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如何に生きるべきか?





如何に生きるべきか?
如何にあるべきか?
どのように処すべきか?
どのように考えるべきか?
人生とは何か?
何故、私は生きているのか?


人生を真剣に生きる者にとって
これらは当然の真摯な問いであり
避けて通れない
課題であるように見える


が、けれども
これらの真剣な質問や真面目な自分自身の奥底からの問いとは
自分が行為している、自分が生きている、この人生とは自分の人生である、この肉体は私の肉体だ
私とはこの思考であり、自分は将来再び神との合一に帰還するのだ・・・と思いこんでいる私、
即ち人格・個人・自我(記憶の反応)からわき起こっている問いであり、
この問いとは、そのように「私ではないものを私だ」と錯覚しているこの「心である私」からの
真剣な問いであることに気がつくとき


行為者(行為していると信じている自己)から
思考から
自我から
心から、
それらの問いというものが発せられていることを、(より夾雑物が少なく)見ることがはじまる。


そして、さらにその問いそのもの自体を見ることによって
行為者も、思考も、そして又「思考の記憶の反応である自我」も、すなわち心というものの全てが
各次元における物質・質料であり、それは同じ一つの根源・一つの意識から派生している・・・
根源である唯一の同じ意識が、より精妙である質料の心を用い、さらにその心が物質である思考を生み出し、
この条件付けられた思考の記憶が個人を形成している、即ち自我を形づくっている。
そしてこの自我とは意識によって、「行為していると思い込んでいる私」である・・ことを観察しているとき
観察している心とは、観察されている対象を、「自分とは別の対象」として観察している二元性
即ちそれは鏡であることが徐々に判明されていく

なので、上記のそれらの問いを発している「自分と思い込んでいる思考」から距離を置く作業が始まるので
はないだろうか
そうすることによって
それらの問いを発している「根源の芸術作品である自我」自身を非難なく凝視するところの「見ること」
が始まるのではないか?
そしてそれらを見ている観照者である鏡も、心であるのだ。
内側と外側を対象として見ている限りはそれは思考であり、心であるに過ぎない。
対象を映し出している「鏡である心」さえも根源の芸術作品であって、意識という主体ではない。
意識である主体であるなら、そこには対象はないはずであり、
その意識とは対象や思考を持っている私を含まないからだ。
私であるなら「見るものは見られるものである」の目であるのだ。
心も思考も従って「自己と云う記憶=自我」も意識の芸術作品なのである。


これを理解することが「見ること」、「あるがままをあるがままにみること」のワークの始まりであり
「ただみること」が起こる事が近づいているのではないだろうか?


如何にあるべきか?、どのように生きるべきか?どのように処すべきか?人生の目的とは何か?
どのように歩めばいいのか?、どのように行えばいいのか等の問いかけは
ピントが合っているようで、実際は、その問い自体が思考・自我の錯覚から始まっている問いである
ことが明白となってくる。従ってその問いをすること自体がピントが外れているのである。
解脱を求め、解放を求め、そのための方法を求め、理論を求め、答えを求めることが時間である思考の動き
なのである。時間とは進み行く過程であり、既に在るのになろうとする(至っているのに至ろうとする)錯覚である。


私達自我のこの世界、「自分が生きている」と錯覚しているこの対象世界とは合わせ鏡ではないのか?
鏡こそ魂であり、心であり、この現象界を構成している重要な部分であり、それは意識によって使用されている
鏡を通じて二元性は成り立っており、鏡通じて世界は対象として知覚され、そして鏡によって認識されている。
だが意識とは心でもなく鏡でもなく、鏡である心を、そして主体と客体の分離を継続させている純粋主体なのである。


この現象界というものは「魂である心の合わせ鏡」で成り立っているのではないのか?
鏡に映る、もう一つの鏡の表面には、こちらの鏡を覆っている内容が、同時に相手の鏡に映し出されている。
それぞれの鏡自体は、全くの清浄であるにもかかわらず、鏡の表面を覆っているもの(自分の自我)が相手
の鏡に(相手の自我)であるかのように映っている。写っているのは自分の自我なのである。
お互いに自分の自我を相手に見ているのだ。


自分が知覚している相手とは、実は自分を映しているのである。鏡を覆っている自我が相手の鏡に映し出されている
お互いがお互いを鏡に映し出しているのである。
唯、この場合のそのお互いとは、鏡それ自体ではなくて、鏡に付着している自我である潜在意識である

立ち向かう人とは鏡であり、こちらの鏡に付着している思考(エゴ)が、相手の鏡を通じて映し出されている。
「あいつが悪い・・・」「相手が悪いからこうなった・・」ではない。それは相手ではなくて、こちら側の自我が
相手の鏡に映し出されているのである
この「私という自我」がこちらの鏡に付着していて「こちら側の自我の心の状態」を、立ち向かっている
相手の鏡に映し出して下さっているのである。
ただこちら側の自我の状態とは自我にとっては潜在意識であるから、自我には見えないので合わせ鏡によって、
立ち向かっている相手にこちら側の自我が発見されるのである。映像が鏡に映し出されているのである。


現象分離世界の現実を“誤解をより少なくして”見始め、これらの現実の姿を、より汚れが少なく見始めるとき
前述のこの真面目で、真剣に人生に対処している者の問いすらも、
自分が生きており、自分が行為していると錯覚している自我=私と言う観念からのものだということに気がつく。
即ち、それらは「私と言う観念」及びその観念を私と錯覚している心から発せられていることだということだ。
意識である根源は、その「私と言う観念」及び心を使って芸術作品を演じておられるのである。


だから、この自我(私と言う観念)に対しての「鏡である私=心」からの、よりまともな態度とは、
私と言う観念を、非難したり、評価したりすることなく、「観察者は観察されるもの」を見ることだ、凝視することだ
思考の出てくる大元を凝視すること。その作業が心の中に元来あった意識が顕在化してくることを触発する。主体が
顕現してくる、意識が心の中に顕現してくる。それは
心の根源を凝視することに尽きるのではないだろうか、鏡をではなくて、鏡の主体である「意識」をである。


そのように、「私は誰か?」を探求している私達は意識に焦点を充てるべきではないか
意識は自他に分離しておらず、時空間に分断されておらず、主体と客体に別れていない非分離の根源である
それが私達、心である魂が自身の根源に焦点を向けることに他ならない。
けれども現状では
私と言う観念に対して、鏡である私が巻き込まれて、その「私という観念」を自分だと思い違うのである。
実際は鏡である私も、「私と言う観念の私」も究極の実在ではなくて、完全なる意識だけがあるのではないか?
如何にあるべきかとか、どのようにあるべきか、などということを思考で模索し、行為者として生きているとき、
それが自我の人生であり、この自我が悲惨の原因となるのではないだろうか?
これが輪廻に巻き込まれているに他ならないのではないか

人生訓や処世術やハウツーものの方法論では、一番肝心な要点である「心の根源に至ること」か
看過されてしまっている



私達「心である鏡」を通じて世界が投影され、また同様に同時に思考の記憶である個人や人格自我
が投影されている
そして、私達「心である鏡」にそれが対象として知覚される。それが自分である私だと知覚される。
心である鏡がそれらの私を自分自身だとして錯覚して知覚することで
現象界の輪廻は成立しているのだ・・・といわれている。真の私は鏡の奥にあるのだと・・・
実際には自我はおらず、その自我を見ている私(鏡)も真の私ではない。・・ただ意識だけがあると・・


この心である鏡を通じて投影され、
かつ知覚されている世界と自己とは「私」ではないと言われる
それは意識に拠って投影された出来事・時間であるに過ぎない・・と


起こっている行為と、起こってる出来事と、起こっている私という人格や自我や私と言う観念は「心・マインド」で
構成されている


その心というものを意識から、この起こっている私と行為を、
そしてそれを投影して知覚している統覚機能の鏡を見ることが起こるとき(即ち照見することが起こるとき)

そこに果たして見る者と見られるものはあるのだろうか?その分離はあるのだろうか?
意識の中に主体と客体の区別はあるのだろうか?
意識の中には分離した個別性は存在しているのであろうか?

意識があって、心や思考が照見されているとき
心や思考がもはや邪魔をすることがなく沈黙しているとき、愛だけがあり、至福だけがあり理解だけがあると
そこには心もあることはない・・と言われている