身心脱落・脱落身心の鍵




この事柄は非常に重要で大変な努力を要する事柄なので
素人の私には到底思い及ばぬ事柄ではあるけれども
あえて、理論上で挑戦してみたい。


数多くの教えや正しいと思われる理論を統合してみると
ボンヤリと朧気ながらこの「身心脱落」について推測されてくることがある。


それは「私・自己という身心」が脱落した状態とは、大いなる歓喜であり、大
いなる平安、大安心、「慈愛」「慈悲」であるということであろうか。


では、何故身心脱落が重要であるかと云えば、それは大空である「脱落した
身心」が顕れるためであり、この「身心」という雲が取り払われて本来の光が
顕れて輝くためであろう。


では私が推測するその「身心脱落」のための鍵とはなんだろうか?

それは

「観察者は観察されるものである」ことを正しく見て理解する事であるよう
に思われる。


具体的には自己凝視であり、この不安と恐怖の自我である私自身、「肉体を
私だと実感している私」を観察しているところの「観察者」を言葉なく凝視する
事であろうか。


それはよく言われている様な高次の自己が自我を観察しているのではない。
もし高次の自己という「脱落した身心」であるなら、そこには見られている低
次の自我は存在しておらず、その脱落身心の目には愛と光と完全完璧しか
映っていないことであろうからである。
高次の自己が低次の自己を観察していると言うこと自体がマインドの嘘であ
り。巧妙な自我の自己欺瞞であり、思考の罠であることがハッキリと明かで
あると思う。

自己がないときそこには見られる自我はなく、内も外も神だけがあるのだから。


私を含まない目には映っている自己自我はおらず、従ってそこには見られる
対象はなく、主体と客体の合一した「見るものはみられるものである」という完
全なるあるがままの実相が顕現しているということなのかもしれない。


苦しみ、恐れ、不安に怯え、愛のない私を、優しく抱きしめ、じっと耳を傾け
愛情を注いで一緒に苦しんでいてあげているこの「私の観察者」、自己自我
の観察者、私をじっと見つめているこの観察者のことを言葉なく凝視するこ
とであろう。観察者を見るのである。


この苦しみ、恐れ、暴力的な私を抱きしめ、愛し、耳を傾けている私・観察者
とは、その私の観察の対象である観察されている私と異なっているのだろうか?

その私を観察している私と観察されている私とは本当に異なっているのだろうか?

自己を凝視している自己とはその凝視されている自己と異なっていないので
はないか?

異なっているように思っているものこそが無明というマインドなのではないか?

それはKが言うように「観察者は観察されるもの」なのではないのか?


このことは私のように単に理論で言っている場合と本当に理解した場合では
天と地の差が生じていることだろう


ほんとうにその理解が起こっているときには、自己の観察者はおらず、従って
その見られている私もおらず、本来のあるがままが正見されていることだろう。


そこには観察者と観察される者の分離がない状態、私・自己がいない「大い
なる静けさ」「喜び・歓喜」「慈愛」それら聖なる未知なる状態が出現していると
いわれている。


即ち自己が脱落して大空が顕れたのである。
それは私が為したのではなくて彼岸から起こりやってこられたのである。


ここから先の実相、歓喜又はあるがままについては私は述べることが出来ない。

体験していないし、そもそも体験という体験者を含む体験などそこにはないこ
とだろうし、記憶という記憶者を含む思考は存在していない事であろうからである。


見る者、観察者、即ち自己を見ている観察者が脱落したのである。

身心が脱落したのである。

そしてそこには無限に拡がっている本来の脱落した身心が顕れているのであろう。

この「身心」という雲が取り払われて大空が出現するためには、私達は自己を優
しく抱きしめているところの「自己の観察者」を凝視しなければそれはやってこないの
だろう。