思考は神の演技なのだろうか。
思考とは自我ではないだろうか?だから神の演技とは自我のことである。
自我は即ち思考のこと。自我は神の演技なのだ。
だから思考とは自他を分離する「我の心」のこと。
この自我「我の心」とは根本無明即ちアーリマン、神の演技、神聖なるマーヤ。
それは私達が誤って同一化しているこの「自他が分離していると錯覚する心」
なのではないか。・・しかし「霊魂と繋がる私」の私達はまだ目覚めていない、
眠ったままだ。
アーリマンとは即ち根本無明「自他分離の心」なのではないか。
・・人類の全ての人はそれによって支配されている。
・・光を知るには闇が必要なのか。
その全ての人類を等しく支配しているアーリマン「自他の分離の我の心」が
私達神の子である透明なる鏡を覆い隠し混濁させ、脳を支配し、思考し、呼吸を
コントロールし、行為し「自分と相手は一つではないと錯覚」しているという。
私達の呼吸は我の心に支配されてしまっているのだろう。
この全人類の人間を支配しているアーリマン「我の心」が起こす受動思考・行為に
よって私達である透明なる鏡は鏡ではなくなってしまっていると。
私達である鏡は混濁してしまったのではないだろうか。
「我の心に覆われてしまった鏡」。「自他を分離して見るようになってしまった鏡」。
そして私達神の子は、「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」、
「見るものは見られるものである」、「観察者は観察されるものである」、
「主体は客体である」等々を理解することも知覚することも出来なくなってしまった。
私達は神の演技である肉体ではなく、思考でもなく、記憶でもなく行為でもない鏡なの
ではないか。
だが私達は人類全員全てを支配している「我の心」によってコントロールされている。
「我の心」を自分の心だと完璧に思い込んでしまっている。
私達は自他が分離していると知覚する「我の心」(根本無明)に支配されて