、熟睡と捉えられてしまい、無意識と知覚されてしまうのである。
この第三番目の熟睡意識とは、それは諸体のチャクラの状態でもある訳である。
この諸体が透明化しておらず、諸体のチャクラが本来の働きを為していないので、真の私の意識が現在のパーソナリティー及び現在のパーソナリティーの
意識の座である脳の機能も条件付けされたままで、閉ざされたままであるので意識化されないのである。
そういうわけで、現在のパーソナリティーは魂の高級諸界での体験と生命のプラーナを理解することもできないでいるのである。
それが熟睡である。熟睡とは現在のパーソナリティーと各諸体が眠っているような意識状態であるからである。
では、なぜ眠ってしまっているのかといえば、眠る意識とは、諸体の意識、即ち生じたものの意識でもあり、その生じたものとはまた死滅するからである
諸体も現在のパーソナリティーも魂の再誕時にはいったん情報や性向や成果や高次記憶はコーザル体に集められるが、それらの諸体は分解して
肉体やエーテル複体がそうであったように、それらはそれを構成していた次元の根源原子に戻るからである。
さて熟睡に戻れば
諸体と現在のパーソナリティーと肉体の脳が魂の内奥の意識とつながることができるほどに純粋化していれば、この熟睡時にも眠ることのない
気づきの意識が一〜三番目の意識を通じて継続し機能していることができる
しかし、このことが起こるのは現在のパーソナリティーという自我による行為ではなくて、真の私側からの気づきによって起こる事であり、そのための
こちら側からのなすこととは、真の私が如何にこの現在のパーソナリティーを愛して下さっているのかに心底から気がつくことである。
さて、第四の意識
それはいかなる時も失われていない気づきの根底であり、純粋なる意識であり、普遍の意識である第四の意識、そして、これは真の私の意識であり、
対象を持っていない意識である。
対象を持っていないとはすべてをあらしめている意識であり、すべての中に私を見ている真我の意識である。
この意識こそが私の意識であり、これ以外の一〜三番目の意識とは、死すべきものである肉体脳や、諸体の意識であり、魂の記憶部分である意識である。
生まれたが故にまた消滅する意識とは現在のパーソナリティーの意識であり、それらは死ぬことの決してない不生、不滅の純粋意識ではなく、
その現在の私の意識とは決して真の私の意識ではないといえよう。
第四の意識とは到達したり、至ったり、実現すべき意識ではなくて、既に此処に在る。そしてすべてを観照している。
この第四の意識とは、この第一番から三番までの意識の根底にあってそれらの「私ではない意識」を支えている意識であるといえる。
この真の私の意識こそが私であり、この意識は思考ではなく感情でもなく、従って対象を持つ二元の意識ではない。
この純粋意識、それは既にここにあり、完璧であるにも拘わらず、現在のパーソナリティーの現在意識には殆ど知覚されず認識されていない
けれどもそれこそが純粋なる主体であり、真の認識そのものである、それは真の主体であるから認識の対象ではなく、認識されたり知覚されたりすることはない。
というのも現在のパーソナリティーの現在意識における知覚とはまさしく、この真の私の第四の意識ではなくて、第四の意識に覆い被さっているサングラスの意識であり
私を覆っている「私という観念」の意識であり、マインドである分離した知覚と認識で成り立っているからだ。
第四の意識は決して善悪にとらわれず、あるがままをあるがままに見ており、そしてそのあるがままのすべての中に分離していない真実のすべてなる私を見ている。
それは見ている事それ自体であり、見ている主体と、見られている対象に分離しているマインドではない。
その目は純粋主体であり、目そのものであるから対象を持っている似而非主体ではない。その純粋意識とは分離なく見ているその眼自体であるからである。
この目は純粋で絶対主体であるから、対象化したり、知覚したり、知覚されたりすることはない完全なる目である
対象化して知覚して知覚される目とは思考であり、マインドであり、心であり、生まれたものであり、死すべきものであるに過ぎない。
真の私ではないマインドとは、分離しており、分離されているが故に主体と客体に分裂している、それはいかに知識に溢れ精妙でも二元に分離している、
それは決して「見るものは見られるものである」の目ではない。
真実の私の目、真我の目とは、まさしく目そのものであり、決して対象とはならず、対象としてみている似而非主体ではない。
真の私の目、その目とは真の主体であり、真実の目であり、真実の認識そのものであって、認識の対象や認識の主体ではない認識そのものなのである。
真の私はあるがままを非対象で見ている目であるから、決して客体を持ったり、対象を持ったり、私以外のものを認識したりすることはないのである
とそのようにいわれている
その様に教えられている。