魂の私に意識を向けよう!
魂の私・インパーソナル(非個人)である真の私(真我)の中へ入っていこう!
私が自分だと思っているこの記憶の反応の私は、魂と繋がっている私ではない.
・・この事を信じよう。
・・この事を信じている私とは、信じている限りは、いまだ記憶の反応なのだ。
・・なぜなら「魂と繋がっている私」であるなら、信じる信じないではなくて
事実として理解しているからである。
私達、地球人が私自分自身だと思い込んでいるこの私とは記憶の反応なのだ。
そしてその「私とは記憶の反応だと思い込んでいる当の本人の私」もその記
憶の反応なのではないだろうか。
それら記憶の反応である私のことを、即ち「自分を観察している私・観察者」の
ことをもし、研究員が「モルモットの動きを見ているように」観ることが出来
ているなら、
それは「観照者=魂からの私」であることでありましょう。
それはとても難しいことなのですが
恐怖に出会ったときに恐怖に愛を与えることが出来るのか?ということです。
それは「恐怖に怯え慄いている私を対象として観察している観察者の私は、
その恐怖である」ということを看破している「魂の目」のことだからです。
条件付けられている脳の結果・・・それは記憶のことですが。
それは自分(他者)を対象として「見る者と見られるもの」とに分離して
観察している記憶・・即ち、それは、この私なのだ。ということでありま
しょうか?
現在私達とは親鸞の言うように「罪悪深重の凡夫」であり、私達を生かして下さ
り「息」し、「心臓」を動かしているのが「阿弥陀如来」「天照大神」「大日
如来」「真我」「サムシンググレート」「アッラー」「キリスト」であるのに、
この「罪悪深重の凡夫」は自分が主体で自分の力で生きていると確信しており、
その「罪悪深重の凡夫」が「罪悪深重の凡夫」の自覚がないまま長いことかけ
て築きあげてきているのが、この地球文明社会なのであります。
高次の教えによれば、この記憶である私「罪悪深重の凡夫」とは魂の私の表面
を覆い尽くしている「私という観念」・根本無明だといいます。
魂と繋がっている私が、記憶の反応の私を私だと確信してしまったのだ。
と教えられている。
・・だからこの私即ち記憶の反応の私は
本当の私・魂の私に向かって進んで行こう!
本当の私を信じて本当の私の中に入っていこう!!
神の子の私を信じて神の子の私の中へ入っていこうではありませんか!!
私は神の子であることを信じよう!
この脳の記憶の私は、本当の私・魂の私に意識を向け
真の私に助けを求めよう!
未知なる魂の私に向かって両手を差し出そう!!
本当の私・魂の私に意識を向け、
感謝し、愛を捧げ、全託しよう!
この私である記憶の反応の私(教育を受け育ってきた私、肉体を私だと
知覚してる脳の記憶である私)とは「神の子である本当の私」ではない
ことを信じるのだ!
この意識的自己とは実際には意識的自己ではなく記憶の反応であるこ
とを理解するのだ!
未熟で殆ど魂とのパイプが詰まってしまっている私が私達だと教えら
れている。
「目が開いていない状態だが魂と繋がる私」が可能性の有る私だ
・・ということを信じるのだ。
この「目が開いていない状態だが魂と繋がる私」が
条件付けられている脳が受信した思考の記憶に
完璧に包まれ、覆われ、自己同一化し、記憶と一体化しているのだ。
だから、現在の表面意識であるこの記憶の反応の私は
本当の自己とは魂と繋がっている私であることを
信じて
魂の私(真の私・ハイヤーセルフ・インパーソナルの私)に全託し
どうか教え導いて下さるようにとお願いしようではないか。