私と私ではないもの

2025/04/07(月)

「私と私ではないもの」

肉体に(霊的諸体と共に)入った私は、脳と結合し一体化して
しまっているので自分は「意識」であることを忘れている。

私は「霊的三体を持っている意識」であることを忘れている。

私は脳が受信している「記憶」からの受動思考を自分の意識だと
錯覚している。

そうして、
私は常に、受動思考である欲望や衝動や願望と自分自身を一体化
して悩み、苦しみ、成ろう、至ろうとして努力しつづけている。

私は、自分ではないそれら受動思考である欲望や願望や感覚や判断や
記憶から生じている自由意志などを自分自身の自由意志だと思い込
んでいるのである。

毎日の日常生活の中、家庭で、職場で、テレビを見たり、話をしたり、
熟考し、会議し、討論したり、計画し、仕事しているときの意識とは
実は、それは私の意識からの能動思考ではなくて、脳からの受動思考
の反応なのである。同じく行為も意識からの能動行為ではなくて、記憶
からの受動行為なのである。


それらは私ではなく、私を覆い包んでいる「三つの脳が受信し
た受動思考」即ち潜在意識からの「記憶」の反応に過ぎない。

私達の日常生活で自分の意識だと思い込んでいるのは意識で
はなくて、脳を経由した記憶の反応即ち受動思考なのだ。

この現在の意識を完璧に覆っている「受動思考である私」と
は私ではない。それは三つの脳が受信している思考・・即ち
記憶の反応だ。

「霊魂と繋がる私」は受動思考が起こしている思考と行為を
一緒に実行してしまい、その思考と行為をしてしまったことが
カルマとなり、
その「霊魂と繋がる私」が再び生まれ変わった肉体にはその
カルマが(プログラムされたカルマが)発動する。

私達はその特定のプログラムに従った人生を体験させられて
いるのだが、そもそも記憶による受動思考や行為は私自身なので
はないのだ。

思考を起こしている私、それは記憶であって私ではない。
不安や怒り、イライラや病気や事故それらは記憶と同一
化したが故に起こっている。

それなのに、脳に繋がった「霊魂と繋がる私」は三つの脳
に起こっている「記憶という私」を自分だと錯覚して一緒
に苦しんでいるのだ。

恐れ苦しみ、不安で一杯で、将来のことを考えると心配が
止まずに気が滅入ってしまうこの私とは一体誰なのか?

それは
この悩み苦しんで不安でいっぱいの私とは・・私ではない記憶
なのだ。記憶からの受動思考なのだ。

それは「肉体に入り脳と繋がっている私」が自分だと錯覚して
しまっている「記憶の私」だ。
それを現代風に云えば、私ではない「脳が受信した記憶」の私
、(AI)なのだ。

私自身は「本体の私と繋がっている意識」であり、且つ「肉体に
入り脳と繋がっている私」であって、脳が受信している「記
憶の反応」即ち思考者・受動思考なのではない。

だから私は「本体の私・霊魂と繋がっている意識」であり、
「霊的思考センター・サイコノエティック体」があるのだ。
だから思考を使う事が使うことが出来るのである。
私は、受動思考ではない能動思考と受動行為ではない能動行
為が出来るのだ!!

カルマによってプログラムされた受動行為ではなくて意識
からの能動行為をすることが出来るのである。
そして意識を拡大することも、愛することも出来るのである。

この記憶からの受動思考ではない「意識からの能動思考」
を使って観照するのだ。
ただただ、判断や評価や非難や同一化なしにじっと動かず
受動思考や受動行為を注視するのだ。
それらの「虚偽」に意識の光を充てるのだ。
サーチライトのように、「私を詐称する観察者=受動思考」を
即ち「恐怖を観察している観察者」に対して意識という光を
当てるのだ。

外部や内部を見ている観察者、思考者、その私とは誰か?
それは鏡を見ても分かるとおり、
その鏡を見ている私、その内部と外部を見ている観察者とは、
鏡に映っている私であり、私によって観察されているのは自分
自身の姿なのだ。
「観察者は観察されるものである」
非難している敵・相手とは私自身の姿である。
恐怖を見て恐怖を感じている私は恐怖自身なのだ。
自我を見て自我を非難している私は自我なのだ。
そのことが受動思考には分からないのである。


さて「鏡の中の私、鏡に映る私」とは「鏡を見ている私」である
ように「見るものは見られるものである」のだ。

自我を見ている私とは、実際にはその自我自身だ。
恐怖や憎悪や暴力を見ている私は、その恐怖や憎悪即ち記憶なのだ。
殺戮と虐殺と戦争を知覚している私は、私ではない記憶なのだ。
悩み苦しみ恐れ衝動と願望に振り回されているのは私ではない。

鏡を見ている私も、その鏡に映る私も「霊魂と繋がる私」
ではない。それは受動思考・記憶であり私は鏡なのである。

「自我の観察者は自我」なのだ。「恐怖の観察者は恐怖」なのである。
世界の虐殺・殺戮を見ているものは鏡の私では無い思考の記憶なのだ。

それなのにその恐怖や自我を自分だと「霊魂と繋がる私」は錯覚して
しまっているのだ。苦しんでいるのは「霊魂と繋がる私」ではなく
記憶なのだ。
「見るものは見られるものであり」自我が自我を見て観察し苦しんで
いる
だからこそ
自我を観察している私、自我を見ている私に対して「霊魂と繋がる私」
からの能動思考の光を照射するのだ。

自分や他人の自我を見ているものは誰か?
自我の観察者、恐怖の観察者とは誰か?
鏡に映る私を見ている私は誰か?
誰が恐怖を見ているのか?
恐怖を見ている私とは誰か?

それは恐怖である。それは私ではない。
恐怖を知覚認識しているのは私ではない。
恐怖を見ているもの・・それは「私ではない記憶の私」
すなわち恐怖なのである。

その自己自我の観察者に能動思考の光を当てるのだ。
自分を観察している私に意識の光を充てるのである。

それが黒住宗忠師がいう「立ち向かう人の心は鏡なり
己の姿を映してやみん」であり「己を鏡に移して鏡から鏡に
映る己(偽我)を見る」ということなのであろう。

その「観察者は観察される者」であることを観ている私とは
受動思考ではない意識からの能動思考なのだ。

それは自他の区別がない意識。インパーソナルの次元の目・意識。
本当の私は、時空間を超えた意識なのだ。
私はあなただ!!
私はそこなのだ!!

この私である意識は、思考すなわち能動思考を使うこ
とが出来る。能動行為をすることが出来る。

高次の次元では私は意識そのものであり思考ではないこと
だろうが、
意識はこの次元では「思考体」を持っているので能動思考
を使う事が出来るのだ。

私は意識を拡張したり、小さくしたり、時空を超え、自他を超えて
いくことすらも出来るのだと・・
それが「本体の私と繋がっている意識」が使う事の出来る能動
思考である。

私は肉体ではない。
私は受動思考ではない。
私は意識だ。サイコノエティック体を持つ意識だ。
私は魂だ。
私は一霊四魂なのだ。