受動思考と能動思考と意識

2025/01/30(木)
受動思考と能動思考と意識

私達は日常の生活の中で私達の内面の意識に気が付いていると思ってい
るのですが、それは本当でしょうか?
私達はこの肉体は自分の肉体で、自分が呼吸し、自分が心臓を動かしていると
思っていますが果たしてそれはそうでしょうか?
私達はこの脳は自分の脳で自分が思考し自分が行為していると思っていますが
果たして本当にそうなのでしょうか?
意識や思考は私が創造したのでしょうか?
・・それらは起こっているのではないでしょうか?
それらは私がしているのではなくて、私に起こっているのです。
呼吸も思考も感情も行為もそして意志の決定もそれは神がしているのです。
起こっているのです。私が生きて、私が思考し行為しているのでなくて神
が思考し行為しているのです。
それを肉体に入った神の子である私が自分が思考していると間違えたのです。

意識の座または魂からの私と言われている私達の意識のスクリーンに
それらの思考や感情や行為が起こっているのです。
それを肉体に入った神の子の私が「肉体は自分の肉体で自分が生きて行為して
いる」と錯覚して苦しんでいるわけです。

この観点から思考を考察すると今私達が自分の思考と思い込んでいる思考や
行為はそれは自動的に起こっていることであり、その「自動思考」のことを
ここでは受動思考と称します。私達の行為も実は同じく自動行為なのです。
根源が脳を使って行為を起こしておられるのです。

私達は他人のことなら相手の意識の状態を観察するのは容易くても、こと
自分自身のこととなると自分を客観的に見ることは本当に至難なことです。

恐れているとき、激痛が走ったとき、死にそうに苦しいとき、悩んでいるとき
その恐れ苦しんでいる私をあたかも他人のように観察することは非常に困難です。

ここで間違いやすいのは自己観察とは、自分の内面と一体化してしまっている状態のこと
では決してないのですが、通常私達は自分が内面に起こっている欲望や思考と一体化
してしまっている状態であることを自己観察、即ち自己を見ている自己観察だと間違って
解釈しています。そしてその自分に襲いかかってきている思考や感情や欲望と一体
化しているだけなのに「自分は自分を見ている」「自分は自己観察している」のだ
と間違って思い込んでいます。

しかし、その悩み苦しむ自分をあたかも植木や動物を見るように自分自身から離れて
自分自身を観察してみると、自分の内面の表面意識には受動思考と能動思考が有り、
そして
さらに自己観察を進めていくと、「自己観察しているこの私は誰か」「誰が自己
を観察しているのか」という魂からの能動思考が起こす問いがやって来ると教えら
れております。

賢者達が言うには意識・・それは私達には未経験の「思考ではない意識」と言う
意味であり、私達には能動思考の焦点・サーチライトをその「思考ではない意識・
未知なる自分自身」に合わせる必要が有るのだと思われます。

それこそがクリシュナムルティーのいう「虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真理を見、
真意を真理と観よ」であります。

通常世間では、その日常で知覚されている受動思考のことを誤って意識と捉えており、
いわゆるその受動思考の上に文化や文明や科学や社会は成り立っていますが、その意
識と思われているものは実は意識ではなくて、それは条件付けられている脳の反応の
記憶、即ち受動思考に他ならないと思われます。

通常は私達の生活に於いてはそれがしっかりと識別できずに、ぐちゃぐちゃに
混同しているのです。が、ここで言う「意識!」とは私達の人生では全く認識され
ることがありませんし、私達には使用可能な能動思考が行う自己観察も殆ど実行さ
れませんから、悲しいかな実際にはこの私達自身の意識だと思われているもの
も受動思考なのでありましょう。

私達は思考にも受動思考と能動思考という二つのものがあることなど知る術
べもありません。

私達はこの文明の中で受動思考と一体化して、単なる機械のように、ただただ動物のように
条件付けられた人生を過ごし、起こっている思考や行為と一体化して、「ワンと吠えられれば
ワンと吠え返す犬のように」自分のエゴに振り回されています。いくら懸命に名声
や貯金残高を築き上げても最後はそれが無であり、全てが虚しいことに気が付くこ
とはありません。


①受動思考・・日常生活の中で、ごくごく普通に自分の意識だと思われている思考のこと。
       人間社会、人類の文明の一切はこの受動思考即ち自他の分離という錯覚で
       成り立っています。思い、感じ、行うこと、社会や国家、法律と常識とは
       まさに、この自他の分離という受動思考の上に成立しています。
       自分が思い、自分が考えていると、・・そのように自分に知覚されている
       思考のこと。
       条件付けられている脳が受信した脳からの思考の記憶のこと。
       学校で学び、職場で使い、毎日の生活で、私達の意識だと思われているのは
       意識ではなく能動思考でもなく、それは受動思考なのでありましょう。
       ある条件下で自分の表面意識に起こってくる恐怖、エゴ、不安など。
       それらの通常の人生で私達によって知覚されている思考、意識のこと。
      (しかし、この意識と思われているものはヒューレン博士によれば意識ではな
       く潜在意識層にある記憶からの反応だと言っておられます、ヒューレン博士が
       言うのには、私達であるたましいの表面意識が自分の意識だと誤って信じて
       込んでしまっているのが、この潜在意識層にある記憶からの受動思考であり、
       私達はこの受動思考を自分の意識だと錯覚してしまっている。と言います。
       そして、その思考の反応という受動思考を自分の意識だと錯覚している私
       こそ、未熟ながらも魂の表面意識であると言われています。)
       なお、この受動思考はDNAやカルマから必然的にある時、ある条件下で必ず
       表面意識に現れる思考のことで、自分がコントロールすることは不可能
       で、私達にはそれを感謝して受け容れるしか方法はありません。
       私達は受動思考を非難したり、変えようとしたり、同一化してはなりません。
       非難し、変えようとし、同一化している私こそその私であるからです。
       夢に現れる私達の意識とはまさにこの受動思考に他なりません。
       日常生活の表面意識に出没する怒りや不安や恐怖や強力なエゴは同じく
       その受動思考です。人類全ての日常の意識とは実際にはこの受動思考
       なのです。

②能動思考・・能動思考は上記と同じく思考なのですが思考の記憶の反応ではありません。
       能動思考とは、自己観察や内省で使われている思考で、受動思考や欲望や
       感情やエゴを「魂からの私」がスポットライトの様な光を当て非難したり
       それについて思考することなく、一体化することなく見ている私のことです。
       通常私達は対象に焦点を当てるとか、それに注意を向けるといいますと
       即座にその注意の対象について、考えたり、何であるのかを知ろうとしたり、
       自問自答したり、質問したり、理解しようとして同一化したりしてさらにそ
       の受動思考を強める結果になります。

       この能動思考とは全くサーチライトの光のように単に光・意識を対象に当てる
       ことでだけであり、その対象に関して考えたり、解説したり、自問自答したり
       いろいろと思考や感情を巡らすことではないのです。が、しかし私達は教育を
       受けている関係で対象に焦点を当てると、必ず即座に思考し名前を付けた
       り、判断したり、色々と感じたり、思いを巡らしたりしますが、能動思考とは
       非常に説明することが難しいのですが、この能動思考とは、ただただ単純に
       意識のサーチライトの光そのものを、その対象に、即ち思考や起こっている事に
       スポットライトのように意識という光を当てると言うことです・・ここは私達
       人類が「思考が全てだという教育を受けているので」理解が非常に難しいので
       す。ただなにもせず、如何なる思考も介在させずに、意識を当てるだけなのです。
       ここで重要なことは私達が、その心の中で起こっている受動思考を受動思考に
       よって知覚認識した場合はその受動思考と一体化してしまい、その自他に分離
       している受動思考を更に強化し倍増させてしまいますので、自己観察は受動思考
       では行ってはなりません。能動思考で行うのです。自己観察も自己想起も能動思
       考で行うべきなのです。
        
       受動思考がカルマやDNAから、必然的にやってくる思考や出来事であるのに
       対して、この能動思考とは未熟な魂の霊的諸体からひきおこす注意そのものです。
       この能動思考というものは指向性を持ちサーチライトのように或る対
       象に向けて焦点を合わすことです。が、注意しなければならないことは
       私達はその能動思考の光の焦点をある感情なり出来事や人間に向けた場合、瞬時
       に記憶からの思考が反応し、それに巻き込まれてまい、結果として更に倍増し
       強化させますので、受動思考でその記憶を見てはなりません。受動思考とは
       その注意を向けた対象である怒りや恐怖やイライラやエゴに対して、反応して、
       それを変えようとしたり、押さえ込もうとしたり、一体化して逃避しようとし
       たり、することでありますから。

       けれどもその能動思考が熟練して、純化すれば、意識を拡大したり、
       小さくなったり、体の中に入ったり、樹や花々や妖精達と意志の疎通を行う
       ことも出来るのだと言われています。
       がこの能動思考すらも、正確には「意識」ではないというのであります。
       この能動思考は思考なき光の焦点であり、注意をチャクラに向けることが出来、
       「息」「大生命」「真我」に注意を向けることが可能であります。
       この能動思考のことを一般的には意識と間違って勘違いされているよ
       うですがこの能動思考は意識ではありません。
       この能動思考とは正確には未形成なサイコノエティック体の意識のこ
       とで、私達の未熟で未形成の霊的諸体が脳と繋がって脳と一体化し脳が
       眠るときに一緒に眠ってしまう霊的諸体からの思考のことだろうと思います。
       意識に近い思考のことです。ヒューレン博士の言う表面意識の事です。
         
③「意識」・・これは文字通り「意識」であり、脳や記憶の反応ではありません。
       能動思考が純化され、透明になって繋がる魂本体の意識です。 
       別名「観照者」とも言われており、頭上から「観察者である私達の
       思考」を観照しております。
       ハイヤーセルフ、インナーセルフと言われているインパーソナルの意識です。
       この「意識」には途切れたり、眠ったり、夢を見たりすることは有り得ない
       と言われております。自他に分離していない意識、私とあなたの分離がない意識
       のことです。
       クリヤヨガではこの「意識」のことを第四の意識、トゥーリヤとも呼称し
       ており、地球人類においてはこの「意識」を意識している人は非常に少ない
       と思われます。勿論かくいうこの私も未だ「意識」のことは全く知りません。
       今のところは私が知っているのは受動思考と能動思考だけです。
       
従って意識の事は久保栄治はなにも知らないのでこれ以上は話すことが出来ません。