夢と現実



以下の事が脳裏をかすめた


私達、人類が見ているのは、それは現実ではない。


・・・夢だ。決して醒めない脳内の夢である。


それは夜、眠ってみている夢と同じ、夢なのであって私達が知覚している現実とは現実ではなく

条件付けられている脳が、脳の細胞が,知覚し、認識している脳内の仮想現実であろう。


この脳が知覚しているのは脳の仮想現実であり、私自身が、その脳の働きである記憶の反応である

限りは決して、この「私・記憶の反応」には現実を知ることも無く、現実には遭遇しないことだろう。


私が脱落しない限りは現実を知ることは無いだろう。


私達とは記憶の反応であり、その記憶が反応し築き上げたのが、この今の文明なのではないか。



私達は自分が見ていると、また考えていると、また行為していると、思っているのかも知れないが

それは「条件付けられている脳」の結果である記憶が知覚し、認識し、感じ、思い、行為していて

いるのであって、この社会、この文明はその記憶の反応が築づきあげている社会であり

それを見て、知覚している実体とは=即ちこの私とは記憶の反応なのである。


しかしこの私という記憶は「たましいと繋がる私」ではない。「たましいと繋がっている私」を覆い包んでいる

のがこの記憶なのである。

いかに記憶と同一化してしまい、記憶が思うように思い、記憶が行うように行ってはいても

そして、未だに目が醒めてはいないとはいえども、「たましいと繋がる私」はここにいる。


また、記憶がこの魂と繋がる私(人類全体・私達人間)の顕在意識と潜在意識を占有していても

この記憶(記憶という私)は私ではない。


しかしこの「魂の私を覆っている記憶」の責任は魂と繋がる私にあるという


それは「たましいと繋がる私」が「肉体・脳」と繋がり脳内の仮想現実を見て、そしてそれに「反応して生じたのが

この記憶」であると云われているからである。


記憶は「魂と繋がる私」が生み出したのであると。

それゆえ記憶とは魂と繋がる私から離れないのであると。

その記憶のことをインナーチャイルドと言っている流派もある。


この魂と繋がっている私は記憶に覆われているが故に、恩寵により記憶が脱落しなければ意識化しない。




記憶が考えるあらゆる事、記憶が思うすべての思考、記憶が行う行為・行動は脳が生み出した

仮想現実である。


私達のこの世界・・苦しみ悲しみ戦争が絶えないこの世界は、記憶の見ている世界、記憶が生

み出した世界であり、またこの世界を見て苦しんでいる私とは記憶なのであろう。

記憶が現実の世界のうえに自分である記憶を投射して、自分に絶望し、世界に絶望し、そこから

脱出しようと願っている。



この記憶の反応・思考には現実を知ることは決して出来ない、それは脳の結果である記憶に

過ぎないからである。


記憶の反応が見ている世界とは脳が築きあげた世界、脳が見ている世界であり、それは現実の

世界ではない。

山や川や犬や猫という現実の万物の上に覆い被さって見られている仮想世界なのである。


現実とは、花や草や山々や大地や青空のように今ここに在るのであるけれども私達記憶の

反応では、現実を知ることは決してないことだろう。


この私・・それは脳の結果である記憶の反応であるからだ。




実際に脳を動かし、心臓を動かし、息をして呼吸しておられるのは大生命であり、思考も行為も、

その大生命があるからこそ、この脳内仮想現実も存在していることが出来るのである。




この記憶である私達自身は、実は私達自身がその脳の結果である記憶にすぎないこと

を理解していない。



そしてその脳の結果である記憶の反応が思考であり、思考が、社会を築き、教育を行い

「私は真理を知ることが出来る」「私は神と一体になることが出来る」「私は悟るのだ」と

そのように錯覚している。・・・それは脳の結果の記憶の反応に過ぎないのに・・・。



実際には、今ここに大生命が、大生命だけが在られて、生きておられることを決して

記憶は理解しない・・・・それはこうしてこれを書いている久保栄治も記憶であり然りである。



この記憶である思考は意識と呼べるようなものではない。山や川や虫や草や生き物は思考ではない。

万物を生かし、万物であるのは思考ではなく、記憶の反応ではない。いのちである。いのちは記憶ではない。

草や木や山や川や昆虫やわたしやあなたとや万物とは記憶には決して知ることの出来ない神聖

なる生命の表れである。


どんな生き物も、万物もこの高次のものであり、大生命自身の表れである。

この肉体も、この脳も、脳の結果である記憶も、私も大生命の表れなのである。

私やあなたとは大生命の表れなのである。



しかし、この記憶が言うのである。

「私が生きている」、「私が考えている」、「私が行為している」、「私の人生である」、「私の肉体だ」

「私の思考だ」、「私の意識だ」、「私は知ることが出来る」、「私が知ることの出来ないものなどない」

「私が理解しない神秘など、この世界には存在しない」、「科学が解明できないものなど何もない」

「この私は私のもの」、「感情は私の感情だ」、「記憶は私の記憶だ」、「自我は私の自我だ」・・・と



しかしながら、それは脳の働きの結果である記憶がそう思い込んでいるだけであり

実際にここにあるものとは、この肉体であり、虫や犬や猫や山や川や万物という現実なのである。

犬や猫や草や椅子やテーブルや家具やテレビなどは現実であるけれども、それを知覚している

記憶の知覚、記憶の認識が現実ではないと言うことである。


山や川、肉体やあらゆる万物・・それらは現実であってけっして夢ではない。それは思考ではなく

思考には決して知られることは無い。



非現実という夢であるのは、このそれらを見ているこの記憶が生み出している私の方である。

記憶が見ているこの世界は非現実、実はこの世界は記憶が見ている仮想世界なのである。


この私とは脳の結果である記憶なのである。

その条件付けられている脳が知覚し、認識しているのが、「共通幻想」「共通幻覚」であり、

その夢の中で、私達は自分が行為し、自分が思考し存在していると思っている・・それがこの社会。



・・・実際には思考は起こっており、行為は起こっているのであるのに、それを逆に「私が思っている」

「私が考えている」「私が行為している」と信じて実感しているのは脳が生み出した記憶、脳の結果で

ある記憶に過ぎないことを、記憶は決して理解しない。・・・そしてこの記憶がこの久保栄治である。




現実に生きておられるのはこの眼球や、この手指をあらしめ、脳を使い、肉体を生かし動かしておられる

大生命であるのである。


私は存在していなかったのである。


・・・この事を思うとき、自然に生じるのが「生きておられる」「生かされている」

「有り難い」「ありがとうございます」「申し訳ない」「許して下さい」「愛しております」

という感謝なのではないだろうか。