私の特徴

2025/07/05(土)
わたしとは?


私とは何か?

先ず始めに
誰もが私の事を「自分は私を知っていますよ・・それは当たり前でしょ
う」と言うことだろう。

しかし
その「私は自分を知っている」といっている私とは誰なのであろうか?
また私が知っている私とは何なのであろうか?
私を私と思っているこの私とは誰か?
これらの私に意識の光を、言葉無しに意識の焦点を静かにあててみよう。

通常の普通の人生では私達は「脳内に去来している思考や感情」を
私と認識して私が思考し私が感じているということは誰もが疑うことはない
のでいるのだが・・

その脳に去来している思考や感情。それは恐怖やエゴのことだがそれは私なのであろうか?
脳に去来している不安や欲望やその不安や欲望を見ている私、利益誘導を図る私
不安や恐怖に戦いている私
・・その私は私なのであろうか?
・・私とは一体誰なのであろうか?
・・私とは何か?

私とは何か?を考えているこの私は私を知らない私であることだろう。
私を知らないからこそ
私とは何か(誰か)を追求しているのであって
もし、私とは誰かを知っていたのなら私は私を知ろうとはしないであろうから。

私達の人生では、当たり前すぎて「私とは何か?」と自分を熟視することなど
全くないので、「私とは何か?」などと言うと、頭がおかしくないか?などと思わ
れてしまうことだろう。

しかしながら深掘りするならば「この私は自分・私を知らない」のだ。

ならば、この「私を知らないこの私」は私を知らないのであるから
私が知っている私に対しては「私ではない」と言えるのではないだろうか。
逆説的に言えばそうなるのだ。
私は私ではないということになってしまう。
私が知っている私とは「私ではない」と言えることだろう。
わたしが知っているこの「既知なる私」は私ではないのだ。
私は私ではないのだ。

私は肉体そのものではない。
この宇宙最大の叡智の結晶・神の宮・肉体は私のものでも、私が
創ったのでもないからだ。
けれども
私達は私が呼吸しているのでもないのに、自分が呼吸していると思っている。
この至高の叡智の肉体は私のもの、私の肉体だと私は錯覚している。

全ての人間は「私が思っている」「私が思考しいている」と思っている。

動物や命ある者もすべてが肉体を自分のものだと思っている。思考感情を自分のものと思っている。
脳は自分のものであり自分が思考しているのだと・・
しかし実際には逆なのではないのか
脳から思考が起こっていて、その思考が私だと言っているのではないか?
だから私とは私ではない脳やその脳が起こしている思考であり、この私は単なる脳の記憶の反応
なのではないのかと・・・

だから現実は生きて呼吸をして思考して、私として生きておられるのは、34兆の細胞を一瞬
の狂いもなく生かしておられる創造主、神である。

わたしは刺されたら痛いし、病気になったら苦しい、この肉体の感覚を自分自身から
切り離せないのは、「霊魂と繋がる私」は脳と結合しているので、脳は思考でもって「自分は肉体だ」
とそう思い知覚するように条件付けられているのだ。そして「霊魂と繋がる私」はその記憶と完全に
同化しているのだ。

私達において私・自分として活動しているのは、それは脳が受信した思考の記憶という
情報場=「私という観念」だといわれている。

私には2種類ある
「霊魂と繋がる私」と、そして脳が起こしている受信した思考、感情、行為の記憶だ。

クリシュナムルティーは「私を知らない私」は私を詐称するその思考を観察しなさいと
教えている・・思考を観察することで思考からの解放システムが作動するというのである。

・・それが自己観察だ。・・しかしこれは至難のワークなのだ。

クリシュナムルティーは常にその思考の記憶の反応である自己を観察しなさいと言
うのだが・・
しかしそれを実際行うことは脳の条件付けが解除されない限りはそれは難しいことだろう。

寝静まった夜中にいきなり家の中に包丁を持った強盗が入ってきたり、
麻酔なしで、脳や心臓や内臓の手術されて気を失いそうになっているとき、
飛行に乗っていていきなりエンジンから火が噴き出しパニックになっているとき、
大勢の人の目の前で罵倒されたり、自分だけ無視されたり、誰からも愛されないとき
自分は何もしていないのに犯人としてテレビや新聞に自分が虚偽報道されたとき
目の前にいきなりコブラが這いずり回っているとき
家のドアがいきなり開き恐ろしい悪魔が目の前に襲いかかってきたとき・・
このような状況下で
私達はこの自分をクリシュナムルティーの言うように自己観察ができるのであろうか?
わたしにはとてもではない。
自己観察は出来ない。
その状況に巻き込まれてしまうことだろう。
恐怖でパニックになっているわたしはそのパニックの私の事を自己観察することは不可能だろう。

それは何故自己観察が出来ないのか?
それは自己観察する目が成長していないからだ。
私の知覚が形成済みの霊的諸体ではなくて肉体の脳にある以上は自己観察は不可能である。
自分の主体感覚(セルフエピグノーシス)が肉体脳ではなくて目覚めた霊的諸体にあれば
それは可能だろう。

・・だからわたしは到底ラマナ・マハリシやクリシュナムルティーの言ったことを
理解しているとは言えないし、全く実行することが出来きていないのである。

私もあなたも全人類の全ての人と同じ脳の構造であり、私達が脳に束縛されている
限りは脳の反応と脳の知覚しか知らずにいる。
・・・これが私達人類の現状なのである。

脳の条件付けは全員が同じなので私達は他の人と同じ思考であり、同じ肉体の感覚や
脳の知覚を同じように共有している。

だからこそ、私はあなたとは違う特別な個人であると実感するように脳に条件付けている。

此処でスピリチュアル関係の本を読んでいる人に注意しておきたいことがある。

賢者の本を読んで自分は肉体ではなく心でもない真我だと・・真我をぜんぜん理解して
いないのに子供がスパーマンになりきるのと同じで、頭だけでエゴ丸出し状態で自分は
真我なのだと自分を偽っていることに気が付かない人が精神世界には結構大勢いる。

そうしてラマナ・マハリシ達が言うように「行為は起こっている」「行為者はいない」
と自我いっぱいの私が「自分は真我だ」と信じ込み、欲望の赴くままに好き勝手に悪行
を重ねてカルマの上塗りをしている・・。

これはラマナ・マハリシ達の賢者が教えておられることとは全く逆だ。
ラマナ・マハリシ達の賢者が幾多の困難を乗り越えて高次の霊的諸体を形成し
その高次の霊的諸体として超知覚や超意識の「目」から見ている実相についての
教えであり、それを読んでいる私達とは全く異なる次元の世界からの知覚のことなのだ。
彼らは彼岸からこの此岸にいる私達に話しているのである。

彼らのその言葉は、
「彼岸の実相」を高次元の目から述べられているので、此岸にいる私達には
全く知覚することも理解することも出来ないわけだ。目が開いていないのだから。

そもそもラマナ・マハリシ達のいる次元とこの人類のいる次元は全く異なり、
知覚も次元によって全く異なっている。見ている世界が異なっている。
上位次元にいる彼らが語る言葉を理解し実践するためには、彼らと同じ次元に
いなければならない。彼らの世界を知るためには彼らの目が必要なのだ。
まず最初にサイコノエティック体を再形成しその超感覚の目が始動し、その目
で見ることが出来なければ一歩も前には進めないのだ。

では、あらためて現況を見てみよう
地球人類の私達は脳の条件付けの記憶に従って、誰もが私は他の人とは違っている特別な個人
だとそう思っている。
が、しかしながら、黒住宗忠風に言えば、そう思うこの私は我の心であって、未知なる真の私で
はない・・ということ。
この私は我の心であって、私ではない・・ということだ。
しかい私は天照大神の御分霊であり、この私即ち我の心ではない・・・ということだ。

では、この私は我の心であって、私ではない。とそう思っているのはどの私か??
ここで欺されてはいけない。

・・それをそう思ったり、信じている限りは、それは思考である。
・・それを思考ではなく直に直接全身で理解しているならば「霊魂と繋がる私」の理解なのだ。

この段階の私は全ての人間と全く同じで同じように肉眼で知覚し、同じように
自我で感じて、思考し、同じように性欲で欲して、動かされ、同じように喉が渇き、
すべての人類と同じように自分を肉体だと実感しているのだ。
究極的にはこの私は神の演技であって私は存在していない・・・のだろう。

だが、全員がこの私は他人とは異なる個人であって特別な存在だと思っているのだ
が、しかし、この私とは全ての他人の私と同じ私・自我であり、他人との違いなど
ありはしない。即ち自分も他人も全く同じの自我丸出し人間なのだ。
自分を肉体だと実感し自分は他人と異なると知覚している私は、
実際には個人ではなく全ての人で同じの自我である。「霊魂と繋がる私」ではないのだ。

この私は他の誰とも同じで同じように嫉妬し、同じように苦しみ、同じように
恐怖し、同じように痛みを感じ、その肉体の痛みを感じていると言うことは自分が
未だに霊的諸体を形成しておらず、従ってその霊的諸体の知覚(目)がないので、ど
うしても肉体の苦痛を自分の苦痛と知覚してしまっているからだということである。

私が見ている他者とは自分の姿である。
それを記憶の私は、目の前の相手は自分自身の姿ではないと錯覚する。

・・スピリチュアルを学ぶ人はこの自我を「私は真我だ」となりきっている・・
・・これをそう思っているのはエゴである自我なのに・・。
これは手が付けられない。これではまるで幼児と同じだ。
子供がスパーマンやウルトラマンになりきっているのと同じだ。

このように全ての人は同じように、自分とは他人とは違うのだ!と錯覚している。
「私は真我だ」と口先で言って、なりきっていても
全ての人と同じく他人を自分とは分離して見て、私個人は相手ではないと実感している。
これがエゴ、自我だ。「立ち向かう人の心は鏡なり己の姿を映してやみん」なのだ。

これはこの私が全人類と同じ一つの「自他は分離している」と錯覚する自我で
あることを証明している。

私もあなたも、そして誰もが全く同じ自我(地球を取り巻く記憶情報場)なのだ。

しかしそれでも私達はこのような我の心に覆われていても天照大神の御分霊なのだ。

記憶は「私は特別の存在で、私の痛みや苦しみや快楽は自分の個人のもので、これらは
私の特別な感情や欲望や感覚だ」と誰もが同じように確信して疑わない。

だがその痛みや快楽や「自他が分離しているという錯覚」は全く人類で同じなのだ・・・。
全人類は肉体だけではなく、その脳も同じように記憶・自我に汚染され占拠されている。
人類の脳は条件付けられているのだ。

・・・だからこの記憶の私は他人とは違って特別な個人だと錯覚しているのだ。
・・・「立ち向かう人の心は鏡なり」などとは微塵にも思うことができない
構造なのだ。自分を映している相手を非難するのである。

この私は、私の才能や障害を自分の才能であり、自分の障害だと固く思っており、
自分は他の人とは違って特別だと、誰もがそう思っているが、それは違う!

その個人性や特別性とは指紋と同じく私が創ったのでも私のものでも無い!
それはこの私自身を創った創造主がそのようにして全ての人を創ったのだ!
そしてこの私を創った創造主がこの私として生きておられる。

私として生きておられるのは神なのだ!!
私が私を創ったのではないのだ。
この私自我を神が演じておられるのだ。
私は神の演技
私は神のロボット
私は神の映像。


だれもが指紋とか個性を自分のものだと思っていて、私自身を他人とは異なり
特別だと、だれもがそう思っているのだ。
だが、それは違う。
この個人性や特性は私が創ったのではなくて、創造主が創造したものであって、
私が自分の個性や才能や障害を創ったのではない。
私を創ったのは神であり、神が私として呼吸し生きておられるのである。
それは私が選んで生まれたのではなく、私が寿命を決定しているのではないのと同
じだ。
誕生も死亡も決定権は私にはない。

人類の誰もが私は自分で生まれ、私が死ぬと思っている・・・それは自殺すること
も出来るからだが・・。
だが、これは全く間違っている。
肉体は神が創り生かし、そして自殺さえ含めて神が終わりにしているのだ。
自我・私は神の演技であり、自我として生きておられるのは神なのだ。
行為は神が起こしておられるのだ。
ロボットは自分の自由意志で行為して生きていると・・そう知覚するけど、実際は
ロボットの制作者がロボットを動かしているだけだ。
これは私だけではなく全人類全員みんなが間違っており「自分が生きていて人生は
自分の人生だ」と錯覚している。

肉体の生死、誕生と寿命は、創造主(カルマの主)が一切を決定しているのである。

肉体と同じく、まったくこの私の運命や出来事に関しては私は関与していない、
創られているこの私は関与していないのである。・・・私は結果であるからだ。

まして、この肉体の誕生と死亡は結果であり、肉体を創った方が生死を司って
おられるのである。

肉体を生きておられるのは、このわたしではないので、肉体の誕生と死亡には
この私は関わっていないのである。(但し高次な霊的諸体が形成されている場合
は異なる・・肉体は私ではなく私は霊であって、霊には生死がないからである)



私は自分を他人とは異なっている特別な個人だと思っているのだが、
肉体の組織や呼吸を見ても分かるとおり全人類は全く同じの同一構造である。
そして個人や個人の特性や才能や障害や行為は神のものだ。

それは世界の全ての人間が同じであり、私達の構造、それは内部の精神も思考も
感覚も恐怖やプライドも、この脳が同じように創られているので、いわゆる内部の精
神構造も外部の肉体も全く同じように恐れ、憎み、無視し、競争し、殺し合うのだ。
・・それなのに
全ての人間は自分は特別で他人とは異なっている個人だと固く信じて疑うことがない。
そして競い合い、支配し合い、殺し合うのだ。・・実際には私達自我は全く同じなのに・・。

この私は以下の事を信じている。
黒住宗忠師のいう「人の心は天照らす御祖の神の分け御霊にして我の心にあらず」
という教えである。

だからこの私は「我の心」であって私ではない。この私は我の心に他ならない。
・・と、思うのだ。

ではこの私は「我の心」であり、私ではないのに何故この私を私だと
そう思うのだろうかだろうか?そう信じそう思ってしまっているのはどの私な
のであろうか・

それはこの私が個人的ではなく全地球で同じ私という全ての人は同じ同一
の自我だからだ。
人類は異なっている様に見えていても同じ自我だから同じように自分は他人
とは異なる個人だと錯覚して、恐怖に怯え、お互いに憎み合い殺し合うのである。

この私は個人で、私は特別で、この至高なる肉体を私の肉体であると誰もが
そう思っているのは何故だろうか?

それは人類の脳が同じように条件付けられているからに他ならない。
脳が受信している思考とは全てが同じで「私は他とは異なる私だ」と言う思考であり
その記憶だからだ。私達は脳に条件付けられてしまっている。
全人類で共通の心はその「自他に分離している私」と言う虚偽から成立しているのだ。


全人類の私は同じ全人類で同一の自我の私なのである。

誰もが同じようにプライドに満ち、誰もが同じように競争し、同じように戦って
、暴力的で思いやりがなく恐怖している。

全人類の私は同く同一の全人類で同じ自我なのに、その自我は自我が
個人で異なっていると思って常に相手を非難しているように、私も
私は個人であり、相手とは違うとそう錯覚し、競争し、憎み合い、お互
いがお互いに非難し殺し合っている。

そして死後もその自我は生き残っている。
そしてその人格の私を「霊魂と繋がる私」は全く同一化している。


それゆえに、私「霊魂と繋がる私」「神の子の私」はこの自分ではない自分(自我)
から解放されるためには、どうしたらよいのであろうか?
その為には
私は賢者達が示す「神の子」のわたしを発見しなければならない。

発見し覚者達の示している真実の「私」を理解するためには
その高次な「私」が誕生していなければ、私には「私」を知覚すること
が出来ない。

「私」を知るには「私」を知る私が生まれ、ここにいなければならない。
私が生まれるためには、私は死ななければならない。
私が死ぬためには「私」を知る私がやってこなければならない。
私を知る私がやってくるためには、やってくる「真の私」に全託しなければならない。

それはおそらく私が「私」に吸収されるということなのだろう。
そしてそれには私が「私」ではないことを「見破る」ことが起こる必要が
有るのだろう。
しかしながら、それは自我がすることではなくて、自我に起こることだろう。
それは私がすることではなくて私に起こることだろう。

だからこの真実の「私」が誕生するためには
この私が浄められ祓われて真実の「私」に席を譲らねばならない。

イブン・アラビーやラマナ・マハリシの真我の目は到底無理としても
霊魂の目や高次霊的諸体の目による高次の知覚認識の目が訪れることを
願うばかりである。

せめても
肉眼という条件付けられている脳による知覚から
霊眼という高次な霊的諸体の目による知覚認識が起こらなければならない。
条件付けられている脳からの解放が起こらねばならない。

そして
その為には完全な自己の放棄が、完全な「未知なる私」への明け渡しが、必要だ。

自分の願いや欲望を叶えるのではなく・・。
何かに至るためでも、何かを実現することでもなく、何かに成る
ためでもなく・・。
神に向かって「○○してください」と神に命令したり強制するのではなく
神に向かって「私は全てをあなたに全託します」との私を完全に神に明け渡しすること
が必要なのだ。

そして、未知なる高次の私からのこの高次の霊的諸体の目の覚醒によって
「思考者はいない思考が起こっているだけだ」
「行為者はいない行為が起こっているだけだ」と言えるように
なりたいものである。





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