アドヴァイタとは何でしょうか?
アドヴァイタとは「主体と対象は一つである」ということを説く
印度不二一元哲学の超高次元からの教えのことです。
それは戦争に明け暮れている物質次元や、自他の分離がある幽界や霊界
の次元を遙かに超えた自他の分離の無い超高次元の知覚認識からの
教えであります。
それは一言で言うのであれば「私はあなたである」ということであります。
それは「汝はそれなり」でもあります。
「見るものは見られるものである」ということでもあります。
けれども普通に生きている私達にとっては「それがどうしたのよ」「何に
効くの?」「それがなんぼになるんかい?」
「それに見るものは見られるものである、って一体何のことかい?」
と言われてしまいそうです。
実利と幸福に直結していないものは私達には価値がなく興味はないのであります。
この教えは非常に高度で難解ですが人類にとっての最大の福音、最高の贈り物です。
しかし、そうはいってもこの言葉は私達常識人には何のことを言っている
のかさっぱり分かりませんしチンプンカンプンです。
かく言う私も理解していません。
私とは私が見ている相手なのであるというのは何とか想像できても、私が
動物や花であり、街路樹であり、建物であり、椅子やテーブルだと云うので
すから、もう何を言っているのか?何が何だかさっぱり分かりません。
まして、「私が恐れている化け物は私自身である」、「私を殺そうとして
いる敵は私自身である」、「私が観察している恐怖心は私自身である」
などともなれば、それはもう何が何だか分からず、常識ある人類には
全く受け容れられるはずがありません。
しかし
そのことを語っている次元とは根源の実相次元での知覚認識であり、私達の
いる現象三界の次元という迷いの世界の知覚ではありませんので、何を言って
いるのか分からないのは当たり前であり当然のことです。
この世は自分の利益と欲望とセックスとお金だけを中心に動いているわけで
すから。
けれども
私達が死を迎えるとき、一体私達は何を生きてきたのだろうかと自問します。
私達はアドヴァイタの言うその実相を観ること出来る目は開いていないので
実相を見ることは出来ませんが、その未知なる次元の目による実相が実在し
ていることを信じることだけならば出来ます。
人類が持っている知性や理性や思考というものは「見ている私とみられている
対象が分離している」ことで成り立っています。
思考そのものが自他に分離しているのです。
見る主体とみられる対象が分離しているこの次元では思考は機能出来ますが、
現象界の実相の姿を見ることはその思考の目では知覚認識することは出来ません。
現象界の実相を観るためには、この肉体の目ではなく第三の目が必要であり
実相を知覚認識する為には、思考が停止したときに顕現する高次の意識の知覚が必要です。
それなのに、その思考ではない「高次の目」がないのに、アドヴァイタのことを語った
り説明したり、又は単にそのアドヴァイタの言葉を記憶しているのに過ぎないのにそれ
について話したり分かったつもりになってしまう人達がいます、
「私は知らないことを知らない」真理の解説者を見ると悲しい気持ちになります。
超越次元から見た本当の現実とは、私達であるこの物質次元の知覚や
自他を分離してみている次元からの知覚では推測も想像も出来ず理解も
類推することも不可能です。
私達が持っているのは自他を分離する思考や知性だけです。
私達が知っているのは自他の分離、という錯覚だけです。
現象界の実相を知覚するには、思考や知性では全く接近することが出来ないのです。
従って、その次元の目が開き私達がその次元にいない限りは、その「私はあなたである」
や「見るものは見られるものである」等を自分自身の言葉として語ることも出来なけれ
ば、知ることも理解することも出来ないわけです。
私達は思考と言う自他に分離している目でしか自分も世界も見ることが出来ないのです。
従って、自他に分離していない実相を観るためには、「自他を分離してしか見ることが
出来ない思考」では全く接近することが出来ないことを肝に銘じて、意識を静かに保っ
たまま思考から離れるのです。
私達は目が開いておらず、その自他に分離している思考次元にいるので現象次元のこと
しかしらずに、この現象世界の共通言語である思考が知覚の全てだと確信しています。
ですので
私達はその私達の自他の分離の思考で以て、その高次元からの実相世界の真理の言葉
を聞いて、「自分は記憶して分かったんだ」と、分かったつもりになってしまって
います。
が、いくら賢者達による真理の言葉を読んで記憶しても、その実相である「見るもの
は見られるものである」は、私達が思考の目でしか世界や自分の心の中を見ることが
出来ない以上は、この「見るものは見られるものである」という真理を知ることは一
切出来ないのです。
「見るものは見られるものである」とはアドヴァイタという見地からの言葉であり、
それは私達人類の三界次元という自他の分離の現象世界ではなくて、その分離世界を
支えている自他の分離の無い非分離という実相次元からの言葉なのです。
アドヴァイタでは本当は相手を見ているこの私とは、私が見ている相手そのものであ
り、実際は「私は相手である」「私はそれである」「私は世界である」「全ては一つ」
だと云うのです。・・
これは分離次元にいる私には全く以て思考することもなく、理解も出来ず、知ること
はありません。思考が停止して超意識である時にその知覚は顕現していると教えられ
ています。
そして
その「見るものは見られるものである」ということとは
今まで、相手や世界を私の対象として、相手や対象とは自分とは異なるものとして
見ていた私、対象と自分を分離して見ている私
それは即ち・・この私と言う観察者である私とは、
実は潜在意識の中にある思考の記憶の反応であり、
魂からの私はその記憶の反応(人格・個人)と同一化してしまっており
自他の分離というその思考である「分離」という色眼鏡(私という観念)
で自分のことや相手を見ていたと言うことであります。
その私という色眼鏡が解消されて、自他の分離という色眼鏡を外して直
に相手を見ることができたとき、(即ち思考なくして見ることが起こったとき)
私達は一つであったことが分かるのでありましょうか。
私は相手であり、そのとき、そこには相手と分離している私は存在しておらず、
私とあなたは一つであり、相手が私だったという真実が顕現されるという
ことなのでありましょうか。
そのとき、わたしはあなたなのです。私は対象だったのです。私は世界なのです。
自他の分離という幻想が消えて「自他一如」という実相が顕現するのでしょう
。そこには戦い争いをする私も貴方もいないのです。ただただ愛のみが姿を
顕していると仰るのです。インパーソナルの私が光り輝いているのでありましょう。
また、いままで相手だと思っていた相手とは「私という観念」の私が自分
自身を投影して相手として知覚認識していたということであり
そのことを正見している実相次元を見ている目には相手も見ている私も
一つであり、その目には、その目の中には私も相手も存在しておらず一
つの神聖なる意識だけが在るということなのでありましょうか。
それが「観察者は観察されるものである」と言われていることであります。
アドヴァイタの自他が分離していない次元の目から見た実相世界とは。
それは思考であるこの私には分かりませんが、あえて想像するには
それを思考なく見ている超意識には
見る者と見られるものという自他の分離が無い「真実なる実相」の姿が
顕れていると言うことであり、クリシュナムルティーはその自他の分離が
ないとき、そこには愛(神)が顕現していると言うのです
「恐怖を見ている私が恐怖である時、そこに自他の分離はなく愛が顕現している」
と言われているのです。
この「見るものは見られるものである」が顕現しているとき
〈見る私と見られている相手が分離しているように見えている思考の目〉
はそこにはなく、燦然と輝く愛が姿を顕しているということなのであり
ましょう。
その愛の中には、今までは私がいてその私が世界や自分を見ていたのが、
「思考なく見る」事が起こり、その思考なく見る「実相の目」には、
闘争と戦争や殺戮に明け暮れる現象世界はそこにはなく、それを見ている私
自分もなく、即ち今までの自他に分離している目で見ていた観察者もなく、
その分離して見ている観察者によって見られていた殺し合う三界世界は無く、
その分離している目で見えている「悲しみと苦しみである私やあなた」も無く
その目には愛のみが見えているというのです。
この自他の分離の無い目には現象世界は消え失せて「神の国」が、極楽浄土が、
姿を顕しているのでありましょう。
これがアドヴァイタの云う不二一元であり、法華経の説く極楽浄土であります。
自他の分離が無い「見るものは見られるものである」即ち「愛」が現象の本当の
姿だと言うのであります。
それはイスラムの賢者ルーミーが言う「神を見ているのは神である」の次元なの
でありましょう。