バルド界
多くの聖賢方は言われる
行為は為されている。
私は行為していないと。
それにもかかわらず、その私から派生した「魂→現在の私」は、身体が行為しているのに、自分が行為していると思いこみ、その起こっている行為に、巻き込まれて
しまって、「魂→現在の私」は、「起こっている行為」にさらなる行為と思考を重ね合わせてしまっている。エレメンタルを作り出し続けている。
けれども、その重ね合わせて“自由であり、自由意志で行為し思考していると思っている”「現在のわたし」は
この「現在の私・魂」の奥にあって、行為しておらず、ただあるがままを見ている(観照している)私に気がつかず、私を忘却している。と
それゆえに
根源・源泉が諸身体を使って行為し、思考し、知覚し、美しい大自然をかくの如くあらしめているのに
その根源が行為し、思考し、知覚している諸身体を、自分が行為している、思考している、知覚していると錯覚しているのは「魂→現在の私」であり
「無知」に影響され、その「無知」と同一視したのは、この「魂→現在の私」である。
けれども、観照し、直覚し、あるがままをあるがままに曇りなく見ている私は、行為しておらず、思考しておらず、知覚していない。と
その「起こっている行為」も、それに反応して重ねて行為し、思考しているこの現在の私も、私ではない。
現在の私とは(現在のパーソナリティーとは)魂が魂の目につけているサングラスの様なものである。
魂の奥の私は行為していない、それが故に自由であると。自由の中には過去と現在と未来の区別はなく今だけがある、それに引きかえて行為の中には
自由はない。と
この起き、起こっている行為と知覚と思考を、またこの肉体及び諸身体を自分自身だと見間違って、
この起こっている行為と思考と知覚と身体に対して、現在のパーソナリティーは、「自らである記憶」から思考・マインドで反応し、
さらなる混乱を招いてしまっている訳である。
魂と現在のパーソナリティーは自らの内奥の私と、私ではない諸身体の知覚や記憶を取り違えたのである。
もしくは魂と現在のパーソナリティーは自らの内奥の私の直覚・気づきと、
マインドである三時の意識(時間空間の意識及び熟睡・夢見・覚醒の意識)
とを取り違え、マインドを自分だと錯覚したのである。
現在の私、現在のパーソナリティーとは「統覚機能である魂」の記憶部分でもあるからである。
「魂→現在の私」は、私である内奥の私を留意せず、私を忘れてしまっている。
私ではないマインドを私だと取り違えたのである。
わたしとは?
これに答えて聖賢は言う
私は自由であり、思考なく、静謐なる純粋意識で観照しているのであり、普遍である。
私は行為しておらず、知覚しておらず、思考していない。
私は肉体ではなく、諸身体でもなく、諸身体の思考でもなく、気づきであり、純粋意識である。
けれども「魂→現在の私」は、内なる私を忘れ去り、この起こっている身体と
身体に起こっている行為と思考と知覚と自分を同一視し、それに巻き込まれた。・・・と
それ故に「息・呼吸」とともに、肉体を離れた統覚機能である「魂と現在の私」は、自分が肉体であり、行為し、知覚している、思考しているとの
肉体にいたときの記憶ゆえに
死後のバルド界に於いても
肉体そっくりのエレメンタルの身体を、そしてまたこの物質界そっくりの社会と、家族と、環境を、物質界での記憶に基づいて投影し、作り上げ、
そこで、ある期間滞留し、生活してしまっている。自分が生み出している幻想世界、それがバドル界である。
そこに於いて、想念で作り上げた30歳前後に若返っているエレメンタルの身体を持って、この物質界と同じような世界で生きていると錯覚しているのは
記憶である私、現在のパーソナリティーであって、内側の私ではない。
これが肉体を離れた後に、訪れる自分の想念で構築しているバルド界という幻想世界である。
私は行為しておらず、思考しておらず、知覚しておらず、諸身体ではなく、マインドに、時間や空間に巻き込まれていないのに
「現在のパーソナリティーと魂」は自分の事を肉体だと思い、その知覚と思考を自分の知覚や思考と勘違いしたが故に
肉体を離れ去った後も、同じように自らが共通の幻想世界を生み出し、その個人的な幻想でありその個人的な幻想の共同構築界を作り上げている
それがバルド界である。このまったくの主観の幻想界を称して三千世界ともいわれている。
けれどもよく考えれば分かる事であるが、
肉体を去る以前のこの物質界に於いても
この現在のパーソナリティーは、同じように私ではない肉体とその知覚と、その思考と、その行為を、自分が行為し、自分が思考し、自分が知覚している
と信じているのである、そして自分は肉体だと錯覚しているのである。
「私」は行為しておらず、知覚しておらず、思考していない「気づき」であり、自由であり、分離していない観照であり、実在しているのに
根源によって起こされている現象界で巻き込まれたのである、私ではないものを私だと思ったのである。
それ故にシャンカラは、私であるのならば、私以外の何ものをもみることはないといわれるのである。
その起こっている事に巻き込まれているのは、魂であり現在のパーソナリティーである。私は巻き込まれていない
だから生まれず死なずといわれている。
けれども
魂はその起こっている行為と、やってきている思考と、自らが選択した諸身体と、その諸身体である感覚や知覚に同一化したが為に幻想・バルド界と
物質界の間を輪廻し、転生してしまっていると言われている。
転生しているのは魂であり、私ではない。
けれども魂は真の私につながっている。
この真の私という私こそ、私であり、それ以外に私はないと云われる。
それ故に聖賢方は
私は肉体や身体ではないので行為していない、私はマインドではないので思考していない、私は肉体や諸身体ではないので知覚はしていない
その肉体も諸身体も、そしてその行為も、知覚も、マインドも、思考や感情や出来事も、それは根源によって起きている、行為されている
思考されることも、知覚されることも、出来事も起こされていると。
私は行為しておらず、私は自由で、私は在る、私は見ている。と
行為の種類やレベルや有無にかかわらず私は行為に関わっていない。と
在ると考えたり、思ったり、在ろうとする事に係わらず、私は在る。と
あるがままを見ようとしてもしなくても、私は見ており、直覚しており、観照していると
それ故に、「魂→現在のパーソナリティー」に対して
行為から離れなさい、思考なく見なさい、在ろうとせずに在りなさい、ただ見なさい
「許さない私でない私」を許しなさい、「愛のない私でない私」を愛しなさい、「目のない私でない私」を愛をもって見なさい
と聖賢方は私たちに教え続けておられるのである。