あなたは自分が完全に存在していない瞬間に自分自身を見つけるでしょう・・ジャン・クライン

2025/07/19(土)


あなたは自分が完全に存在していない瞬間に

自分自身を見つけるでしょう。

・・ジャン・クライン


その為には、自分自身のことを純粋に映画を見ているように
客観的に見ていることが出来ている段階に達している必要が有るのだと思われます。

この自己観察に熟練し深い意味で実践した結果
はじめて
行為者はいない行為が起こっているだけだ
思考者はいない思考が起こっているだけだ
・・・と言えるように
成るのではありませんか?

しかしながら、これは非常に大変です、非常に難しいです。
これを書いている私も到底その境地には至っていません。

自分が癌にかかってしまい、苦痛で七転八倒しているとき。
自分の所有してるお金が段々少なくなり路頭に迷いそうになってしまったとき
仕事が上手くいかず収入がなくなり生活に困ってしまいそうになったとき
搭乗していた飛行機がエンジントラブルに陥り飛行不能になったとき
一人でベットで寝ているときにふと目を醒ますと幽霊が足元に立っているとき
・・・
こういう不安と恐怖にかき乱されているときに自分が自分自身のことを客観的に
あたかも映画を見ているように見ることが出来るでしょうか?

他人の人のことならともかく、自分の色眼鏡を通して観察することは出来ても
自分自身のことを映画を見ているように客観的に自己観察するともなると、
平常時は何とか出来ていても、こういう事態が発生しているときには
非常に難しくなります。

ですから「私は自分を見ている」「私は自己観察しています」などと
・・・頭だけの理論や口先だけで軽々しくいうことはできません。

けれども
こういうときこそ自己観察が出来ているのか出来ていないのかが試される
素晴らしいチャンスなのでありましょう。

言葉を記憶しているだけで高度な「自己観察」の教えを理解していると思い込んでしまい
「自分は知っている」と思い込んでいる単純で幼稚な人・・
自分の内面を客観的に見ることの出来ていないのに「自分は自己観察している」と
思ってしまっている人・・

このような私のような求道の初心者が
理解できていないのに理解していると思い込んでいるだけだというのに?
「行為は起こっている」「思考は起こっている」などと言うことが出来るのでしょうか?


ですから、「自己観察している」とこれを言うことが出来るためには
何時如何なる時にも自分自身を冷静に客観的に見ることが出来ている段階になって
いなければ「自己観察している」ということは無理です。

これを逆に言えば
自己観察が出来る人は
ジャンクラインが言うように
先ず始めに
自分が完全に存在していない・・この状態に・・このレベルにいる必要が有ります

この深い意味での「自己忘却」「無我」レベルにいてかなり自分のエゴが薄まっていないと
エゴに振り回されてしまい自己観察など出来るわけがありません。

ですから、かなり熟練した自己観察のプロ・達人でない限りは
「行為者はいない行為は起こっているだけだ」
「思考者はいない思考が起こっているだけだ」などと言うことは
全く到底出来ませんし、それを理解することは出来ないのです。

そういう人は口先で鸚鵡のように、AIのように喋っているだけです。

幼稚な段階にいるアドヴァイタの求道者達は
教えられた言葉をAIが暗記して話すように偉そうに分かったように話しています。
また、幼児が意味が分からないのに鸚鵡のように言葉だけを繰り返して話すように
全く理解していないのに自分は自己観察していると思い込んでいます。

逆に言えば
「行為者はいない行為は起こっているだけだ」
「思考者はいない思考が起こっているだけだ」を本当に理解し
それをそう言うことが出来るのは

厳しい自己観察の修行を通じて自分を客観的に見つめる徹底したワーク
を実践した達人の場合だけなのです。

そして
この自分を鏡から見るように
客観的に見ることの修行を通じて
徐々に自己観察がスタートし
そして
行為している自分、思考している自分を
完璧に
あたかも顕微鏡で微生物の動きを見ているように見ることが出来るように成ったとき

行為は起こっている
思考は起こっている
私は起こっている・・・と言えるように成るのではないでしょうか。

そしてその結果、このジャン・クラインの言うような
「あなたは自分が完全に存在していない瞬間に自分自身を見つけるでしょう」

・・という無我という自己発見に至るのかも知れません。