思考なく見るためのプロセス

2025/10/15(水)
クリシュナムルティーは言う
「思考なく見なさい、私なく見なさい、
あるがままをあるがままに見なさい」。

ではその様に見るためのプロセスはあるのだろうか?
それは、思考である私(自他を分離して見ている私)
にはそこへ至る道はない。思考である私(自他を分離し
て見ている私)にはそもそも「思考なく見ること」は
出来ないからだ。

しかしそのあるがままを見なさいと言われているわたし
にはある。即ち「霊魂と繋がる私」にはプロセスがある。
可能性がある。


「思考なく、私なくあるがままを見なさい」ということは
そう言われている私とは思考や私に覆われて支配されてしまっているので
あるけれども、その為、思考なく、私なく見ることは困難を極めている
のだが可能性はあるということ。
可能性のある私の現在の状況はと言えば、この私にとっては
思うことも、感じる事も、計画することも、話すことも全ては
思考によって汚染され、この状況から脱出することは自己観察と自己
想起そしてその為の超努力が必要となるのだ

「私なく見なさい」とクリシュナムルティーからそう言われていても
私を覆い包んでいる「思考や私」が除去されない限りは思考なく見ることは
不可能なのである。
(ここでクリシュナムルティーに「思考なく見なさい」と言われている私と
は「霊魂と繋がる私」のことであって、この「霊魂と繋がる私」を覆い隠し
ている記憶の私の事ではない)

恩寵によって「思考や私」が除去されない限りは「思考なく・私なくあるが
ままを見なさい」とは出来ないのだ。(あるがままとは自と他は分離していない
一体であると言うことだ)

そのクリシュナムルティーのいう「見る」とは
思考や私が取り除かれ祓われたときに初めて出現する「見」である。それは
仏教的に言えば高次元の仏の目が開かれ、出現しなければその「見ること」は
実現しないと言うことである。

その思考なく私なく見ることが可能なのは
この現在の思考である私が取り払われなければならないことであるが、
その思考の私を取り払うことは
取り払おうとしている者が思考の私であるから
それは思考である私には出来ない。

そこで私(「霊魂と繋がる私」)は私から私(記憶の私)を取り払って
下さるように、未知なる私・その至高なる存在に必死にお願いし帰依
する必要が有る。

私が記憶の私から解放されるように至高なる存在に「清め給え」
「払い給え」と必死で祈願し、全てを捧げて帰依しなければならない。

しかしその前に、
お願い出来る段階にまで達していなければならない。お願い出来る段階
というのは、自分が完全に罪穢れという自他の分離に覆われ染まってし
まっている現実を認識していなければならない。
私が思うこと、感じる事、行うこと、願うことの全ては私ではなくて
私を支配している私(自他を分離しているとみているエゴ我の心)なのだ。

なので至高なる存在に私の浄化(クリーニング)をお願いする前に
「魂と繋がる私」がこの思考と私によって塞がれてしまっている
ことを先ず始めに自覚できる段階にまで到達していなければならない。

私達「霊魂と繋がる私」の知覚と認識は脳と結合しているために
全く自由ではないことを先ず始めに深く知らなければならない。
私達は知覚も認識も行為も全てが自他の分離という錯覚に支配されているのだ。

この事をハッキリと認識する為には思考による自己観察が絶対に必要である。
即ち自我による自我の凝視である。

「見るものは見られるものである」を深く認識しなければならない。
「観察者は観察される者である」を深く認識しなければならない。
「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」を深く認識しなけれ
ばならない。
そして次のステップへと進む事が出来る。

それは思考には思考なく見ることは出来ないと言うこと、
この私には私なく見ることは出来ないと言うことを認識する段階である。
何故ならこの思考なく見ようとしている私こそが祓われるべき私
であるからだ。(この場合の私とは記憶である)

これを神道的に言えば
私達神の子がこの記憶によって罪穢れていることをしっかりと自覚して
天照大御神にお願いすることだ。

天照大御祖神に「払い給え」「清め給え」「幸はえ給え」と誓願すること
が出来る段階に至らねばならないのである。
そしてその請願、大祈願それが絶対的に必要であり、それの実践がなけ
ればならない。
その天照大御祖の神(これは各宗教によって表現が異なる)への全託こそが
クリシュナムルティーの思考なく・私なく見るための必要絶対条件となる。


またこれをヒューレン博士的に言えば
①私達の表面意識は潜在意識にある「記憶(自他の分離)」に占領され
 真実(自他は分離していない)を見ることが出来なくなっており、
 私達は完全にその「記憶」にコントロールされていて、
 その「記憶」(私という観念・自他の分離)から解放されるためには

②この「魂と繋がる私」という表面意識の奥にある潜在意識から私達
 「霊魂と繋がる私」の本体である超意識「霊魂」に対して潜在意識に
 あるこの記憶からの解放(払え給え・清め給え・幸這え給え」を
 「神聖なる存在」にお願いするように祈願し全託し

③更にこの表面意識と潜在意識という私達「霊魂と繋がる私」の願いを
 私達の本体である霊魂から
 超意識を超えた「神聖なる存在」に伝えて下さるようにお願いし

④この神聖なる存在が私達の願いを叶えて下さり(恩寵が天下って)
 この潜在意識にある「記憶」を払い浄めて下さり(自他の分離から
 解放されて)

⑤結果、私達「霊魂と繋がる私」は潜在意識を占領していた私と思考から
 解放され、クリシュナムルティーの言うような「思考なく私なく
 あるがまま(自他は分離していない)をあるがままに見ること」が出来る。

と教えて下さっています。