私は誰か?
私は世間の凡夫ですが、以下のような聖賢方が述べている未知なる私を信じております。
【私は神の分け御霊。私はあなた。私は全ての人と一体。私は一切万物とひとつ。
私は肉体ではない。私は脳ではない。私は思考体ではない。私は感情体ではない。私は行為ではない。
私は神の分け御霊。私は一霊四魂。私は神の子、仏の子。
私は霊魂、私は神の一細胞、私は時間と空間を超えて無限に拡がる意識。最小にして最大の意識。
私は霊魂、私はあなた、私はあなたの私と分離していないインパーソナルの私。私は全人類。
私は霊魂、私は熟睡によっても途切れることのない意識。
私は思考ではない意識。私は全ての人の肉体と霊的諸体に宿っている霊魂。
肉体と霊体は私ではなく私の道具。思考と行為は私ではなく私の道具。
私は霊魂、私は自他に分割できない普遍の意識。時空を分割し自他を分割している思考は私ではない。
私は意識、セルフエピグノーシスの私。
思考や感情や行為は私が使っている道具であって私ではない。
私は霊魂、私は霊であり、愛であって、肉体や幽体や霊体や思考や感情や行為や自我は
私ではない。それらは私が使っている道具であって私ではない。
私は思考ではない意識でありそれを否定しているのは私ではない思考であり、その記憶だ】
◎【思考者はいない思考が有るだけだ、行為者はいない行為は起こっているだけだ】について思うこと。
私達の通常の人生では勿論、誰もが自分は肉体であり、欲望や感情や思考は自分がして
いて、行為の責任は自分の責任だと,人類の誰もが確信しているので疑うことなど全くありません。
そうであるからこそ、個人の責任を裁く法律もあり社会や国家は成立しているのですから。
自分自身は意識であって思考や行為とは、その意識に起こっている事だ、などと考える人は
全くの皆無です。
そんなことを言ったら村八分になるか、精神病院行きで、拘束され投薬されるのがおちです。
若しくは、その話を聞いて無責任になり、最悪で身勝手な自堕落の落伍者になるのかもしれません。
したがって当たり前でまともな考えの人は、
この肉体、この思考、この行為は自分のもので、「肉体は自分のもの、肉体の知覚や脳の機能は
自分自身だ」「行為は勿論私が行為しているので、行為の責任は私にあるからこそ社会が成り
立っているので、そんな「行為は起こっている」などと云ったら世の中メチャクチャになるよ」と、
世界中の誰もがそのように思っていることでしょうし、それを疑う人は分裂症か離人症である
ことでありましょう・・・
果たしてこの世界の誰もが絶対的に疑わない「行為は私がしている」「私は個人だ」「私は
肉体だ」とは真実なのでしょうか?
けれども、ここで一度立ち止まり、翻って、もう一度よくよく考えてみましょう
これは誰が思っているのでしょうか?
というよりどの私が思っているのでしょうか?
実は、自分や世の中を見ているのは思考でありその思考の記憶です
それは意識ではなく意識もどきです、この意識もどきである自分とは、実は記憶であり
それは「私という思考」なのではないでしょうか?
この一般的な世の中の人の「私」とは初めに書いた賢人達のいう「私」とは全く別ものの私です。
このこれを書いている私自身も含めて世の中の全ての人の私とは、脳が眠るときに眠ってしまう
私です、それに対して冒頭に書いた賢者達が言う私とは、これを書いている私・久保栄治にとっ
ても全く未知なる「脳が眠っていても【眠ることのない意識】の私」です。
ですから、賢者達は魂の内奥からの普遍意識で見た場合、思考も行為も本人ではなく
「純粋精神」から思考や行為は発生している・・と言うのです。
世界中の人々の「混濁している意識」はそれを自分が思考し、自分が行為している
と知覚しているのであると云うのです。
ですから究極の真実は、本当の意識が目覚めていない私達には認識されないとしても、
真実を言えば「行為は起こっている」のではないでしょうか?
それを私達は「自分が行為している」と知覚しているのではないでしょうか。
私達、世の中の人は、自分は意識であるのに肉体と結合して「脳が受信した思考」と完璧に
一体化してしまっている
ので、知覚認識は限定され、自分が行為していると、そう錯覚してしまっているのでは
ないでしょうか?
世の中の私達はその様な魂からの超意識や超知覚を全く知ることも無く、「科学で解明できないことは
世の中にはないのだ、科学で証明できないことや、私達が理解出来ないこと、私達が知らないことは
迷信で気が狂っている変人の考えなのだ」、と高次の知覚がある賢者達を否定し罵倒するのです。
しかしそれは、その高次の知覚がない私達であれば、それも当然なのでありましょう。
そう思ってしまうのも、私達人類には未だ「意識」というものが知覚されていないからです。
私達は「意識」を騙る思考だけしか知らないので、
その思考でもって「意識」のことを知ろうとしても
思考には意識の事は知るよしもありません。
意識である未知なる私は、潜在意識にある記憶と混濁し、完璧に一体化しているので、
自分は個人だと錯覚しており、行為に関しても全く疑うことなく「自分が行為して
いる」と確信しているのであります。
クリシュナムルティーのいうような「行為者はいない行為は起こっているだけだ」は
現在の私達地球人類には全く分からずチンプンカンプンであっても、それが正しいの
ではないでしょうか?私はクリシュナムルティーの方を信じたいのです。
潜在意識にある思考の記憶が、
表面意識に起こっている思考や行為のことを
「私は肉体で、思考は私が思考し、私が行為しているのだ」と思っているのに過ぎな
いのではないでしょうか。
・・なのに、肉体脳に結合し、記憶に覆われてしまっている霊魂(意識)は完全に世の中の常識に汚
染され尽くしているので、夢にも「私は個人ではなく全人類だ」「私は思考ではなく肉体でもない
意識だ」「思考や行為は起こっている」などとは考えないのでありましょう。
ではその思考とは似ていても異なる意識とはどのような階梯・次元があるのでしょうか?
シャンカラは云います
五つのコーシャ(鞘)は私ではないと
私は真我であると。
【私達は肉体ではない、私達はプログラムされている肉体(頭脳)に包まれているのだ。
私達はエーテル複体ではない、私達はプラーナ、エーテル、気によって動いているのだ。
私達は幽体ではない、私達はプログラムされている幽体(感情体)に包まれているのだ。
私達は霊体ではない、私達はプログラムされている霊体(思考体)に包まれているのだ。
私達は自我体ではない、私達は個人だというコーザル体の先端に包まれているのだ。
私達は原因体(コーザル体)ではない、私達は輪廻しているという夢を見ているのだ。
私達は肉体や霊的諸体に包まれていても肉体ではなく霊的諸体でもない。
私達は肉体ではなく心でもない。
私達は真我。私はI AM。
私は私。私はセルフエピグノーシス。私は超意識、私は全ての私、私は一切万物、
私は生命、私は在る】と。
正直に言ってわたしは全くシャンカラの言葉の意味は分からないし理解していません。
私・久保栄治はAIと同じように本を読んで情報は記憶しているのですが、それは
単にテープレコダーのように意味も分からず単に言葉を暗記しているだけです。その記憶して
いる久保栄治は、知識を言語で記憶しているだけであって、その言葉の示す中身自体は
全く知りません。言語や言葉とは内容を指示しているだけであって、内容自身では
まったくないのです。
それはAIと同じで、AIが「林檎は甘い」ですと言っても、そのAIの言う「林檎
は甘い」とは単なる言語であり、情報に過ぎず、AI自身は「林檎は甘い」ということを
知りません。味わったことがないからです。
ですからそのAIのいう「林檎は甘い」とは、言語の単なる情報に過ぎず、その言葉は
指示代名詞であって実際には「林檎は甘い」ことをAIは知らないのに、AIは嘘をつ
いているのです。
AI自身は「林檎は甘い」ことを知らないのに、「林檎は甘い」と情報を言うのは嘘をつ
いていることにあるのです。
AIは「自分は知らない」と言うことを知っていないのです。
私達が賢者達の話す真理に接するときにも全く同じ事が生じています。
私達は賢者が話す言葉を記憶しているだけなのに、自分は知ったのだと錯覚するのです。
この現在の私とは記憶の集合体なので賢者の言う言葉は理解することがありません。
この現在の私とはそれが分かる私ではないからです。この記憶である私に、一体全体
どうして「記憶ではない私」の言っている言葉を理解することが出来るのでしょうか?
私は目覚めていないのです。
その目覚めの体験がないからです。体験がないと言うことは自分を知らず、自分自身を
理解していないと云うことです。
私達人類が私と思っている自分・私は自我体ですらなくて、自我体が一体化している記憶です
、その記憶とは潜在意識にある記憶・私という観念の記憶、今回の人格、人類の記憶です。
では私達人類の自我体(コーザル体の突端、魂と繋がっている私、表面意識、受動思考ではない
意識)は記憶ではないとしたら、どの私でしょうか?
この自我体という表面意識の私とは推測するに、
肉体に入って、肉体的には胸の中央辺りに所在しているのですが、脳と直結しています。
自我体の私は最初の胎児の呼吸とともに「カルマによってプログラムされた肉体」に
いのちと共に肉体に入り私達自我体は脳と結合しました。
そして自分が誰であるのを忘れたのです。
この自我体(ヴィジュアナマーヤコーシャ)が自身は魂と繋がっているのに、今回の転生で
入った肉体を自分だと錯覚してしまっています。
私達自我体(ヴィジュアナマーヤコーシャ)とは記憶の反応を自分だと錯覚し、脳からの視
覚や聴覚や味覚や触覚や嗅覚や思考や記憶である人格と同一化している現在のパーソナリテ
ィー(サイコノエティック体)のことです。
未形成のサイコノエティック体で「魂と繋がっているコーザル体」でもある私です。
しかしながらどんなに受動思考と一体化しても、どんなに悲惨な状態であっても
私達は決して思考ではない「思考まみれの低次の意識」自我体、ヴィジュアナマーヤコーシャ
の私です。
そういうことなので私達であるその表面意識即ち霊魂と繋がる自我体(表面意識・ヴィジュアナマ
ーヤコーシャ、受動思考とは異なる意識)は肉体に入り脳と一体化していても脳なのではあ
りません。
私達は魂からの表面意識であり、脳という「送受信器」を経由して潜在意識層(肉体で云え
ば丹田付近にある)の「記憶」や未形成の幽体や霊体と接触しています。
ということは、「ハートにいて思考と一体化している私」達はその「脳と言う送受信器」を経由して、
未形成なチャクラ、思考体や感情体や腹部にある潜在意識とアクセスしているということです。
またアクセスできていなくても頭頂部から霊魂と繋がっているというのです。
推測するにハートの自我体は脳とは「シルバーコード」で繋がってしまっているのでしょう。
熟睡中での霊的諸体の幽界や霊界での体験は
それらの経験している霊的諸体は自我体ともシルバーコードで結合しているのですが
知覚してる自我体は「脳と言う送受信器」と完全に全く取り囲まれ一体化してしまっているで
脳がその情報を殆ど認識できないのです。
自我体が一体化している脳は脳の周波数帯が異なる情報は認識出来ず
幽界での霊的諸体の経験を現在の条件づけられている脳の状態では、
脳も、脳と結合している自我体にも認識できないのです。
というのも
自我体という意識はハート付近にあるのですが
脳と接続しているので熟睡中は潜在意識の記憶は「夢」として自我体に伝達されますが
霊的諸体の異なる次元界の体験は
自我体が脳と一体化しているので「条件付けられている脳の状態、脳の持っている受信可能な
周波数帯」に左右されていて、睡眠中の幽界や霊界での体験が
脳と繋がっている自我体には伝わらずに熟睡中には何も知覚認識されないのです。
要するに端的に言えば私達(現在のパーソナリティー・自我体)は記憶と一体化していて
私達の本体である未知なる私(ハイヤーセルフ・眠ることのない第四の意識)と接続している
パイプが詰まっていているのでハイヤーセルフのことは自我体には伝わらず理解出来ないと云
うことでありましょう。
・・・此処は非常に複雑です。
その脳を通じて自我体(表面意識)が受けとっている情報や思考は
主に腹部にある潜在意識の記憶や、脳からの視覚などの五感覚です。
脳が純粋精神から受けとっている思考や感情や自由意志や行為
の指示です。私達はこの純粋精神から受けとっている思考や感情や
行為を自分が思考し行為していると思い込んでしまっているというのです。
潜在意識にある記憶は自我体(表面意識・ヴィジュアナマーヤコーシャ)自身ではありません。
その表面意識である自我体(表面意識・ヴィジュアナマーヤコーシャ)が記憶層から受けとった
思考を受動思考と言います。
自我体(表面意識・ヴィジュアナマーヤコーシャ)の起こしている思考を能動思考又は単に
意識と言います。
自我体がコーザル体と繋がりを自覚して発生している意識を超感覚的意識と言います。
自我体(表面意識)がコーザル体を介して自分の大元である霊魂と繋がっている状態の意識を
超意識と言います。
この状態は私達である「意識自身」がハイヤーセルフの超意識と一体化している状態です。
この自我体(表面意識)が霊魂と繋がっている意識のことを「熟睡を観照している意識」
「夢を観照している意識」「第四の意識」とも言われていまして、ハイヤーセルフの意識
又はインナーセルフの意識と呼ばれており、賢者方の意識がそれであると思われます。
この状態では自我体が肉体の脳を介在しても(この世にいる状態)又は介在してなく(死亡
の後の死後の幽界や霊界にいる状態)ても関係ありません。
自我体(通常意識)が直接ダイレクトに霊魂(インナーセルフ・ハイヤーセルフ)と繋がって
いる状態であると思われます。
ということは、これを逆から考えると物質界にいたときにハイヤーセルフに繋がらなかった
人は、肉体の死後も自分である自我体はハイヤーセルフが繋がっていないので、あの世に
いっても、この物質界にいると同じように、潜在意識の記憶という夢幻の世界で生き続け
ていると言うことでありましょう。
しかしながらこの物質界にいるときに恩寵によりハイヤーセルフと繋がった思考体や感
情体とは再形成されて
霊魂と繋がったヴィジュアナマーヤコーシャである意識が
こんどは今までは思考や感情や行為に使われていたのが、自分がハイヤーセルフとして
肉体や幽体や霊体を自由に使用できる状態になると思われます。
その状態となった自我体は霊魂と一体化し、エデンの園に戻り
こんどは逆に肉体や脳や、幽体や霊体を自由に使役できるようになるのだと推測しております。
色々と書きましたが
では最終、本当の結論は何でしょうか?
私は何でしょうか?
神が、この個々の肉体を創り、この個々の肉体として生きておられます。
肉体は私のものではありません。肉体は神のもの、肉体は神の宮であり、
神が個々の肉体を生かしておられます。
神が思考を生みだし思考し、感情を生み出し感じ、知覚し、認識し
心を使って行為しておられます。
思考と感情と行為と知覚と認識は私のものではありません。
神が思考と感情と行為を起こして使っておられます。
神が私を創り、神が私として生きておられるのです。
私は神のもの、私は神の道具。
神がすべてのあなた、神が私。
全ての人の私は神なのです。
神が全ての私として生きて思考し行為しておられます。
神が全ての私です。
神以外に、何ものも存在していません。
私は神の分け御霊です、神なのです。
・・・これが私の結論です。