私のものは何もない
                        




身体、宇宙、心、家、家族、生きているもの、

宇宙のそれらのすべてがあなたの中にあります。

すべては、あなたの中にあり、私のものは何もありません。


あのお方(神)が、させるのでなければ何も出来ないのです。

あのお方が、瞑想をさせることによって、人は瞑想をすることが出来るのです。


あのお方が、世界と生きとし生けるものになっておられるのを、それを見るのが大明智と

言われるものです。



人は純粋精神によって動いているのです。

その純粋精神によって、非精神的物質に至るまで精神(有実在・知叡智)になっているのです。
 
その純粋精神によって手も足も、身体も動いているのです。
 
人は身体が動いているのだ言いますが、
 
しかし
 
あのお方(神)が動かしておられるのを知らないのです。


ラーマクリシュナの言葉より






通常、人類は自分と世界は分離しており、自分と他人は別々であり、自分とはこれらの対象を知覚している主体・

自己であると固く信じている。だがそれは本当なのであろうか?自己とは知覚している主体なのであろうか?

それとも、このような分離した感覚と知覚が起こっているのだろうか?わたしはこのように分離して対象を知覚したりするのだろうか?

事実は、また真実とは、この五感でもって知覚し、されているところの“主客が分離している自己や世界”こそが

投影されている錯覚であり、真実とは全くその逆に本来は主客は一つであり、全く分離しているものなどなにもないのに

マインドが、そして思考が、五感がそしてそれを受け取る脳の条件付けゆえにそのような分離している実感・錯覚、偽の自己感覚

が発生しているのである、といえるのではないか?

真実においては、すべてのものは分離しておらず、同じマインドの表裏一体なる現象であり、根源が表している仮象である

のではないか?それらの二元・対立・分離とは、根源が心を使って表現している現象なのではないか。

私はどこにもいないのではないか?

二元対立・分離とは心と、思考と、脳がそのように錯覚しているのであって、事実は全く同じ一つなるマインドの裏と表であり、

その錯覚のゆえに、同じ一つのものなのに全く別々の二つという二元、即ち“自と他の分離という現象”がマインドによって知覚され

実感されている。

このマインドが創出している記憶主体を自己自身だと統覚機能が取り違え、錯覚したが故にそれゆえに輪廻が成立しているともいえようか。

事実とは、それらの二元の分離している個別の私とは、脳の条件付けによって間違って実感しているマインドの錯覚であり

本来は分離している私など存在していないのにも関わらず、個別の私が存在しているという心の錯覚故に繰り広げられているのが

この人類の現況であり、マインドの世界、宇宙の現象界である。

意識があるからこそ、それゆえにそのような思考があることができており、虚空があるから質料があり、

愛があるから心もあることができている。真の私があるからこそ私ではない自我(エゴ)も実存することが出来ているといえる

のではなかろうか。




(以下は、ある不二一元哲学者の教えから引用抜萃しました)

■恐怖を知覚し、恐怖を恐れ、恐怖から逃げようとしているのが、その恐怖である。恐怖は恐怖であるので自らを知覚し、自らから
  逃避しようとして、自らを恐れるのだ。それは恐怖であるからだ。その恐怖こそ「私という観念」自我の姿である。
  分離を知覚しているのが恐怖であり、自我であり、「私という観念」であるといえる。恐怖である自我とは自らを知らない無知である。

■自己や他己に自我を見ているのは自我自身に他ならない。自我が自我を自己や他己に知覚し、非難し、自己改善しようとしている。
 それは自我自身に他ならないからだ。自我ゆえに自我を自我として知覚し、自我だからこそ自我を非難し、真の私に至ろうとしている。
 真の私は自身である真の私になろうとはしない、至ろうとはしない。すでに真の私であるからである。
 分離して対象を内部や外部に知覚し、対象を自己と分離して見ているのは自我であり、そして、その自我は、自身が根源の投影、
 根源の演技であることを知らない。決して根源から分離していないことを知らない。

■対象を知覚しているのが「私という観念」であり、その「私という観念」が自らはわたしから生じているわたしであることを忘却している


■私という概念がないとき、貴方と私は一つである。私とは貴方であり、貴方とは私である。苦しむ私がいないのである。

■愛であるとき、苦しむ貴方は、それを見ている私である。苦しむ貴方を見ている私とは苦しむ貴方である。そこに愛がある。

■真の私は分離のない一つなる意識であり、自己は他者であり、他者は自己である。それはわたしであり、私はそれである。

■私と貴方が分離できないとき、裁く者は、裁かれる者であり、裁かれる者は裁く者である。拝むものは拝まれるものである。

■私と貴方が一つであるとき、殺す者は殺される者であり、殺される者は殺す者である。あなたの自我も私の自我も根源の使う自我である

■私と貴方の区別がないとき、憎む者は憎まれる者であり、憎まれる者は憎む者である。敵は味方であり、味方は敵である。

■心が純粋になり、本来の元々ある基底の意識が顕れたとき、恐怖とは平安となり、恐怖は消えるのである。そこには至高の喜びがある

■愛は愛憎を超えている。愛憎の愛とは愛ではなく憎しみである、憎しみに中に愛があり、愛の中に憎しみがある、二つは一つである。

■思考が停止するとき、思考であるものはそこにはない、このとき絶望は希望であり、希望も絶望も共に消える。これらの思考はそこにはない。

■一は多であり、多は一である。一であるのに多と見ているのは心の錯覚である。

■個は全であり、全は個である。これを見ている正見の中には区別はなく一つしかない。

■光りと闇は相補う、光明と暗黒は一つである。陰は陽であり、陽は陰である。それはひとつである。この光と闇を生み出しているのが絶対である。

■対象なく見ている正しい見の中には、既に悟りだけがあり、これから悟ることも、これから迷うこともない。生まれないものは死なない。

■出発点は到達点であり、至ることは戻ることである。この至ること、離れることという概念こそ思考の本性であるところの時間である。

 時間はわたしではない。

■虚偽の中に真理を見ているとき、騙す者は騙される者であり、騙される者は騙す者であり、両者には分離はない。

■秩序があるとき、善もなく悪もない、天使は悪魔と異ならず、それらは同じ表裏であり、お役目の違いであり分離していない。

■善悪は心の中にだけあり、心がないとき白も黒もない、善悪もない、光りと暗黒もない。秩序と調和しかないから。

■一つであるとき、自己は他己であり、他己は自己である。そこには喜びだけがある。

■肉体はわたしではないと識別が起きたとき、自国は他国であり、他国は自国である。母国も敵国も差別はない、地球人と宇宙人の区別はない。

■いのちが私であるとき、誕生は死亡であり、死亡は誕生である。生は死であり、死は生である。持続ではない新たなる今が現前しているから。

■失敗は成功であり、成功は失敗である。繁栄は衰退・凋落であり、衰退・凋落は繁栄である。貧しさは豊かであり、豊かさは貧しさである。
  
  それらは肉体が私だという観念が支配している間だけ、関心を持つが、その観念から離れるときそれらに左右されず、影響を受けない。
 
  それらは根源の映像であり、統覚機能を通じて脳内に、投影されている出来事である。この脳とは時空間のネットワークである。

■私のものや貴方のものという所有は分離した思考にだけある。分離した私や貴方が存在していないとき所有することも所有されることもない。

 自他の分離がないとき所有という観念は生まれず、金銭の観念も生まれず、利用することもされる事もない。その分離した私という迷いの中

 核概念である「肉体を私だと思っている私」が本来の意識の中には存在していないからである。金銭の観念、執着、関心、貧富は自他の分離が

 ないとき発生しない。

■肉体が私ではないと正見されたとき、死ぬことは生まれることであり、生まれることが死ぬことである。そこには生死はない。

■根源がDNAを用いて原因結果を生み出し、現象を顕現しているのが見られるとき、天才は凡才であり、凡才は天才である。同じだ。

■心が透き通ったとき、美は醜であり、醜は美である、価値ある者は価値のない者と同じであり、価値のない者は価値のある者である。至高の美が

 如何なるものにもあるからである、至高の価値を超えたものが全てにあるからである。 

■貧富とは肉体が私であるとの錯覚が生み出している概念である。概念がないとき、すべての一切はわたしである。このとき豊かなる者は

 貧しき者であり、貧しき者は豊かなる者である。貧富はない。貧富の概念が生まれないからである。

■自我(エゴ)だけが自我と真我を区別している。真の私であるとき真我しかいない。そのとき自我は真我へ消え去り、真我が輝く。

■極小は極大であり、極小の一点に全宇宙という極大全体がある。意識への階梯ではこの一点の極小から無限へと通じている

■ミクロはマクロであり、ミクロコスモスはマクロコスモスである。正しく見ることが起きたとき素粒子が大宇宙であることが判明する

■意識には内部と外部の区別はなく、自己と他己の区別もない。心が自己は肉体であると錯覚しているが故に内部と外部の区別が発生している。

 だから実際には内部は外部であり、外部は内部である。内界は外界であり、外界は内界である。

■全ての中に、全てがあり、部分は全体であり、全体は部分である。それが意識の目である

■此処はあそこであり、あそこは此処である。分離している空間は存在していない。そこと此処という疑似空間概念は自分が肉体であると

 錯覚している心が生み出した幻影である 

■マインドが停止しているとき過去は未来であり、未來は過去である。時間は虚偽である。時間はマインドが生み出した虚偽である。

■進化は退化であり、進歩は退歩である。進むことは退くことであり、退くことは進むことである。心は進化論を生み出し、その進化論は

 退化論であり、また再び進化と退化が繰り返されていく。進化論は思考が生み出した錯覚である。

■発生することは消滅することであり、消滅することは発生することである。消滅も発生もしないのが意識であり、心やマインドは消滅し

 そしてまた発生している、何故ならそれは時間だからだ。

■ホワイトはブラックであり、ブラックはホワイトであり、ブラックホールとホワイトホールは一つである

■見るものは見られるものであり、観察している者は観察されている者である。それがわたしであり、わたしはそれである。

■思考なく見ている事の中には主体と客体の区別はない。主体は客体である。主体と客体はひとつである。

■全ては一つなるものである。個は全体であり、全体は個である。一つは全てであり、全ては一つである

■真我と自我(エゴ)はひとつであるのに、それを分離していて自我(エゴ)を実感しているのが錯覚であるところのマインドである

■実際は分離しているものなど何もないのに、それを分離していると実感しているのが無明である



この無明が私という分離した偽の「私という実感」を生み出し

行為は起きているのに、自分が行為していると錯覚している。

(以上、ある不二一元哲学者の教えから引用抜萃しました)
    
  
                  







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