思考、自我を止めようとしないこと・・マイスター エックハルト
マイスター エックハルトは言う。
思考・恐怖・痛み・苦しみ・自我を止めようとしないこと。
出てきた思考、
出てきた自我、
出てきた痛み、
出てきた苦しみ、
出てきた暴力、
出てきた恐怖、
出てきた自尊心・プライド、
出てきた自己関心、
・・それらに「気がついているだけで良い」。
・・それらに「気が付いているのが意識だ」。
・・だからそれらに「気づきの意識」の光を当てるだけで良い。
あなたが、それらの思考・自我・痛み・恐怖に気がついているとき
その気づき・・それは
「それらに気がづいているあなたとは、思考ではなく意識である」
ということを証明している。
思考を思考と認識しているのは「意識」なのだ。
私達はそれを知らずに
私達は意識であるのに、意識が「自分は思考」だと錯覚している。
だがしかし
思考や、痛み、苦しみ、恐怖、自我を何とかしようとしているものは
その思考自身だ!
そして私達意識はその思考に完全に取り囲まれ覆われてしまっている。
だから、その思考に取り囲まれている私意識に意識を合わせるのだ。
思考とは即ち
「思考者」
「行為者」
「観察者」
「自我」の私である。
それらの記憶である私である。
思考している者は思考であり、思考が思考者である。
思考がその思考の観察者であり、思考について思考している。
思考が思考から逃げようとしている私である。
思考が思考を良くしようとしている。
思考が思考を非難したり、思考を評価し判断しているのである。
だからそれら思考・思考者を何とかしようとはせずに
只ただ、思考・思考者をじっと静かに、動かずに凝視するのだ!
只ただ、それらに気づいてそれらに意識の光、意識の焦点を照射するのだ!
只ただ、それら恐怖、苦痛、自我、分離に意識の光をサーチライトのように
当てるのだ!
ただただ、思考を思考とみている「意識」に意識を集中させるのだ!!!
思考・思考者に対して意識の光を照射している瞬間
あなたは”思考・恐怖・痛み・苦しみ・暴力”ではなくて
あなたは”意識”になっている。
”意識”に出てきたそれら思考即ち思考者、
それらの思考である自我、恐怖、苦痛、暴力、嫉妬心を変えようとしたり
止めようとしてはならない。
その思考を止めようとしている私こそが思考だからだ。
だから、その暴力であり恐怖であり苦痛である自我・思考に
「気づいているだけ良い」。
その「意識に浮上する思考」を思考と見ている「気づき」が意識である。
そしてその結果、意識が秩序を齎すのである。
その意識から新たなるステーション・地平・次元が開示されていくのだ。
私を詐称する思考を、思考と看破することは、その看破しているのが
意識であり、その意識が自他の分離のない真の私なのだ。
そのことをクリシュナムルティーは同じように言っている。
「虚偽(私を詐称する思考)を虚偽と見ること。そしてその
虚偽を虚偽と見ることの中に真理(意識・真我)はある!
そして真理(意識・真我)を真理(意識・真我)と見よ!」と
なので
「正しい自己観察とは、そのままで自己想起であるのだ。」
それはマーティン・ブーバーのいう
「我は汝」である。
この自己観察と自己想起を通じて
私達は潜在意識的意識状態(潜在意識的セルフエピグノーシス)の次元から
意識的意識状態(意識的セルフエピグノーシス)の次元へと一歩歩み出す
のだと。
さらにそのセルフエピグノーシスは
超感覚的意識状態・及びその次元認識(超感覚的セルフエピグノーシス)
さらに
超意識的意識状態・及びその次元認識(超意識的セルフエピグノーシス)
へと続いていく。
量子を考えてみよう
全ては量子であり
量子は遍在であり、無限である
量子は意識なのだ
意識は遍在であり、無限であり、神と呼ばれている。
神以外に何ものも存在しない
善も悪も神の中にあり
私もあなたも神の中にあり
生もそして死も神の中にある
神以外に何ものも存在していない
一切万物は神であり、神の中に一切万物はある
邪悪も神聖も、天使も悪魔も神の中にある
自我も高次の自己も全ては神の演技である
生まれるのも神、病気になって苦しむのも神、死ぬのも神
それらは全てが神の演技、神の中である
私が生まれて生きて死ぬのではない
神の演技が生まれて生きてそして死ぬのである
神は死なない
神は大生命であり
全ては大生命である
有り難い
有り難い
ああ有り難い