愛、燦々とこの身に注ぎ
ラーマクリシュナの言葉
「自分が行為している、私が自分自身であるという実感は無知が起こしているのです」
美空ひばりの歌ではないけれど
愛が、燦々とこの身に注がれているのにもかかわらず、気がつくことができないのはこの「無知という名の“私と言う観念”である私」ではないだろうか。
全てに等しく、呼吸・生命という愛が燦々と降り注がれている・・・これが真実ではないのだろうか、これは驚くべき事なのである。
全てに等しく、一瞬もとどまらず血液が、浄化され、循環し、生命が維持されている。それは愛が燦々とこの身に注がれているから
・・これが真実であろう。
全てに等しく、意識は夜眠っていても、また朝起きたら、その同じ意識が継続し続いている。これは愛が、燦々と降り注いでいるがゆえである。
全てが等しく、喜んだり、悲しんだり、恨んだり、感動したり、考えたり、感じたり、愉しんだり、苦しんだり、感激したり・・といろいろとできるのも同じだ。
愛が燦々とこの身に降り注いでいるからこそ・・それだから、この意識が、記憶が継続し、正常に機能することができているのではないだろうか。
(その機能が働いているのは自我が機能を継続しているのではない、愛が燦々とこの身に降り注いでいるからである)
愛が燦々とこの身に注がれているからこそ・・トイレに行くこともできるし、ご飯を食べることも、それを嚥下し、消化吸収もできるし、それを
旨いとか不味いとか言いながらも味わうということができる。これらの認識し、記憶し、反応することが出来ているのであって、私が故にではない。
これらは最高度の叡智の機能が完全完璧に執り行われているからであるといえる。
本当の事を言えば、このことにはこの私という自我には全く関与できないし、関与していないのである。
身体の機能が、わたしという自我意識とは関係なく調和の内に完璧に働いているのである。愛が燦々と降り注がれているからである。
それにもかかわらず、私達は自分の肉体で、自分が動かし、自分が知覚し、自分が感じ、自分が記憶し、自分が認識し、自分が生きている
のだ!と言う・・これは全くの逆なのではないか。
完全完璧の叡智が愛として燦々と降り注がれ、それらの愛である叡智があるがゆえに作動しており、肉体も自我も生きているのである。
よく考えれば分かることだ。
それなのにそう思えないのは
私達は「私と言う観念」に全く取り囲まれてしまっているので、この観念を通してでしか、内側も外側も見る事ができなくなっているからなの
ではないだろうか
というよりは
実体もなく、単なる観念でしかないこの「私と言う観念」は根本的に条件付けられているから「私が」「私のもの」とそう思い込んでいるのである。
この「私という観念」は肉体によって発生しているものではないので、死後、肉体を離れても機能しているのである。
この死後も生き続けている自我とは、「私と言う観念」であり、「私と言う観念」を生み出している根源によって生み出されて、生かされているもの
なのであると教えられている。
しかし、この自我である「私と言う観念」は、この私自身である自我には生み出せはしない。
この自分を肉体だと思ってしまった私という「私と言う観念」は、究極の私(未知なる真の私)によって生み出されているのではないだろうか。
この観念の私が意識の座である「魂の私」(本来は本当の私を顕すべき鏡)を覆っているサングラスである
それ故に如何なる私であっても、愛が燦々と降り注がれているように、如何なる私であろうと、分け隔てなく全ての私の事を愛すべきなのである
「わたしは私を愛しています」と心の底から愛すべきである、その私がどの私であろうと、それは全く問題ではない。
私である以上は、すべての私を、私は愛するのである。
現実はといえば、呼吸はもちろんのこと、人体を維持することも、考えることも、その考えを記憶することも、見る事も、感じる事も、味わう事も
喜ぶことも、快楽を感じることも、苦痛を感じることも、思考することも、恐れることも、安心することも、その基盤である記憶も、その
記憶の反応である働きも、自我によるものではなく、自我に因らずに、むしろ自我とは根源から魂を通じて展開され、そして魂を通じて認識さ
れているのであると。
この自己という自我は、この自我自己へ愛が燦々と降り注がれているからこそ、この錯覚が継続している現象なのではないか。
自我を生かしている愛である意識が実在しているが故に自我も錯覚していることができているのである。
「私は私を愛している」のである。自我は愛されているのである、私によって・・・。
この自我に愛が燦々と降り注がれている。
けれども
この自我には果たして口を動かして喋ることができるのであろうか?
考えることができるか?
さらに記憶や感覚や印象などを纏め上げて一つの観念に仕上げることができようか?
嫌な思い出にしたり、楽しい思い出にしたり、観念化して、動機となり、目的となって、それに向かって行動したり
眼球や神経を動かして外界を知覚して、それらの印象を統合して認識するというような、驚くべき連携動作ができるとでも言うのであろうか?
それらは、自我がしているのではなくて、全てが分離しているこの「観念である私・自我」を通じて叡智がしているのである。
PCを見ればよくわかるが、PCのICやら基板があって、それを動かす基本OSがあって、末端のアプリケーションがあって、ハードディスクが
あって、電気が入って動かす人がいるからゲーム上の主人公は動いているのに、そのゲーム上の人物は自分が生きていると錯覚するのだ。
実際は、分離している自我である私には何一つできないし、関与していないのである。私が生きているのではなくて、生命が生きているのである。
自己が生きているという実感、それは全くのトリックであり、実際には生きていること、行為する事、起こっている出来事には、全く自我は関与
していないのに、「自分がしている、自分が生きている、自分の人生だ」と、そのように思い込むように仕組まれているからである。
と聖者達は言っている。
ではなぜ、自我がそう錯覚することができるかと言えば、「意識の座」があるからである
私が行為して、自分が感じて、思考して、生きて、自分が存在しているという“「私と言う観念」”が意識の座を覆っているからなのである。
考えることも、感じる事も、記憶することも、感情の働きも、それを観念として、思考として記憶することも、これらが機能できていることとは
あまりにも高度すぎており、これが滞りなく働くことは至高で完全なる叡智を必要とするのである。
これらのことは、全くもって「記憶の私という自己自我」には出来ることではない事は明白であろう。
恐れることも、その恐れを感じることも、憎むことも、喜ぶことも、痛いと感じることも、その逆の快楽を感じることも、その感覚と知覚とは
その動機付けも、信仰、信念も、条件付けも全く、自動的に完璧に行われていることであり、非常に高度な完全なる叡智のシステムの結果である。
ただ私達である「私だと言う観念である自己自我」は自分が為してると、そのように思い込むように造られているのである。
自分が感じている、自分が記憶している、私が痛がっている、私が快楽を感じている、私が好いているだと、そのように自分が感じて、思考して
記憶して、反応しているので自分がしていると思っているのである・・いや、そう思っている「私と言う観念・無知」が意識の座を覆っているのである。
この「私と言う観念である自己自我」さえも、この自己自我によって生み出されているのではない。
生まれたときには、既にこの他と分離し、肉体と同一化している自我はあったのである。自我という自己は、自我を超えている叡智によって
生み出されているものなのである。
私という分離している実感を持っているこの錯覚している観念=私とは結果であるといえよう。
実際に知覚し、感じているのは本当の認識主体であり、それは絶対主体である御方であるのだと教えられている。
私が、私のもの、という実感も、観念も思考も、感情も、感覚も、記憶も、認識も、そして私自身さえも、全く以て、私のものではなく、私のではない。
私の、私が、私のもの、私の主体、私の肉体、私の行為、私の人生、私の成果などと、実感している主体とは「私という観念」なのではないか。
そして、これらのことは愛が燦々とこの身に注がれているが故に起こっている現象なのであろう。
「分離した自分」が生きており、感じており、考えているという〔錯覚である〕実感が意識の座に起こって生じているのである。
そしてこの意識の座そのものとは、私のものや私という「自他に分離した思考」は微塵も存在していないのではないか。
私自身をも含めて、何一つ私のものではなく、私が起こせるものではなく、私によるものではない。
私が起こせるものではないので、私の成果でもなく、私が到達したのではない。誇りも傲慢もない、そもそも根源が自我を通じて苦しみ、悲しみ
喜び、感じて、認識し、知覚されているからには・・・。
分離した自己という、「私と言う観念」が故に生じている自我を通じて、生きて、感じて、思考して、分離した自己自我として生きておられるのは
他ならない、すべてに愛を燦々と降り注いでいる私、即ち「純粋・絶対の主体である私」であるところの未知なる根源であると言われている。
私は私に愛されているし、私は私を愛している。それ故に如何なる次元の私であろうとも愛が燦々と降り注がれている。
このその御方自身が、この観念である私という自我自己を通じて生きておられる、感じておられる、考えておられる、記憶しておられ、愛され
悩み、苦しんでおられる、認識しておられる。現象を顕しておられると、そういうことではないだろうか。・・これこそ無限の神の愛ではないだろうか。