自己観察は人類にとっての最大の最優先重要事項であり
これから地球人の私達が宇宙の仲間入りをする為にもこのワークは
自己想起と共に必須であることでしょう。
クリシュナムルティーはその自己観察を「思考なくして自己を見よ」と
教えましたが、具体的にはどのようにして行うのでありましょうか?
私の友人の一人は「このクリシュナムルティーのいう自己観察というのは、
私達の現在意識とは思考しかないので、それは不可能だ」と云っていました
が、別の友人は「それは恩寵によって起こるのだ」とも言う人もおりました。
ここで、私達は最初の友人が言う「私達には思考しかないので思考なく自己を
観察することは不可能だ」ということを改めて再考する必要が有ります。
その答えは100年以上も前に天照大御神と一体になり、直に教えを伝えた黒
住宗忠師から出されていました。
黒住宗忠師は、「立ち向かう人の心は鏡なり、己の姿を移してや見ん」と云い
、目の前の相手とはこの自分自身を写している鏡であって、その鏡に現れる
その相手の姿こそが現在の自分の姿である(相手として知覚認識されている
相手の姿とは自分の姿である)、それを観なさいと教えておられます。
・・そのように私達には、その自己観察が出来る事を明言されておられる
のであります。
ですから、その最初の友人が言うように
私達のこの混濁している現在意識にとっては、「私達には思考しか
ないので思考なく見ることは不可能」なのではありません。
実際には、クリシュナムルティーは思考には二つの異なる思考が
あるのに、それを一括りに纏めて一緒にして思考と表現してしまった
のではないでしょうか?
思考には、潜在意識の記憶から起こる「受動思考」と私達である「意識」
から来る「能動思考」さらに「高次思考」があるというのです。
能動思考とは、受動思考である判断や評価、善悪、好悪、類推、分析、善悪
などを伴わずに、直にそのままを、ただただ見ることであります。
ですので、意識に関しての語彙が地球では少ないために、一般的用語で「思
考なく見よ」と表現されていますが、
私達とは意識が混濁し眠っているような状態であっても「生それ自身」から
の意識や自己観察をすることが出来る能動思考という受動思考とは違う思考
があるというのです。
そういうことで、クリシュナムルティーが「思考なく見よ」と言っていたのは
正確に云えば「受動思考なくして見よ」なのであり、クリシュナムルティーは
決して能動思考や高次思考である「意識」のことを指していたのではない
と思うのです。
ですから結論として
私達には黒住宗忠師がいうように現在の私(現在のパーソナリティ
ー) には判断や類推、分析、評価、好嫌、善悪などという受動思考ではなく
それらではない「ただただ見る」能動思考や高次思考を使って自
己観察が出来るのだと云うことであります。
ですから自己観察に於いては受動思考を使ってはNGなのです。
何故なら見る者自身がその受動思考なので受動思考が対象を
見ても、その対象とは受動思考であります。
「観察者は観察される者である」となってしまいます。
ですから、受動思考にはその観察主体を「正しく見る」ことが出
来ないのです。
受動思考が見ている対象とは主体である受動思考です。
そういうわけで私達は自己観察を受動思考で実践するのではなくて
鏡として意識からの能動思考を使って「ただただ見る」こと
を行わなければならないのです。
この最初に紹介した友人が言う「私達には思考しかない」ということは間
違いです。私達には意識からの能動思考や高次思考があるのですから。
そして使えるのです。
私達現在のパーソナリティーとは「霊魂と繋がる」私であり、思考(受動
思考)に覆われていて、エゴに振り回されていても「生それ自身の意識」も
現在のパーソナリティー意識からの能動思考もあるのでそれらを使用する
ことが出来るのです。
ですから
正しく自分をハッキリと見るために、受動思考ではなくて現在の
パーソナリティーの高次の部分(生それ自身の意識)とそれから
の能動思考を使って正しく自己観察ができるのだということなのです。
私達・自分自身は意識なのであり、その意識が能動思考を使って自己観察
をすることによって、自分の心の中に棲まっているエゴを、エゴである私を、
このあるがままの自分の姿を、自己観察し、非難無く批評無く、自己を統一
再形成して「本体の私」「ハイヤーセルフ・魂」との繋がりを回復する
ことが出来るのであります。
その決め手は自己観察、即ち自分自身を「ただただ見ること」でありま
しょう。
私達にとっては受動思考も意識からの能動思考も同じ思考のように見えてい
ますが、それは異なるのです。
受動思考というのは潜在意識からの、脳の「記憶」から発出しているのに
過ぎません。
それに対して
能動思考は私達自身である「意識」から発出しているので、同じ思考と言っ
てもそれは全く異なるのです。まして「生それ自身」の意識もあると言うの
です。生それ自身の意識とは「自他に分離の無いインパーソナル」の超意識
のことです。汚毒に塗れた私達には未知なる意識の事です。
ここにそのことに詳しい或る貴重な情報源からの教えがあります。
以下の文言は、耳慣れない文章であり慣れない方には非常に難しく
思われることでしょうが、
私達を構成している現在意識のうちには「生それ自身」(※大生命・サムシン
ググレート・非個人超意識)からの高次思考や能動思考があると云うのであり
且つそれを使用できるというのです。その高次思考とは私達の現在意識の殆ど
を占めてしまっている「脳が受信している受動思考」や「潜在意識にある記
憶層からの反応」ではなく、私達自身である「生それ自身からの意識」セル
フエピグノーシス(意識・アートマン)の高次思考であり、その高次思考を
使って、自分のあるがままの姿をあるがままに、非難無く、同一化無く、暖
かく抱きかかえ観照することが出来るというのであります。
「私たちは生それ自身としてのその意識の部分を、現在
のパーソナリティーの意識の一部分と共に、目の前にあ
る像(※鏡)のなかに移行させます。そしてそのポジショ
ンから今や私たちは思考・行動の仕方としての現在のパー
ソナリティーを観察することができるのです。
現在のパーソナリティーは、生それ自身としての意識を現在
のパーソナリティーから切り離すことができるようになり
ます。そしてその意識を自分の前にあるイメージ(※鏡の
こと)に置くことができます。
あなたが現在のパーソナリティーの全て(※現在意識の全
て)を像のなか、自分の前にあるイメージ(※鏡・相手の
こと)のなかに移行させようとしているのがわかるでしょ
う。しかし、そうしてはいけません。
現在のパーソナリティーの意識は現在のパーソナリティー
の諸体のなかに留まっているべきであり、五分の一が五分
の四の僅かな部分と共に像(※鏡・相手)に転送されるの
です。
生それ自体としての意識である五分の一が五分の四の僅か
な部分と共に像(※鏡・相手)に転送されるのです。
あなた方は現在のパーソナリティーから「生それ自体の
意識」である五分の一を切り離すのがとても困難に感じるで
しょう。
しかし、それは自分自身についての真のワーク(※自己観
察)をスタートするための唯一の方法なのです。」
「観察する者に対しても、観察される者に対しても、
観察それ自体が起きるのです。」
非常に難解ですがトライしてください。