どの段階にいるのかによって教えの内容は異なる

2024/12/24(火)
教えとは、その人がどの次元にいるのかによって異なっています。

哲学や宗教や教えとは、世界中で同じ真理・実相を、
異なる言語や夫々の独特の言葉や表現で話しているので、
使われている言葉は一見異なっていますが、
真理は同じなのです。

しかしながら、
その人(魂からの私)が現在どの発達段階にいるのか?
その人の意識や知覚はどの次元のものか?

など、その教えを聴くその当人の段階によって
特に「思考や行為」に関しての教えは全く異なった表現となりますので
そのことを理解していないと
混乱する事があります。

地球上の人類全員が彼岸に渡って一つになるまでは
一人一人が異なった発達段階の次元にいて
異なる知覚認識の状態にありますので、
その「魂からの私」の発達状態によって当然教えも異なり、
教えの表現も内容も違ってくるわけです。

私達は本然では神の子であり、自他の分離が無いインパーソナルの私で
至高なる神の「霊である身体」の何兆とある細胞の一つである私、
即ち魂の私でありますが、この現象界にあっては、
その魂の「魂からの私(原因体・コーザル体)」の持つ透明度によって
夫々が異なる知覚認識、異なる次元認識をしており、
その当人に対する教えとは
その当人の意識の段階から、より高い次元へと上昇する為の教えとなりますので、
それぞれのその当人の発達段階の違いによって
一見すると矛盾するような表現内容になります。が、
それはその教えを受ける魂からの私の段階の状態によって
教えは異なるからです。

(※インパーソナルとは、非個人やノンパーソナルという「個人ではない」と言う意味ではなく
私パーソナルを内に含んでいると言う意味であります。それは汎個人ということ。全個人である私
のことです。汎個人とは「全ての私を含んでいる一切の私」と言う意味であって、それは全人類で
同一で一体の意識のこと。
サムシンググレート、創造主、宇宙、空、大生命、大霊、真我、大我、普遍意識の別の呼称です。
私達は通常自分のことを私・個人パーソナルだと知覚していますが、その知覚している私とは
自分をパーソナルな私だと思い込んでいる「聖なるマーヤ」「私という観念の私」であります。
インパーソナルの私とは、人類全てとひとつの私、一切万物と分離していない私、霊魂と繋がっ
ている意識即ち霊魂、あなたはわたしである私です。
私達は地球上の全ての人であるインパーソナルの私であり、私達は別々な個人だと知覚認識し
ていても実は全ての私は分離しておらず、全人類は繋がっていて意識は一つの意識です。
それを私達は繋がっていないと、私という観念と一体化して信じているのでその様に知覚しているのです。
自分は個人だと信じ込んでいる私自身は汎個人、インパーソナルな私なのだ。と、
「私はあなた」「私は万物一切」「自我即真我」「梵我一如」だと、覚者は言っておられるのです。)

本来は自他の分離のないインパーソナルな意識・神の子の私、魂の私であっても、その魂から
の私(記憶である現在のパーソナリティーと一体化しているコーザル・原因体の私)、地球上の
すべての魂からの私が魂であるインパーソナルの私に帰還し神の一細胞であることを自覚して
その惑星の人類全員が彼岸に渡り、一体となってアセンションしていない以上は
(その惑星の衆生が皆、得度救済され、その星の全人類が一つの意識となっていない以上は)
その惑星の人類が自他の分離という無明によって、その個人個人によって覚醒の度合いが異
なっているわけです。
それは即ち人体にたとえれば人体とは何兆という細胞の全てが一つの人体を形成しているのと
全く同じであります。どの惑星でも次元上昇し彼岸へ渡るときには一人も失われることなく
全員が一緒に一体となっていなければ次元上昇は不可能なのだというのです。

以上の文章を読んでいる方は自分とは単純にパーソナリティーと思っていることでしょうが
その私という個人のパーソナリティーとは全く私ではない脳が受信した記憶の反応なのです。
しかし、その反応である記憶が肉体の死後も生き残るので、その現在のパーソナリティーを
自分だと魂からの私が錯覚してしまっている訳なのです。

そして、ここでいう魂からの私とは頭脳と一体化して頭脳からの思考の記憶を私だと
錯覚している「魂と繋がっているコーザル体」の私の事です。

しかしこの「魂と繋がっているコーザル体の私」は魂それ自体の私ではなく
「記憶である現在のパーソナリティー」を自分だと思い込んでいる未熟で霊的諸体が未形成の
魂からの私です。

私達、魂であり神の子(セルフエピグノーシスの私)の段階は以下の様になっていると
言われています。

①本能的意識状態(次元)
 (魂からの私である霊的諸体が未形成で三つの脳からの欲望や思考と一体化している)
②無意識的(潜在意識的・受動思考、脳が受信した思考の記憶)意識状態(次元)
 (魂からの私である霊的諸体は脳からの記憶と一体化している)
③意識的(能動思考・各霊的諸体の状態での意識)意識状態(次元)
 (魂からの私は記憶である現在のパーソナリティーと一体化していることに自覚している) 
④超感覚的(高次思考、超時間空間的意識、観照者意識、霊魂の意識)意識状態
 (魂からの私である霊的諸体が徐々に形成され自分は現在のパーソナリティーではなく霊魂で
  あることを自覚している)
⑤超意識的(自他の分離の無いインパーソナルライフ普遍霊の意識)意識状態
 (魂からの私である私は魂と繋がり霊的諸体を自由に使用できる状態)

この上記のいずれかの状態・段階・次元であるのかによって、
それぞれの段階の人に対しての教えとは一見すると矛盾するような表現となりますが、
教えとは、その「魂からの私」を更に上位の実相へ、即ち普遍意識に導くためのものであるので、
必然的に当該次元からの上昇へと導く為の教えで段階によって異なった表現になります。

私達、自他の分離のない「魂であるエルフエピグノーシスとしてのIAM意識」とはどの次元でも
同じ神の子であっても、夫々の意識の段階・状態が異なるわけです。
しかしながら、魂が身に纏う霊的諸身体には未だに蛹のような状態から大空に羽ばたいている
状態まで「真理の種子」には開花の差がある訳なのです。
従って特に意識や思考や行為に関する教えはその「魂からの私」の発達段階に合わせて
最初は正しい思考や行為を促す教えだったのが、徐々に思考や行為から遠離してそれらに
同一化することなく思考や行為を観照するように促す教えに内容が変化して行きます。

また特に、思考や意識という言葉は同じ言葉でも、全く異なる次元と内容を指しているので、
この点ではインドの伝統的分類の表現が一番的確に示しているように思えます。
例えば思考や意識にはアハム、アハンカーラ、マナス、ブッディー、チッタ、チット、タマス、
ボーダ、ラジャス、サット、チット、アーナンダなどなどがあり
夫々が明確に異なる波動、異なるものを示しております。

ここでは思考というものを
・脳が受信している私という観念の記憶からの受動思考、(「今世での人格の私」の思考)
・永遠のアトム(魂と繋がる私)からの能動思考、(「各転生で継続している私」の思考)
・ハイヤーセルフ(魂)からの高次思考、(「転生していない魂本体である観照者」の思考)
・インパーソナル(真我)からの超越思考などと分類していますが、

これらを一括りに思考と言ってしまうことは混乱を招くだけで間違っています。
以下はその「魂からの私」の進化状況に合わせた教えの特徴を列挙しました。

①の本能的意識状態にいる人に対しての教えとは
  ●この次元では自我を超越するための自我すら未だありませんので、この本能的意識状態では
   動物と同じで、群れをなして行動し、性衝動と本能だけで毎日を過ごしています。
   寝て、食べて、SEXして、お金のために働き、競争し、自分は肉体だと確信し、社会常識
   の中だけで生きています。
   従って自我を発達させるために○○をしなさい、または○○してはいけない等の行為と結果
   を強調する教えとなります、 
  ●主に十戒やヨガで言うヤマ、ニヤマのような、しなさい、してはならない
   などという訓戒と勧戒が中心の教えとなります。
  ●正しく思い、正しく行為しなさいなど、行為と思考や感情そしてカルマが強調されます。
  ●八正道の教えなど
  ●「対象としての神仏」の礼拝、帰依など
  ●この段階の人の自己意識とは、性欲と支配欲・自我そのものであることにすら未だ
   気が付いていないので社会の常識の中にだけに生きており、成功しよう、一番になろう、認め
   られよう、金持ちになろう、長生きしようと努力し、死を恐れて生きています。
   そして自分はまともで愛情深く、頭が良く、正しく、他人とは異なっていて、私は肉体である
   個性を持った個人だと錯覚しています。
  ●霊的諸身体の存在など全く知覚されませんし、そのことに注意を向けることはありません。


②の無意識的(受動思考・脳の記憶を自分の意識だと錯覚している)状態に対しての教えとは、
  ●自我を発見し、何とか自我から解放されようと努力しますが、それが自我であることに
   気が付きません。
  ●自我の終焉を目指し、自我の放棄、あるがままの受容、五体投地などの実施。
  ●「見るものは見られるものである」「思考者はいない思考が起こっているだけだ」
   「行為者はいない行為は起こっているだけだ」等の教え
  ●肉体は私ではない、思考は私ではない等を説き、自分は霊魂であり神の子であること
   を強調して教える教え。
  ●私は行為していない、私は思考していない、等を説いて、現在、知覚認識されている自己
   意識とは、自他や万物と自身を分離する「私という観念」の受動思考であって私ではないこと。
   本当の自己とはこの受動思考に依って知覚認識されている私ではなく、その知覚し知覚される
   私は私ではなく、実在ではないこと、分離の知覚者とは受動思考であることを教える教え。
   思考の在り方や行為の仕方ではなく、思考や行為を思考や行為することなく注視させる教え。 
  ●自我からの解放に導く教え。
  ●自己観察、自己想起の教え。
  ●「思考なく見よ」「心なく見よ」「私なく見よ」など、自分自身を映画の中での登場人物を
   見ているように非難や判断や同一化や逃避なく観照者としての立場から観ることが求められます。
   心の思考や感情や行為を判断したり、同一化したりしないで、あるがままを思考なく観照する
   ことが求められます。
   起こっている全ての出来事に対して逃避判断なく受容し思考なく只観ることが求められます。
  ●ハートの中央にあるインパーソナルである真我に「魂からの私」の能動思考を集中させます。 
  ●しかしこの次元・段階にいる人は自分が自我即ち記憶によって完全に支配されている状態である
   ことに気が付かず、自分が思考して、自分が行為して、自分が生きていると錯覚してい
   ます。自分は肉体であり、自分は思考であり、自分はこの知覚であると思っています。
   思考し行為しているのは神からの純粋精神であることに気がつくことはありません。
  ●霊的諸身体は殆どごく僅かしか機能しておりません。


③の意識的意識状態の魂の人に対しての教えとは
  ●観照者の段階に至っていて、再形成されたサイコノエティック体を自由に使用できる
   段階(次元)。今までは記憶によって自我が思考や行為が占有していたが、
   頭上の霊・魂と繋がった「コーザル体の私」が思考や肉体や諸体を高次元の「霊・
   インパーソナルライフ・ハイヤーセルフ」と同調して、自我ではない、自他の分離
   の無い高次の私として思考や感情を使用して行うことが「魂からの私」に顕現する。
  ●思考や行為を真我が使う状態への教え。 
  ●魂からの高次思考、高次感情の通路となって三体(肉体脳・幽体霊体・魂と繋がる私)が
   魂の周波数に整合され、ハイヤーセルフと同調している状態。  
  ●超感覚的意識が行えるテレパシーやテレポテーション、遠隔治療、物質化、バイロケ
   ーション、など超感覚、超時間、超空間の移動の実施。意識の拡大と縮小。
  ●高次ノエティック体での自他の分離や時空を超えた愛の実践、宇宙人や他の惑星との交流。
  ●神が自我を使って演じていると言う教え。
  ●この段階の人は自分が生きているのではなく、生命が生きている。
   自分が行為しているのではなく行為は起こっている、自分が思考
   しているのではなく、思考が起こっている、自分が存在している
   のではなく、神が存在していることに気が付いています。が、未だ
   確証覚醒が起こっていません。
  ●霊的諸身体が再形成されはじめており、部分的に機能してきています。

④の超感覚的意識状態の魂に対する教えとは
  ●自他の分離が無く、時空間の制約がないインパーソナルライフの慈
   悲心に基づく、インパーソナルライフの教え。シャンカラの教え。
  ●神の子として人類の救済、衆生の済度、菩薩としての他の惑星の人
   類や魂の救済、
  ●彼岸からの菩薩として、大天使と共働しての地球人類への慈悲と救済。
  ●この段階の人は私はあなたであり、私は世界であることを実感しています。
   私の中に神がいて、私の中に宇宙が有ることを知覚認識しており実感しています。
  ●霊的諸身体が再形成されて霊魂との繋がりが回復してきています。

 
・・と思うのです。