私は私・・ヒューレン博士/ホ・オポノポノ

2025/10/23(木)
私は私・・ヒューレン博士/ホ・オポノポノ

「私は私」等と言うと、一体何のことか・・私は私であるのが当たり前で
しょうに、今更何でそんなことを言うのかと訝しがられることでしょう。

しかし一口に私と言っても、どの私を指しているのかが分かりません。

肉体の事なのか?
しかしながら肉体は勿論私ではなく、私のものではありません。肉体
は神のもので神が生きておられるのです。

そしてこの私も私のものでもありません、

この私は私が創ったのではないからです。
私は神のものです。神が私を創ったのです。

では
脳が私なのか?脳も私も創られたものであり、脳は私が創ったのでは
なく私のものでもありません。脳も神のものです。

それでは「自分は私だ」と思っているこの表面意識の私とは?
この私とは記憶の反応であって、記憶の私と神の演技です。
この肉体の状態や脳の状態で色々と悩んでいる現在のパーソナリティー即ち
この記憶である私とはわたしではありません。
神が私として演技しているといわれているのです。
私とはエゴ自我であるので
その演技とは人類で共有している自我・エゴ・私という観念の記憶でありましょう。

記憶とは私の記憶ではなく記憶が私であり、
自我の私は記憶なのです、
私達が思っているのではなく記憶が思っているのです。
その記憶は鏡があるからこそ存在していられるのです。
そして記憶は鏡(未知なる私)である私ではありません。
しかし、ながら私は鏡であるのです。鏡が穢れ混濁しているのです。

この文章を書いている私も含めて人々は肉体を自分だと思い、脳が受信して
いる思考や感情や欲望や行為と、その記憶を私だと思っていますが
その様に思っているその私とは記憶の反応であって私ではありません!

本当の私は鏡なのです。

私とは未だに目は開いていないけれどもその記憶の私と一体化している
未発達な「魂と繋がる私」のことなのでありましょう。
この本当の私は私達が未だ私が知らない未知なる私、魂の私、
観照者の私なのでありましょう。

私とはこの記憶である私には未知なる私なのです。
私をこの私は知らないのです。私と言っている私は私ではないのです。

しかしその私ではない私を使って神が演じておられるのありましょう。


ホ・オポノポノの会場ではヒューレン博士に参加者が質問するとヒューレン博士は
その「質問している人は誰ですか?」と聞きただしていました。
「質問している貴方は貴方ではないのです。脳が受信している潜在意識の記憶が質問
しているのです。」
とよく言っていました。

ですから一口に私と言っても、その私が一体どの私を指すのか?
それが問題です。

此処で取り上げる「私は私」とは記憶の私ではありません。魂の私です。
私とはその私という観念の私ではありません。
魂の私とは神の演技ではなく演技をしている神のほうです。未知なる私の方です。
ですから如何に穢れ目が開いていなくても如何に堕落していても、奥には光り輝く
神の子の私がいるのです。


その私とは
肉体や脳や、思考体や感情体の事ではありません。それらは神の創造物です。
未知なる本当の私はそれら創造物ではなくて創造主の子供、神の一部なので
ありましょう。

脳を経由して「意識という透明な鏡」にやってくる思考や「私という観念」は
私ではありません、それは記憶です。「意識という透明な鏡」こそ私でありましょう。

肉体や脳を私だと思っている私は記憶であり、記憶の私は私ではありません。
脳を経由して起こっている感情や思考や欲望や行為や自我は私ではありません。
この心配し、恐れ、好色な私は私ではないのです。記憶の反応なのです。
愛の私が私なのです。私はこれを信じています。

またそれらの起こっている思考や行為を私の思考であり私が行為していると
思い込んでいる記憶という私も私ではありません。

本当の未知なる私はそれら私ではないものを私ではないと見ている観照者です。
それらの「虚偽を虚偽と見ているもの」それが私です。それを信じています。


地球人類が夢にも思わない高度の私、高次元の本当の私、地球人の誰も
が知らない自他に分離していない私、現在の私には知ることが出来ない
本当の私のことをヒューレン博士は「私は私」と言っています。

ではその私・・・私達には未知なる本当の私とは一体どんな私なのであ
りましょうか?

その「私は私」とはヒューレン博士がホ・オポノポノの集まりで必ず唱える言葉
でした。
それを英語で言えば聖書の「I AM THAT I AM」であります。

「私は私」とはこの私は一切万物の私であると言っているのです。
日本語で言えば神であり真我である「私は在る」の私即ち神であります。
仏教で言えば「一切万物悉有仏性」、
神道で言えば「私は貴方、私もあなたも天照大神の御分霊」であります。

これらを理解することは、その知覚段階でなければ全く分かりませんので
私には全く理解は出来ないのですがあえて頑張って推測してみました。

この「私は私」とは「I AM I」のことでありましょうから
ミルダッド達が示す究極の真実を示す言葉「私は私」と同じであります。

一切万物である神があらゆる次元やあらゆる意識や生命や質料、一切の私を
「それらの一切の私は私である」と神が仰っているのでありましょう。
ですから「私は私」と言っている私とは全てと一つの私なのです。

それは「神以外には何ものも存在していない」と仰っておられるのです。

宇宙全体の構成実体である素粒子、究極の量子が神であり、その神が「私は
私」、神が「一切の私とはこの私」である・・と言っておられるのでありま
しょう。

それはラーマクリシュナの「私とは神の演技である」と同じであります。
すべての人間や動物や植物や鉱物や物質の私という私は神の演技なのです。

私とはこのような究極の言葉であり「唱えなければならない言葉」の中身など
この愚かな私には分かりようがありませんが、あえて挑戦してみました。

ラーマクリシュナが言うように自他に分離したこの私とは神の演技なので
ありましょう・・

推測するに
本当は神以外には私はいないのです。全ての私は神なのです。私は神なのです。

それが「私は私」という究極の実相、究極の真実の理解なのでありましょう。
私もあなたも、そして一切万物は神であり、神の演技なのでありましょう。
一切万物の全て、その全ての私とは神なのです。

本当は全てが私であり、私とは万物なのです。私は一切の私であるのです。

それが「私は私」の真意であります。

「私は私」とは神が私として、貴方として、一切万物として生きてお
られるということであります。

それは外部だけではなく内部もおなじでありましょう。

神がこの「霊魂と繋がる私」として
神がこの自我の私として
神が脳として、肉体として、あらゆる意識をもつ霊的諸体として
神が脳の私として
神が脳の私を私だと思っている私として
神が脳の私を私だと思っている私のことを私だと思っている私として
神が他者の私として、
神が自分の内部の私として、
神が自分の内部の私を見ている観察者の私として
神が私の知覚対象の私である自我・恐怖・絶望の私として、
神が私の目の前の私を殺しにやって来た殺人者の私として、敵の私として、
神が想念形態や亡霊の私として、天使としての私として、悪魔としての私として
神が動物や植物や鉱物や建物や異次元の生き物や宇宙人の私として
神が一切万物の私として、
全ての私は私であると仰っているのです。
神がそれら全ての私を私は私であると仰っておられるのです。
ですからこの私も神の私なのです。

その神が一切の自分自身を「I AM THAT I AM」と
言っておられるわけです。

この究極の神の意識とは量子の意識に他なりません。
光も含めた一切は量子から成り立っています。
量子とは意識であり、あらゆる全ての意識は神に他なりません。
一切万物は命ある者も命なきものもすべては神の演技。
内部も、心も、自我も神の演技に他なりません。

けれども私達が言う私とは分離していると錯覚し知覚認識している私、
この愚かな私、愛のない私、自分の内部を対象として知覚し、目の
前の悪魔を自分ではないと錯覚している私、不安や恐怖やエゴ
を対象として見ている私、観察されている私、観察している私、
目の前の虫や動物や建物や椅子や食器を自分ではないと知覚し
ている私、自分が行為していると知覚しているところの記憶の私、
脳が知覚しているのに私が知覚していると思い込んでいる私、
一切の形ある者や形ないもの、この次元や他の次元の私、
それら全てのわたしさえも、「その私は私である」と言ってお
られるのです。

それらの私とは対象として内部に見られている私、それを見ている私、
記憶の私、肉体の私、生命が生きているのに自分が生きていると思
い込んでいる私、私が恐怖を見ているのではなくて、恐怖を見ている
自分が恐怖なのに、恐怖に恐怖している恐怖の私。
観察者は観察される者であるのに、自分が観察していると観察者の
私に気が付いていない私、記憶の私、集合意識の私などなどの私。

・・・それらの各段階各次元の一切の私を
私であると究極の神、一切万物である神がこの私として
「私は私」と唱えているのでありましょうか。

それがホ・オポノポノ(現在は安売りのスーパーになっています)
が語る「私は私」の意味なのではないかと推測しています。

ミルダッドは
貴方は神の子で在り「私は私」と唱えなさい!と言われます。

「私は私」私達も一緒に唱えようではありませんか!!

「私は私」と。