ヴィヴェーカナンダの言葉

(日本ヴェーダーンタ協会「ギヤーナ・ヨーガ」
「悟り」より一部転載させてもらいました)

8悟り


今日は、あるウパニシャッドの一部を、よんでおき
かせしましょう。カタ・ウパニシャッドという書物で
す。みなさんの中には多分、「死の秘密」という題の、
サー・エドウィン・アーノルドによるそれの翻訳を、
およみになった方々がおいででしょう。この前の講演
の中でわれわれは、この世のはじめ、宇宙の創造と同
時にはじまった探求が、外界からはなんとしても満足
すべき解答が得られず、ついに内面にむけられるよう
になった、といういきさつを知りました。この書物は、
人の内面の性質をたずねつつ、心理学の立場からその
考えをとり上げています。まず最初には、誰がこの外
界をつくったのか、またどのようにしてそれはここに
あるようになったのか、ということが問われました。
いまは問いは、人のうちにあって彼を生かし、うごか
しているものは何か、そして彼が死ぬとそれはどうな
るのか、というものです。最初の哲学者たちは物質的
な実体を研究し、それを通して究極の存在に達しよう
とこころみました。彼らはせいぜい、宇宙を統治する
ある人格、この上もなく強大な人間、それでもあらゆ
る点で人間にすぎないものを見いだしただけでした。


しかし、それは真理の全部ではありませんでした。せ
いぜい、真理の一部分でした。われわれはこの宇宙を
人間の立場からながめます。したがってわれわれの神
は、この宇宙の、われわれ人間の説明なのです。
 かりに牝牛が哲学的であって宗教を持ったとすれば
それは牝牛の宇宙を持ち、問題を牝牛的に解決し、し
たがってそれがわれわれの見るのとおなじ神を見るこ
とは、不可能でしょう。かりにネコたちが哲学者になっ
たとすれば、彼らはネコの宇宙を持ち、宇宙の問題を
ネコ的に解決するでしょう。そしてネコがそれを支配
します。このことからわれわれは、自分たちの宇宙の
説明は問題の完全な解決ではない、ということを知る
のです。われわれの概念も同様、宇宙の全体をおおう
ものではありません。人間がとりたがる、そのおそろ
しく利己的な立場をみとめるのは、大きなまちがいで
しょう。われわれが外界から得ることができるような
宇宙問題の解答は、まず第一に、われわれが見る宇宙
はわれわれだけの特別の宇宙なのであるという、つま
り、われわれがわれわれの目で見た実在なのであると
いう、この困難にあって苦しみます。その実在は、感
覚によっては見ることはできないのです。われわれは
それを、理解することはできません。われわれはただ、
五つの感覚を持った生きものの立場から、宇宙を知る
のです。もしわれわれがもう一つの感覚を得たら、わ
れわれにとって全宇宙はちがったものになるにちがい
ありません。
もしわれわれが磁気を感じる感覚を持っ
ていたなら、そのときには、いまはわれわれが知らな
い、またそれに対する感覚を持っていない、幾百万の
力の存在を見いだすでしょう。われわれの感覚はかぎ
られたものです。ほんとうにかぎられたものです。そ
してそれらの限定の中に、われわれがわれらの宇宙と
よんでいるものは存在するのです。そして、われわれ
の神が、その宇宙の解答なのです。しかしそれは、問
題全部の解答ではあり得ません。人はそこでとまるこ
とはできません。彼は考える生きものですから、すべ
ての宇宙を包括的に説明するような解答をもとめま
す。同時に人間の世界であり神々の世界であり、また
ありとあらゆるものの世界でもある一つの世界を見た
いと思い、すべての現象を説きあかす解答を見いだし
たい、と思うのです。


 われわれは、まず第一にすべての宇宙をふくむ宇宙
を見いださなければならない、ということを知ります。
それを感覚でとらえ得るか否かは別として、それ自体
が、存在のこれらさまざまの面のすべてを通じて内在
する要素であるにちがいない、あるものを見いださな
ければならない、と知るのです。もし、高いひくいあ
らゆる世界の共同の持ちものであると知ることができ
るような何ものかを見いだすことができたなら、その
とき、われわれの問題は解決するでしょう。たとえ、
まったくの論理の力だけで、すべての存在に共通の根
底があるにちがいないということが理解できたとして
も、われわれの難問はある種の解決に一歩近づいたと
言えるかもしれません。しかしこの解決はたしかに、
われわれが見て知る世界だけからは得られません。な
ぜならそれは、全体のほんの一部のながめにすぎない
のですから。


 われわれの唯一の希望はそれゆえ、もっと深いとこ
ろにはいりこむことにあります。古代の思想家たち
は、中心から遠のくにつれて、変化や分化はよりいち
じるしくなり、中心に近づくにつれて、単一に近づく、
ということを発見しました。円の中心に近づくにつれ
て、われわれはすべての半径が相あう共通の場所に近
づきます。そして中心から遠のくにつれて、われわれ
の放射状の道は、他の道からはなれて行くのです。外
の世界は中心から遠くはなれていますから、そこには
存在のすべての現象があることができるような共通
の場所はありません。外界はせいぜい、全現象界の一
部分にすぎません。
そこには他の部分、すなわち心の
mental、道徳のmoral、および知性のintellectual、と
いう、存在のさまざまの面がありまして、そのたった
一つをとりあげてその一つから全体の解決を見いだす
ことは、不可能と言うほかないのです。ですからわれ
われはまずどこかに、いわば存在の他のすべての面は
そこから出発する、という一つの中心を見いだし、そ
こに立って解決を見いだそうとつとめるべきです。そ
れが提案です。そしてどこにその中心はあるのでしょ
うか。それは、われわれの内にあるのです。
古代の賢
者たちは、深く、もっと深くと内に沈潜してついに、

人間の魂のもっともおくの核心に、その中心はある、
ということを発見しました。すべての面は、その一点
にひかれています。そこが共通の場所であり、そこに
立ってはじめて、われわれは共通の解決を見いだすこ
とができるのです。
ですから、この世界は誰がつくっ
たか、という質問は非常に哲学的なものではないし、
それの解答もたいしたものではありません。


 このことを、カタ・ウパニシャッドはみごとなたと
えで語っています。昔むかし、ある非常な金持ちの男
がいまして、彼が、自分の持ちもの全部をささげる、
という犠牲供養をおこないました。さて、この男は誠
実ではありませんでした。このような供養をした、と
いう栄誉だけがほしかったのでして、実は、自分にとっ
てもう役にたたなくなったものしか、ささげませんで
した。子を生まない、まためくらやちんばの、年おい
た牝牛などです。彼は、ナチケータスという一人の息
子を持っていました。この息子が、父親が正しいこと
をしていないのを、ちかいをやぶっているのを見まし
た。しかし彼は、父親になんと言ったらよいのか知り
ませんでした。インドでは、父と母は子供たちにとっ
ては生きた神です。彼はうやうやしく父に近づき、謙
虚にたずねました、「父上、私を誰におあたえになる
のですか。あなたの犠牲供養は、何もかもをささげて
おしまいにならなければならないのでしょう」父親は
この問いに大変にこまって、「おまえは何を考えてい
るのか、息子よ。父親が自分の息子をやってしまうの
か」と言いました。息子がこの問いを二度、三度くり
かえしたので父親は立腹し、「おまえを私は、死の神(ヤ
マ)にあたえるぞ」と言いました。それで物語はつづき、
少年が死の神ヤマのもとに行ったことをつたえます。
ヤマは、最初に死んだ人でした。彼は天に行き、すべ
てのピトリ(霊魂)たちの統治者となりました。すべ
てのよい人びとは死ぬと、行って長い間彼とともにく
らします。彼は非常に純粋な高徳の人で、その名、ヤ
マが示すようにきよらかで善良です。
 そこで少年はヤマの世界に行きました。しかし、神々
でもときどき家をるすにすることがあるので、三日間、
この少年はそこで待たなければなりませんでした。三
日たつと、ヤマはかえってきました。「おお、学者よ」
とヤマは言いました、「あなたのような尊敬すべき客
人が三日間も、ものもたべずにここで私を待っておら
れたとは。ようこそおいで下さった。うれしく思いま
す!るすにしていたことは、まことに申しわけない。
しかしこのことに対しては、うめあわせをしよう。一
日に一つとして、三つのめぐみを要求なさい」と。そ
れで少年はねがいでました、「私の最初のおねがいは、
父のいかりがとけ、あなたがかえることをおゆるしく
ださったときに私をうけいれてくれるように、という
ものです」 ヤマは完全にそれをかなえました。
  つぎのめぐみは、人を天国につれて行く、ある犠
牲供養について知りたい、というものでした。さて、
ヴェーダのサムヒダーの部分にわれわれが見た最古の
思想は、ただ、人びとが輝くからだを得て、父祖たち
とともにくらす天国に関するものにすぎませんでし
た。徐々に、他の思想がはいってきましたが、彼らは
満足してはいませんでした。もっと高い何ものかが、
もとめられていました。天国での生活はこの世の生活
とあまりちがいはしないでしょう。せいぜい、十分な
感覚の楽しみと、病気を知らない健康な肉体を持つ、
非常に健康で金持ちの男の人生にすぎないでしょう。
それは要するに、ほんの少しばかり精妙になった、こ
の物質世界でありましょう。しかもわれわれは、そと
にある物質世界は決してこの難問を解決することは
できない、という困難を知ったのです。それゆえ天国
は問題を解決することはできません。もしこの世界が
問題を解決することができないなら、この世界をいく
つかさねてもそれはできません。なぜなら、われわれ
は、物質は自然の現象のごく微小な一部分にすぎない
のだ、ということをわすれてはならないのですから。


われわれが実際に見ている現象の広大な部分は、物質
ではありません。たとえば、人生の各瞬間に、外界の
物質現象にくらべてどんなに大きな部分が、思いと感
情によって演じられていることでしょう! この内な
る世界は、それのすさまじい働きによって、どんなに
ひろく大きいことでしょう! 感覚の現象はそれにく
らべたら実に小さなものです。天国という解決は、こ
のあやまりをおかしているのです。それは、現象の全
部は触覚、味覚、および視覚等の中にのみある、と主
張しています。ですからこの天国思想は、すべての人
を十分に満足させることはできなかったのです。それ
でもナチケータスは、第二のめぐみとして、人びとを
天国につれて行く犠牲供養のことをたずねています。

ヴェーダの中には、これらの犠牲供養が神々をよろこ
ぼせ、人間を天国につれて行く、という思想があった
のでした。
すべての宗教を研究すると、みなさんは、古いもの
は何でも神聖になる、という事実にお気づきになるで
しょう。たとえば、インドにおけるわれわれの祖先た
ちは、カバの木の皮に文字を書いたものでした。しか
しやがて、彼らは紙をつくることを学びました。それ
でも、カバの木の皮はなお、非常に神聖なものとみな
されています。人びとがむかし、食物のにたきにつかっ
ていた道具が改良されると、古いものは神聖になりま
した。またこの考えがインドほどよくたもたれている
ところは、ほかにはありません。二つの木の棒をこす
りあわせて火をつくるというような、九千年か二万年
も前のものにちがいない古い方法が、いまももちいら
離れています。犠牲供養のときには、ほかの方法ではだ
めなのです。アジアアリアン系の他の種族の間でもそ
うです。現代に生きる彼らの子孫たちはいまも電光か
ら火をとることをこのみ、彼らがこのようにして火を
とっていたことを示しています。他の習慣を学びとっ
たのちにも、彼らは古い習慣を保存し、その習慣は神
聖なものとされました。ヘブライ人の場合もそうです。
彼らは羊皮紙の上に書いていました。いまは紙に書い
ていますが、羊皮紙は非常に神聖なものとなっていま
す。すべての民族が同様です。いまみなさんが神聖だ
と思っていらっしゃる儀式はことごとく、要するに昔
の習慣だったのです。ヴェーダの犠牲供養もこの種の
ものでした。やがて、よりよい生活の方法を見いだす
につれて、彼らの考えも大きく進歩しました。それで
もなお、このような古い形式はのこって、ときどき実
際におこなわれ、神聖な意味をもつようになりました。


 そこで一群の者たちが、このような犠牲供養をおこ
なうことを自分たちの職業としました。これが、犠牲
供養に自分たちの生活をかけた神職たちなのでして、
彼らにとっては犠牲供養が無上のものとなりました。
神々は供養のかおりを楽しみにやってきました。そし
て、この世のいっさいのことは犠牲供養の力によって
かなえられる、と考えられたのでした。あるささげも
のがなされ、ある賛歌がとなえられ、ある特別の形の
祭壇がつくられるなら、神々が何でもあたえて下さる、
というのです。それだからナチケータスは、どのよう
な供養をすれば天国に行くことができるか、とたずね
ているのです。ヤマはこの第二のめぐみもただちにか
なえ、以後この供養をナチケータスと呼ぶ、と約束し
ました。
 それから、第三のめぐみがきます。そしてそれとと
もに、ほんもののウパニシャッドがはじまるのです。
少年が言いました、「こういう困難があります。人が
死ぬと、ある人びとは彼はいる、と言い、またある人
びとは、彼はいない、と言います。あなたのみ教えに
よって、私はこのことをよく知りたいと思います」と。
しかしヤマは、おそれをなしました。彼ははかの二つ
のめぐみはよろこんであたえたのですが、いまはこう
言いました、「古代の神々もこの点では当惑されたの
だ。この微妙なおきてを理解することは容易ではない。
何かはかのめぐみをえらびなさい、おお、ナチケータ
スよ。この点で私をせめないでくれ、ゆるしてくれ」と。
 少年は断固としてこう言いました、「おお、死の神
さま、神々さえもこのことはよくわからず、理解はた
いそうむずかしいと、あなたがおっしゃることはほん
とうです。しかし私は、あなたよりすぐれた解説者に
お目にかかることはできません。また私がこれほどい
ただきたいと思っているおめぐみはほかにはありま
せん」
 
死の神は言いました、「百年も生きる息子たち孫た
ち、多くの家畜、ゾウ、黄金および馬などをねがうが
よい。この世の王国をねがって生きたいだけ生きるが
よい。または、富であれ長寿であれ ー あなたがこれ
らにひとしいと思うどんなめぐみでも、えらぶがよい。
または、おおナチケータスよ、おん身、広大な土地の
王であれ。私はおん身を、すべての願望を享楽する者
としよう。この世ではみたすことがむずかしいような
願望でも、ねがいでるがよい。人間は持つことのでき
ない馬車にのって音楽をかなでている天女たちも、あ
なたのものである。彼女たちにつかえさせるがよい、
おおナチケータスよ、死後にどうなるかということだ
けは、きかないでくれ」 と。

 ナチケータスは言いました、「これらはただ一日の
ものです。おお死の神さま、それらはすべての感覚器
官のエネルギーをすりへらします。いくら長生きして
も、一生はときのまです。そのような馬や馬車やおど
りや歌は、あなたがお持ちになるがよろしい。人は、
富で満足することはできません。あなたにお目にかか
るとき、人は富を持ちつづけることができますか。私
たちは、あなたがおのぞみになっただけしか生きるこ
とはできません。私がおねがいしたおめぐみだけが、
私によってえらばれたものなのです」


 ヤマはこの答えをきいてよろこび、こう言いました、
「完成は一つのこと、享楽は別のこと、この二つはち
がう目的を持っていて、人びとをことなる形でひきつ
ける。完成をえらぶ者はきよらかになる。享楽をえら
ぶ者は、彼の真の目的を見うしなう。完成も享楽も、
ともに人の前にすがたをあらわす。かしこい人は両者
をしらべて見くらべる。彼は享楽よりすぐれたものと
して、完成をえらぶ。しかしおろかな人は自分の肉体
の楽しみのために享楽をえらぶ。おおナチケータス、
見かけがのぞましいだけのもののことをよく考えて、
あなたはかしこくも、それらを放棄した」と。死の神
はそれから、ナチケータスをおしえにかかりました。

 われわれはここで、放棄という非常にすすんだ思想
と、人が享楽への欲望を克服するまでは、真理は彼の
うちに輝かない、というヴェーダの道徳観を知ります。
感覚のこのようなむなしい欲望がさわぎたてて、われ
われをつまらない色とか味とか触感など、外界のあら
ゆるものの奴隷としつつ、あらゆる瞬間にいわばわれ
われを外にひきずりだそうとしている間は、たとえど
んなにうわべをよく見せても、どうして真理がハート
にみずからを示すことなどがあり得ましょう



ヤマは言いました、「かなたにあるものは決して、
富のおろかさにあざむかれている無考えな小児の心の
前には、すがたをあらわさない。『この世は存在する、
あの世は存在しない』こう考えて、彼らはいくたびも
いくたびも、私の支配下にやってくる。この真理を理
解することは大変にむずかしいのだ。多くの者たちが、
たえずそれをきいていても理解しない。はなす人は非
凡でなければならず、きく人もそうでなければならな
いからだ。教師は凡俗をこえていなければならず、お
しえられる者もそうでなければならないのだ。心がむ
なしい議論によってみだされるようであってもいけな
い。なぜならそれはもはや議論の問題ではなく、事実
の問題なのであるから」と。われわれはつねに、あら
ゆる宗教がわれわれは信じなければならないと主張す
るのをきいてきました。盲目的に信じよ、とおしえら
れてきました。さて、この盲目的に信じるという思想
はたしかに、容認できませんが、分析するとその背後
には、非常に大きな真理がふくまれています。それの
真の意味はまさに、いまよんでいるところです。心が
むなしい議論でかきみだされてはならないのです。な
ぜなら、議論は神を知ることをたすけないのですから。



それは事実の問題であって、議論のそれではないので
す。議論と推理はすべて、ある種の知覚の上に立って
いなければなりません。これらがなければ、議論のし
ようがないでしょう。推理は、われわれがすでに存在
する事実を比較する方法です。もしこのような知覚さ
れた事実がすでにそこにあるのでなければ、そこには
どんな推理もあり得ません。外界の現象においてそう
であるなら、内界ではそうでない、というわけはない
でしょう。化学者がある化学物質をとりあげると、あ
る種の結果がでます。これは一つの事実です。みなさ
んはそれを見、それを知覚し、そしてそれを、その上
にすべての化学上の議論を立脚させる土台となさるで
しょぅ。物理学者たちの場合もそうですし、他のすべ
ての科学においてもそうです。すべての知識はある事
実の知覚に立脚しなければならず、その上に、われわ
れは推理をくみ立てなければならないのです。しかし
実に奇妙なことに、人類の大多数は、ことに現代は、
宗教の場合にはそのような知覚は不可能である、宗教
はむなしい議論によってしか理解することはできな
い、と思っています。、それだからわれわれは、むなし
い議論で心をみだすな、と言いきかされているのです。


宗教はおしゃべりではなく、事実の問題です。われわ
れは自分の魂を分析して、そこにあるものを見いださ
なければならないのです。われわれはそれを理解して、
理解されたことをrealize悟らなければならないので
す。
それが宗教なのです。いくらおしゃべりをしても、
宗教はできないでしょう。神が存在するかしないかの
問題は、議論では決して証明はされません。なぜなら
論証はどちらの側にも可能なのですから。しかし、も
し神というものが存在するなら、彼はわれわれのハー
トの中におられます。
みなさんは彼を見たことがあり
ますか。この世界が存在するかしないかという問題は、
まだ決定されてはいず、観念論者と実在論者との問の
議論には,はてしがありません。それでもわれわれは、
世界は存在する、それは進行しつつある、ということ
を知っています。われわれはただ、言葉の意味をかえ
るだけなのです。そのように、人生のすべての問題の
場合、われわれは事実に直画しなければなりません。
外界の科学の場合と同様、知覚されるはずの、ある宗
教上の事実がありまして、その事実の上に立って、宗
教はつくられるのです。もちろん、ある宗教のあらゆ
る教義を信じなければならないという極端な主張は、
人間の心を堕落させるものです。みなさんに何もかも
を信じよともとめる人は、自分みずからを堕落させて
いるのであり、またもしみなさんがそれをお信じにな
るなら、みなさんをも堕落させているのです。世界の
賢者たちは、われわれにむかって、自分たちは自分の
心を分析してこれこれの事実を見いだした、あなた方
もそれらを見いだすなら信じよ、見いだすまでは信じ
るな、という権利を持っているだけです。
それが、宗
教の中にあるすべてです。しかしみなさんはつねにこ
のことをおぼえていらっしゃらなければなりません。
宗教を攻撃する人びとの九九・九パーセントは決して
自分の心を分析したこともなく、事実を見いだそうと
苦闘したこともないのです。ですから彼らの議論は宗
教に対して何のおもみも持ってはいません。ちょうど、
「太陽の存在を信じるなんてお前たちはみな馬鹿だ」
とさけぶ盲目の男の言葉のようなものです。


 これは、学び、そして堅持しなければならない一つ
の偉大な観念です−この、悟りという観念は!
もろもろの宗教の間の、この騒動やたたかいや相違は、
われわれが宗教は書物や神殿の中にあるのではない、
と知ったときにはじめて、やむでしょう。それは、実
際の知覚なのです。実際に神と魂を知覚した人だけが、
宗教を持っているのです。書物をもとに教えを説くこ
とのできる宗教界最高の巨人と、最低のもっとも無知
な唯物論者との間に真のちがいはありません。



われわれはすべて無神論者です。それを白状しようではあ
りませんか。単なる知的同意が、われわれを宗教的に
するものではありません。キリスト教徒であれ、マホ
メット教徒であれ、世界のどの宗教の信者であれ、と
り上げてみましょう。誰であれ、山上の垂訓のほんと
うの意味を悟った人は完全になり、ただちに神になる
でしょう。それでも、世界には幾百万のキリスト教徒
がいる、と言われています。その意味は、人類はいつ
かは、あの垂訓を実現しようとつとめるであろう、と
いうものです。二千万人に一人も、其のキリスト教徒
はいません。

 
インドでもおなじこと、そこには三億のヴェーダー
ンタ信奉者がいる、と言われています。しかしもしそ
こに、千人に一人でも実際に宗教を悟った人がいた
なら、この世界はたちまち大きくかわっているでしょ
う。
われわれはみな無神論者です。それでもわれわれ
は、それをみとめる人とたたかおうとするのです。わ
れわれはみな、やみの中にいます。われわれにとって
宗教は単なる知的同意、単なるおしゃべり、くだらな
いことです。われわれはしばしば、上手にしゃべるこ
とのできる人を宗教的だと思います。しかしこれは宗

教ではありません
「言葉をつなげるすばらしい技法、
修辞学の力量、および聖典のさまざまの説き方こ
れらはただ学者の楽しみのためにあるので宗教ではな
い」宗教は、われわれ自身の魂のうちにそのほんとう
の悟りがはじまるときに、やってきます。
それが、宗
教のあけぼのでありましょう。そしてそのときにはじ
めて、われわれは道徳的になるのです。いまは、われ
われはけものたちにくらべてたいして道徳的だという
わけではありません。ただ社会というむちにおさえつ
けられているだけです。もし社会が今日、「おまえが
ぬすみをしても私は罰をあたえない」と言ったら、わ
れわれはたがいの持ちものをうばおうととびだすで
しょう。われわれを道徳的にしているのは警官です。


われわれを道徳的にしているのは社会の意見です。実
はわれわれは、けものとあまりかわらないのです。わ
れわれは、まったくその通りだということを心のおく
そこで承知しています。ですから、偽善者にはならな
いようにしましょう。自分が宗教的ではなく、他者を
見くだす資格は持っていないことを、告白しましょう。


われわれはみな兄弟です。そしてわれわれは、宗教を
悟ったとき、ほんとうに道徳的になるでしょう。
 もしみなさんがある国を見て、しかもある人がみな
さんに、自分はそれを見ていないと言え、としいても、
それでもみなさんは心のおくそこで、自分はそれを見
た、ということを知っていらっしゃるでしょう。その
ように、みなさんが宗教を、そして神を、この外界を
見るよりもっと強烈な感じでごらんになるときには、
何ものもみなさんの信念をゆるがすことはできますま
い。そのとき、みなさんはほんとうの信仰をお持ちに
なるのです。それが、みなさんの福音書が、「たとえ
からしだね一粒ほどの信仰でも持つ者は」と言ってい
ることなのです。そのとき、みなさんは真理をお知り
になる、なぜならみなさんが真理になられたのですか
ら。

                                             
 宗教を悟れ、おしゃべりは役に立たない−これが
ヴェーダーンタの標語です。しかし、これをするのは
容易なことではありません。あらゆる人のハートの奥
のおくにすむこの永遠の一者は、原子の中にかくれて
おられるのですから。

賢者たちは、内観の力によって
彼を悟り、よろこびと不幸の両方をこえ、われわれが
徳と悪徳と呼ぶものをこえ、善行と悪行を、存在と非
存在をこえました。彼を見た人は、実在を見たのです。

しかしそれでは天国は何なのでしょうか。それは、不
幸をぬきにした幸福という観念でした。つまり、われ
われが欲しているのは、悲しみのまじっていないこの
世のよろこびなのです。それはたしかにたいそうよい
考えです。そうありたいとねがうのは当然です。しか
しそれは、まったくのまちがいなのです。完全な善な
どというものはないし、完全な悪などというものもな
いのですから。



 みなさんは、あのローマの金持ちの話は知っておい
ででしょう。ある日、自分の財産は百万ポンドしかの
こっていない、ということを知り、「あすはどうしよ
う」 と言ってすぐに自殺したのです。百万ポンドは彼
にとっては貧乏だったのです。何がよろこびで、何が
かなしみですか。それはきえて行く、たえずきえて行
く量です。子供のころ私は、もし御者になれて馬車で
はしりまわることができたらこんなしあわせなことは
なかろうと思いました。いまはそんなことは思いませ
ん。どんなよろこびに、みなさんはしがみつこうとし
ておられるのですか。これが、われわれみなが理解に
つとめるべき唯一のポイントです。そしてそれは、わ
れわれがすてるべき最後の迷信の一つなのです。人の
快楽の観念はそれぞれにことなります。私は、毎日一
かたまりのアへンをのまなければ幸福になれない人を
見ています。彼は、土地がアへンでできている天国を
ゆめみるでしょう。それは、私にはたいへんにわるい
天国でしょう。アラビアの詩の中にたびたび川がたく
さんながれているうつくしい庭園のある天国が出てき
ます。私は、水が多すぎて村々が毎年洪水に見まわれ、
幾千の生命がうしなわれるような国に生まれていきて
きました。ですから私の天国には、川のながれている
庭園などはあってほしくないのです。私は、雨のほと
んどふらないような国に行きたいと思います。われわ
れの楽しみはつねに変化しつつあります。もし若者が
天国をゆめ見るなら、彼はうつくしい妻を持てる天国
をゆめ見るでしょう。そのおなじ男が年をとれば、妻
はほしがりません。われわれの必要とするものが天国
をつくります。したがって必要なものの変化につれて、
天国もかわるのです。もしわれわれが、感覚の楽しみ
を存在の目的としている人びとが欲するような天国を
持ったとしたら、われわれに進歩はないでしょう。そ
れは、われわれが魂に宣告し得る、もっともおそろし
いのろいでありましょう。これが、われわれが行きつ
くさきなのですか。少しばかり泣いておどって、そし
て犬のように死ぬ! こんなものをほしがるとは、な
んというのろいを、人類の頭にかけるものか! それ
がこの世のよろこびを泣いて迫求しているときに、み
なさんがしておられることなのです。何がほんとうの
よろこびであるか、ということを知らないものだから。
哲学が主張しているのは、よろこびをすてよという
ことではなく、ほんとうのよろこびを知れ、というこ
となのです。ノルウェー人の天国はおそろしい戦場で
あって、彼らすべてがオーディン (北欧神話の神、文
化、戦争をつかさどる)の前にすわっています。彼ら
はイノシシがりをします。それからたたかいにでて、
たがいにあいてを切りきざみます。しかしなんとかし
て、そのようなたたかいの数時間後にはきずは全部な
おってしまって、彼らは広間にはいり、あのイノシシ
のやき肉で酒宴をもよおします。それからそのイノシ
シもまたもとの形をとりもどし、翌日にはふたたび狩
のえものとなるのです。これはわれわれの天国と非常
によくにていまして、少しもわるいことはなく、ただ
われわれの思想の方が少しばかり洗練されている、と
言えるだけでしょう。われわれはイノシシがりをした
いと思います。そしてちょうどノルウェー人が、その
イノシシが毎日ころされ、たべられては翌日生きかえ
ると想像するように、すべての楽しみがつづくところ
に生きたいと思うのです。



 さて、哲学は、絶対であって決してかわらないよろ
こびがある、と主張します。そのよろこびは、われわ
れがこの人生で経験するよろこびや快楽ではあり得ま
せんが、ヴェーダーンタは、この人生でよろこばしい
ものはすべて、その真のよろこびの一粒子にすぎない
のだ、ということを示しています。なぜなら、よろこ
びというものはそれ以外にはないのですから。あらゆ
る瞬間にわれわれは、おおいにつつまれて誤解され、
漫画ふうにあらわれてはいるけれど実は、その絶対の
至福をたのしんでいるのです。およそ幸福、至福また
はよろこびのあるところ、ぬすびとが物をぬすむよろ
こびでさえも、それはあの、絶対至福のあらわれなの
です。ただそれはあらゆる種類の外部の条件によって、
いわばおおわれ、めちゃくちゃにされ、誤解されては
いるのですけれど。しかしそれを理解するためには、
われわれは徹底的に否定をしなければならず、それが
できたときに、肯定的な面がはじまるのです。われわ
れは無知と、そしてすべてのにせものをすてなければ
なりません。するとそのときに、真理がわれわれにむ
かってみずからを示しはじめるのです。われわれが真
理を悟ると、はじめに放棄したものが新しい形をとり、
新しい光のもとにわれわれの前にあらわれて、神とあ
がめられるようになるでしょう。それらは昇華され、
われわれはそれらを、それらの其の光の中で理解する
でしょう。しかしそれらを理解するためには、われわ
れはまず、真理をかいま見なければなりません。最初
はそれらをすてなければならず、それから、神聖化さ
れたそれらをふたたびとりもどすのです。われわれは
自分の不幸と悲しみのすべてを、小さなよろこびのす
べてを、すてなければなりません。



 「すべてのヴェーダが断言するもの、すべてのざん
げの祈りがとなえるもの、それをもとめて人びとが
禁欲の生活をするもの、それを私はひとことで言お
う − それは『オーム』だ」みなさんは、この「オーム」
という言葉がヴェーダの中で非常にたたえられ、非常
に神聖なものとされているのをごらんになるでしょ
う。
 さて、ヤマが問いにこたえます ー 「肉体が死ぬ
と、人は何になるのですか」 「このかしこい者は決し
て死なず、決して生まれない。それは無から生じ、そ
れからは何も生まれない。不生、不滅、永続的、この
永遠の一者は決して、肉体がほろびても破壊されるこ
とはない。もしころす者が、自分はころすことができ
ると思うなら、またはもしころされる者が、自分はこ
ろされると思うなら、彼らはともに真理を知らないの
だ。自己は、ころしもしなければ、ころされもしない
のだから」実にすごい主張です。私は、一行目に出て
くる「かしこい」 という形容詞に、みなさんのご注意
をうながしたいと思います。話をすすめて行くうちに

ヴェーダーンタの理想は、叡知ときよらかさとはすで
に完全な形で魂の中にそなわっている−−それがかす
かにしかあらわれていないか、もっとよくあらわれて
いるか、がちがいのすべてである、とするものだ、と
いうことが、はっぎりとするでしょう。
人と人との問
の、またあらゆる被造物の間のちがいは種類にあるの
ではなく、程度にあるだけです。あらゆるものの背景、
すなわち本性は、あのおなじ不滅の、永遠にめぐまれ
た、永遠にきよらかな、永遠に完全な、一者なのです。


それが、聖者とつみびととの中に、幸福な人びとと不
幸な人びとの中に、美しい人びととみにくい人びとの
中に、人間とけものの中にある、アートマン、すなわ
ち魂なのです。それは全部おなじです。それは輝く一
者です。
ちがいは、表現力の差から生まれるのです。
あるものにはそれがもっとあらわれており、あるもの
にはもっと少なくあらわれています。しかしこの表現
のちがいは、アートマンには何の影響もあたえてはい
ません。服装において、一人が他の一人より多くはだ
をあらわにしていても、ちがいは衣服にあるのであっ
て、身体そのものはおなじでしょう。われわれはここ
で、ヴェーダーンタ哲学にはまったく、善と悪という
ようなものはない、善悪はことなる二物ではないのだ、
ということを心にとめておいた方がよろしい。
同一の
ものが、よく、またはわるく、そのちがいは程度にあ
るだけなのです。私は今日こころよいと呼ぶそのもの
を、あすはもっとよい環境の中で、苦痛だと言うかも
しれません。われわれをあたためる火が、われわれを
やきころすこともあり得る、それは火のおちどではあ
りません。このように、魂はきよらかで完全なのです
から、悪をなす者は自分にうそをついているのです。
彼自身の性質を知らないのです。殺人者の中にさえ、
きよらかな魂はやどっています。それは死にはしませ
ん。それは彼のまちがい、彼はそれをあらわすことが
できず、それをおおってしまっていたのです。自分は
ころされた、と思う人の中でも、魂はころされてはい
ません。それは永遠です。それは決してころされるこ
とはなく、破壊されることはありません。「最小のも
のより無限に小さく、最大のものより無限に大きく、
このすべてのものの主は、ひとつひとつの人のハート
の奥底にやどっておられる。
罪なき、不幸を知らぬ者
たちは、主の恩寵によって彼を見る。身体なき者、し
かも身体にやどり、空間を持たぬ者、しかも空間を占
めていると見え、無限、遍在である。魂をこのような
ものと知り、賢者たちは決して、不幸にはならない」
 

「このアートマンは、話す力によって悟れるもので
はない。ぱく大な知性によっても、ヴェーダの研究に
よっても、悟れるものではない」 
これは実に大胆な発
言です。まえにも申しあげたように、賢者たちは非
常に大胆な思索家であって、何ごとがあっても中途で
やめることはしませんでした。インドではこれらの
ヴェーダは、クリスチャンが聖書をあがめるよりも
もっと深くあがめられている、ということを、みなさ
んはおぼえていて下さい。啓示というもののみなさん
の観念は、人が神から霊感をあたえられた、というも
のです。しかしインドでは、ものは、ヴェーダに書い
てあるから存在するのだ、と考えられています。ヴェー
ダの中でヴェーダによって、すべてのものはつくられ
たのです。知識とよばれるもののすべては、ヴェーダ
の中にあります。一つ一つの言葉が神聖で永遠、はじ
めなくおわりなく、魂のように永遠です。創り主の心
の全部が、いわば、この書物の中にあります。そのよ
うに、ヴェーダは見られているのです。なぜこのこと
は道徳的であるのか。ヴェーダがそう言っているから。
それにもかかわらず、ヴェーダをたくさん勉強しても
真理は見いだせない、と宣言した、これらの賢者たち
の大胆さを見てごらんなさい。「主がおよろこびになっ
た人、その人に、彼はご自身をお示しになる」 しかし
そうすると、それは党派心のようなものだ、という反
論が出るかもしれません。しかしヤマは説明します、
「わるいおこないをする者たちは心が平安でないから、
決して光を見ることはできない。この自己がみずから
をあらわすのは、ハートが誠実で行為がきよらかで、
その感覚がよく制御されている人びとである」
 と。


 ここに一つのみごとなたとえがあります。自己をの
り手と、この肉体を馬車、知性を御者、心をたづな、
そして感覚を馬、と想像せよ。その馬がよく訓練され
ており、そのたづながつよくて御者(知性)の手にしっ
かりとにざられている人は、彼すなわち遍在する者の
境地という、目標に到達します。しかしその馬(感覚)
が制御されず、たづな (心) がうまくさばかれていな
い者は、破滅にむかいます。このすべての生きものに
やどるアートマンは、目すなわち感覚器官の前には彼
みずからを示しませんが、その心がきよめられ洗練さ
れている人びとは、彼を悟ります。
すべての音、すべ
ての視界をこえた、形をこえた、絶対の、すべての味
覚と触感をこえた、無限の、はじめなくおわりなき、
自然さえもこえた、不変なる者。彼を悟る人は、自分
を死地から解放します。しかしそれは大変にむずかし
いことです。まるでかみそりの刃をわたるようなもの
です。道は長く、そして危険にみちています。しかし
努力をおつづけなさい。絶望してはいけません。めざ
めよ、立ちあがれ、そしてゴールに達するまで、立ち
どまるな。


                    、
 すべてのウパニシャッドに通じる一つの中心思想
は、「悟り」という思想です。実に多くの質問がつぎ
っぎに、特に現代人にはおこるでしょう。効用につい
ての質問が出るでしょう。ほかのさまざまの質問が出
るでしょう。しかしつねに、われわれは自分の過去の
連想にうながされているのです。われわれの心に実に
大きな力をおよぼしているのが、観念の連合です。子
供のころからつねに、人格神と心の個体性のことをき
いてきた人びとには、このような思想はもちろんきび
しいものに思われるでしょう。しかしもし彼らがよく
耳をかたむけ、それらについて考えるなら、それらは
彼らの生命の一部となって、彼らをおびやかすような
ことはしないでしょう。一般におこる大きな疑問は、
哲学の効用性です。それに対してはたった一つの答え
があり得ます。もし、効用性の上から見るなら人びと
にとって快楽をもとめる方がよい、というのなら、な
ぜ、宗教的思索を楽しみとする人びとがそれをもとめ
てはいけないのですか。感覚の楽しみが多くの人びと
をよろこぼせるから、彼らはそれらをもとめるのです
が、それらをたのしめない人びと、もっと高い楽しみ
をほしがる人びともいるでしょう。犬の楽しみは、た
べることと飲むことだけです。犬は、何もかもをすて
て多分ある星の位置を観察するために山の頂上に行く
科学者の楽しみを、理解することはできないでしょう。
犬どもは多分、彼を見てわらい、彼は気ちがいだ、と
思うでしょう。多分、このまずしい科学者は結婚する
だけの金も持たず、ごく質素にくらしているでしょう。


おそらく、犬は彼のことをわらうでしょう。しかしそ
の科学者は言うのです、「親愛なる犬よ、あなたの楽
しみはあなたの感覚の中だけにあり、あなたはそれ以
上のものは何ひとつ知らない。だが私にとっては、こ
れがもっともたのしい生活なのだ。もしあなたがあな
たなりの方法で自分の楽しみを追及する権利を持って
いるなら、私もおなじ権利を持っているのだ」と。ま
ちがいは、われわれは全世界を自分たちの段階にしば
りつけ、自分の心を全宇宙のものさしにする、という
ところにあります。みなさんにとっては、古い感覚の
楽しみが最大のものなのですが、私の楽しみがそれと
おなじでなければならないというわけはありません。
みなさんがそれを主張なされば、私はみなさんとはち
がうのです。それが、世間の功利主義者と宗教的な人
とのちがいです。前者は言います、「私がどんなに幸
福であるか、見よ。私は金を得るが、宗教などであた
まをなやませはしない。それはあまりに探求がむずか
しい。また私はそれがなくてもしあわせだ」 と。そこ
まではけっこうです。すべての功利主義者にとって結
構です。しかし、この世界はおそろしい。どんな方法
でにせよ、人がもし仲間をきずつけることなしに幸福
を得るのなら、神よ、彼をたすけたまえ。しかしもし
この人が私のところにきて、「おまえもこのようにし
なければいけない。もししなければ、おまえは馬鹿だ」
と言うなら、

私は言います、「あなたはまちがっている。
あなたにとってたのしいことが、私にはなんの魅力も
ないのだから。もし私が少しばかりの黄金をもとめて
行かなければならないのだったら、私は生きているか
いがないだろう! 死ななければならない」 と。それ
が、宗教的な人がするであろう返事です。事実は、宗
教はこのようなひくい事物との関係をたった人びとだ
けに可能なものなのです。われわれは、自分で経験を
しなければなりません。自分の行程は行きおわらなけ
ればなりません。この行程を終了したときにはじめて、
別の世界がひらけるのです




 感覚の楽しみはときどき、危険で誘惑的な別のすが
たをとります。みなさんはつねに − 非常に古いころ
のあらゆる宗教の中に − つぎのような思想をごらん
になるでしょうり 人生のすべての不幸がなくなり、そ
れのよろこびと楽しみだけがのこってこの世が天国に
なる、そのようなときがくる、というのです。それは、
私は信じません。この地上世界は、つねにこのおなじ
世界でいるでしょう。
それは言うのも実におそろしい
ことなのですが、それでも私は、そこを出て行く道を
知りません。この世の不幸は、肉体におこる慢性リユー
マチのようなものです。1カ所からおいだすと別の個
所にゆき、そこからおいだすと、ほかのどこかであな
たはいたみを感じるでしょう。何をしてみても、なお
それは、そこにあるのです。古代には人びとは森にす
み、たがいに他をたべていました。現代には他人の肉
をたべるようなことはしません。しかし彼らはだまし
あいます。国々町々全体が、だましあいではろびてい
ます。それは、たいして進歩したという、しるしでは
ありません。私には、みなさんが世界の進歩とおっしゃ
るものが欲望の増加以外のものであるとは見えないの
です。もし、一つのことが私にとってはあきらかであ
る、とするなら、それは、欲望がすべての不幸をもた
らす、というこの事です。それは、つねに何かをほし
がっており、それを持ちたいという願望なしにはもの
を見ることができず、つねにもっともっとほしがって
いる、乞食の境地です。われわれの願望をみたす力が
等差級数的にふえるなら、欲望の力は等比級数的にふ
えるのです。この世界の幸福と不幸の総計は少なくと
もいつもおなじです。海に波が立てば、どこかにくぼ
みができるでしょう。一人に幸福がくれば、別の人か、
多分あるけものに不幸がきます。人間の数はふえつつ
あり、あるけものはへりつつあります。われわれは彼
らをころし、その土地をとりあげているのです。彼ら
から生活の資を全部うばいとっているのです。それな
のにどうして、幸福がふえているなどと言えましょう。
つよい人種はよわい人種をくいつくしますが、みなさ
んは、それでつよい人種はたいそう幸福だろう、と思
いますか。いいえ、彼らはたがいをころしはじめるで
しよう。現実の根拠に立って私はこの世界が天国にな
るなどとはみとめません。事実がそれを否定していま
す。理論的根拠に立っても、それはあり得ないとわか
ります。



 
完成はつねに無限です。われわれはすでにこの無限
なるものなのです。そしてその無限性をあらわそうと
つとめています。みなさんと私、そしてすべての生き
ものは、それをあらわそうとつとめています。そこま
ではよろしい。しかしこの事実から、あるドイツの哲
学者たちは奇妙な学説をときはじめました ー この表
現はしだいにたかくなり、ついにわれわれは完全な表
現に達するだろう、われわれは完全な生きものになる
だろう、と言うのです。完全な表現とはどんなものな
のでしょうか。完全は無限ということです。そして表
現は限定を意味します。ですからそれは、われわれは
無限の限定されたものであろう、ということで、これ
は自己矛盾です。こんな学説は、子供はよろこぶでしょ
う。しかしそれは、うそで彼らの心を毒します。そし
て宗教のためには非常にわるいのです。しかしわれわ
れは、この世界は一つの堕落である、人は神の堕落し
たものである、ということを、そしてアダムは墜落し
たのである、ということを知っています。今日、人間
は一つの堕落である、ということをおしえない宗教は
ありません。われわれはけものにまでおとされてし
まったので、いま、この束縛を脱すべく、のぼろうと
しているところなのです。しかし決して、ここで完全
に無限なるものをあらわすことはできますまい。われ
われは奮闘努力するでしょう。しかし、われわれは感
覚にしばられているのですから、ここで完全になるこ
とは不可能だ、と知るときがきます。そのときに、無
限という原始の状態にもどれ、という信号がなりひび
くのです。


 これが放棄です。やってきた進路を逆にとって、こ
の困難を脱しなければならないでしょう。そのとき
に、徳性と慈悲心とが生まれるでしょう。すべての倫
理上のおきての標語は何ですか。「私ではない、あな
た」 です。そしてこの「私」 は、外界にそれ自身をあ
らわそうとつとめている、背後の無限者から出たもの
です。この小さな 「私」 は結果であって、それはしり
ぞいてそれの本性である無限者とひとつにならなけれ      ばなりません。みなさんが、「私ではない、わが兄弟よ、
あなただ」 とおっしゃるたびに、みなさんはしりぞこ
うとしておられ、「私だ、あなたではない」とおっしゃ
るたびに、感覚の世界を通して無限者をあらわそうと
する、まちがった手段をとろうとしておられるのです。

それは世の中にあらそいと不幸をもたらしますが、し
かししばらくののちにはかならず、放棄がきます。永
遠の放棄がきます。小さな 「私」 は死んで、行ってし
まいます。なぜ、この小さな人生をそんなに気にかけ
るのですか。この世またはどこか別のところで生きて
この人生をたのしもうという、これらすべてのむなし
い願望は、死をもたらします。
 

もしわれわれがけものから進化したのであるなら、
けものたちも、下落した人間であるかもしれません。
そうではない、ということを、みなさんはどうして知
りますか。みなさんは、進化論の証拠は要するにつぎ
の通りだ、ということを見ていらっしゃいます最
下級から最高級にいたるまで徐々に段階的にのぼって
行く、一連の身体の系列があるのです。しかしそれか
ら、みなさんはどうして、それはひくい方からたかい
方にのぼるだけであって、決してたかい方からひくい
方には下らない、と主張することがおできになるので
すか。この論証は両方にあてはまり、もしほんとうの
ことがあるとすれば、この一連の現象はのぼったりく
だったり、それみずからをくりかえしている、という
ことだと私は信じます。われわれがもっと高い生活に
むかって苦闘しているということは、われわれが高い
状態から下落したのだということを示しています。そ
れはそうにちがいありません。こまかい点だけはさま
ざまにことなるでしょうけれど。私はつねに、キリス
ト、ブッダ、およびヴェーダーンタが一様に説いてい
るこの思想にしがみついています−−われわれすべて
がやがてはかならず完成にいたる。しかし、それへの
唯一のみちは、この不完全をすてることだ、というの
です。この世界は何ものでもありはしません。せいぜ
い、見るもおそろしい漫画、実在のただの影なのです。
われわれは実在に行かなければなりません。放棄が、
われわれをそれにつれて行くでしょう。放棄はまさに、
われわれの真の生活の根底なのです。われわれがたの
しむ善徳と真実の生活の各瞬間は、われわれが自分の
ことを考えていないときです。この小さな、別々の自
己は死ななければなりません。そのときに、われわれ
は自分がほんものの中にいることを知るでしょう。そ
してそのはんもの(実在)が神です。そして彼がわれ
われの本性であり、彼はつねにわれわれのうちにあり、
われわれとともにあられるのです。
われわれは彼の中
に生き、彼の中に立ちましょう。それが、存在のたっ
た一つのよろこぼしい状態です。霊の段階に生きるこ
とが、たった一つの生きるみちなのです。われわれは
みな、この悟りに達するよう、つとめようではありま
せんか。















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