人の心を成長させよ・黒住宗忠師

2025/07/11(金)
天照大神は黒住宗忠師を通じて「人の心とは天照大神の御分霊であり、我の
心ではない、だから天の心を育てなさい」と教えておられます。

(注:天照大神とは固有名詞ではなく、大生命、根源、サムシンググレート
のこと)

ここで重要なのは

私達は神の子であるのだが、この「我の心」によって混濁している。
ということであります。
がしかし
人の心はいかに穢され、また、自分は自我で、自分は肉体であり、
自分は自他に分離している(私はあなたではない)と錯覚していても
私達「人の心」は天照大神の御分霊,「意識の座」、鏡であって、決して「我
の心・自己」や「自他に分離した私」ではないのだ。
・・・と言うことであります。

私達は脳ではなく、意識の座(セルフエピグノーシス)であるのだが、
脳と結合したので、その条件付けられコントロールされている脳に起
こっている思考や自由意志、感情や想念、知覚を自分自身だと錯覚し
てしまっています。脳の知覚を自分の知覚と錯覚し、脳に起こっている
思考を自分の思考と勘違いしているのです。

実際、私達は脳と結合している「空の意識」即ち意識の座、鏡(セルフエピ
グノーシス)であるのだが、
同時に
腹部付近に位置している潜在意識とも繋がっているのでエレメンタル人格
群の思考や感情に極度の影響を受けており

私達自身である意識からの能動思考、意識照射、意識拡張等々の
本来の意識を使う事が殆どありません。
まして私達である意識の大本の霊魂(ハイヤーセルフ)の意識を
知覚認識することなど全くなく、未熟で幼稚な私達であるセルフ
エピグノーシスは
自分が能動思考を使役できる意識であり脳や記憶からの受動思考
ではないことを全く理解出来ません。

私が私だと知覚しているこの私とは私ではなく、記憶であり、この記憶の
私が知らない私こそが私である・・と教えられています。

しかし、よく考えてみれば分かるのですが脳や潜在意識からの
憎しみや不安や恐怖や疑心暗鬼が沸いてきても、その沸いてくることが
できるのも「座」「鏡」があればこそであり、私達とは実は沸いてきている
思考や感情や欲望ではなくて、それらがわいてくることを可能にしている
この「意識の座」「意識の場」「鏡」であるのであります。
私達は「意識の座」「鏡」です。
私達は鏡であり、意識の座であり、その鏡に映る記憶の思考や感情を私と
勘違いしていると言うことなのであります。


黒住宗忠師は『あなた方人間は、「私・自己・受動思考」ではなく、天照大
神の御分霊であり、神の子です』と言っておられるのであります。

私達は如何様にも「私」「我の心」「受動思考」によって汚れ穢され混濁し堕
落していても、
私達は能動思考や高次思考を使うことが出来る天照大神の御分霊、神の子、
真理の種子であると言っておられるのであります。
(※キリスト教の人は私達は皆、神キリストの子であり、仏教の人は仏陀
の子であるということ

私達はこの肉体や記憶の蓄積の私ではなくて神の子なのだというのです!!
なんという有り難い教えでありましょうか!

私達は自他に分離しておらず、空間や時間で分離していないと言うのです。

私達は個人ではなく、人類で一体であり、万物と分離していないと言うので
あります。何故なら私達は肉体ではなく、脳からの記憶でもない、意識だ
から・・です。

私達は思考ではなく意識であり、空間であり、空であり、量子のように非
局在性であり、遍満しているのだというのであります!!


私達は神の子であり、天照大神の御分霊であって決して条件付けられている
脳の記憶の反応という「我の心」や「私」即ち個人や人格の私ではないと仰
っているのであります。

それは、私は神の子であって、この朝目覚め、仕事をし、思考し、夢を見て、
熟睡している私、「自分を肉体だと思っている私」ではない。私は神のロボ
ットの私ではないと言うのであります。だから「私は私ではない」と言うこと
なのであります。

もっとハッキリと言うと私達は皆が神の子であり天照大神の御分霊であり、
私は「自他に分離しているこの私ではない」、即ち「自他に分離して知覚認
識しているこの私とは私ではない」、この私は私ではない私だ、即ち「私は
自分が私だと錯覚している記憶」ではないのだ。と言うことであります。

だから私は他人の心が知覚できない「我の心」や人格・個人なのではない。
「我は汝」であり、真の私はあなたなのだ・・と言っているのです。


私達とは、その「自他に分離した心や我の心」によって混濁してしまったが
「人の心即ち天照大神の御分霊」であり、だから自身を浄めそして育てな
さい。・・と仰っているのであります。

この自分を浄め、そして育てることが「天の心」即ち「高次霊的諸体」を育て
ることです・・と仰っているのでありましょう。

黒住宗忠師を通じて天照大神が語ったこととは
私達は真我を実現するのではなくて、既に私達は真我であり、天照大神の御
分霊、神の子であるということなのだが、厚く深く「我の心」によって、
包まれ覆われているということなのであります。

私達は我の心を映し出している鏡であり。「意識の座」であって、その鏡に去
来している思考や感情や行為や自我ではありませんと仰っておられるのです。

如何に穢れて「我の心」「私の心」と一体化して自我に塗れていても、私達は
全員が神の子であり、一つだと言うのです。

私達は既に神の子であるからこそ
この我の心と一体化し、汚されている自分を浄めなさいというのであります。

「自分自身を知りなさい」
「神の子である自分自身を知りなさい」
「あなたは肉体ではなく、脳でもなく、脳が受信している思考でもなく、そ
の脳が受信した思考の記憶でもその記憶の反応でもありません」と、
「あなたは我の心ではなく、自他に分離した私ではなく、天照大神の御分霊
なのです」と。だからあなたは意識として能動思考を使うことが出来るし、
さらに
未知なる真の私であるハイヤーセルフとも繋がることが出来るのだと言わ
れているのであります。


この私自分自身に対してのアプローチは従来の教えとは少々異なっています。

この黒住宗忠師がいう「人」とは「私とは天照大神の御分霊」である!!
という大現実から発していて、

「私とは肉体であり、肉体の脳が私達だ、そしてその脳の記憶が私達なのだ」・という錯覚、・・・それは人類の根本の無明・神聖なるマーヤ。

「私とは自他に分離している個人」だという「条件付けられた脳からの思考
の記憶」が齎しているこの常識的自己認識や、今までの地球人類が私自身に対
する「私」自己感覚、自己認識を完全に否定する「人類が知ることの無かっ
た真実」なのであります。

この教えは
「私とは自他に分離している我の心ではなく、如何に穢され、肉体や思考や
脳と一体化していても眠れる神の子なのだ」と言う厳然たる事実から出発し
ていて、従来の「私の自己否定」から入る教えとは「私」の捉え方の方法論
が、全く違い、より強烈で、より肯定的な教えであると言えます。
しかしながら一歩間違えれば、安易で軽率な生き方にも成るのです。

この黒住宗忠師の教えは
「この私とはわたしではない」「私とは思考ではない」という前提から出発し
ているので
他の宗教や教えや哲学に比較してより肯定的でかつ強力な方法でもあり
より高次で、より効果的なやり方だと思われます。


条件付けられた脳が受取った(受信した)受動思考、その記憶の反応とは
「人の心」ではない、「我の心」であって私の心ではないのですと。
人々の通常の意識状態とはこの「我の心」による催眠状態であり、
その催眠状態の思考がこの世界と社会を作り上げています。

私達人間の「人の心」は即、天照大神の御分霊でありますが
その天照大神の御分霊である人の心は我の心によって混濁しているで
その「我の心」を払い浄めることで「天の心」(高次霊的諸体)を育てなさ
と仰っておられるのであります。

「我の心」から解放され、浄められることによって
私達・人の心は徐々に「天の心」を育てていくのである・・・と言われてい
のではないでしょうか。

勿論、その私達が育てる「天の心」とは、未知ではあるが既に在る超意識。
宇宙に広がり時空を超えた意識、即ち超普遍的意識であり
エレブナではそれを高次元諸体、宇宙まで拡がっている高次ノエティカル体
・高次ノエティック体と言っています。

私達神の子が我の心ではないことを、ハイヤーセルフの助けによってハッキ
リと腹落ちし、この我の心が祓われ、清まり、そして自他の分離という幻想
取り払われ、本来の天の心(宇宙に拡がる高次ノエティック体)が形成さ
れ知覚されたとき
私達人類は宇宙の仲間入りを遂げることでありましょう。

見ているものは思考である。
見ているものは思考であることに気がつくことが気づき(意識)である。

心は心を癒やすことは出来ない・・ということに気がついているのは
気づきである。

気づきは「心では心を癒やすことが出来ない」事を気づいている。
その気づきこそ意識だ。