わたしの主体は大生命、大叡智、神我。
【以下は、朝、目醒めた直後に時々思ったりすることがあることです】
(呼吸や心臓の鼓動を聴いてつくづく思ったりして)
生きているのは私ではなく、私がいきているのではない。
(思考や想念が沸き起こってくるのを観察し、行為という筋肉の働きを
観察して)
わたしが思考し、行為しているのではない。
呼吸し生きて、思考し、行為しておられるのは神である。
わたしは大生命の演技、神のつけておられる仮面、最高傑作である
脳内に生起する驚異の脳内伝達物質の記憶の反応。
生きておられるのは神ご自身である。
この受動思考や行為とは
神がDNAや脳内物質や神経や筋肉を使い記憶を使って思うように思い、行っている。
大生命・神が何百億の異なる細胞を一糸乱れずに生かしておられるように
大生命・神が百億の特色ある意識と異なる指紋と特徴を持った個人・人格
と言う記憶を用いて思考し、行為し、演技して、生きておられる。
(よくよく自他を観察すれば分かるように)
この自我は個人ではなく、自分は「肉体を持つ個人だ」と錯覚している自我。
自我とは地球で一体で一つの「私という観念」「根本無明」だ。
自我は世界でひとつの特定の個人ではない人類で同一の根本無知の私だ。
このわたしの主体は神であり、私ではない。
私(自分が行為していると実感しているもの)は神の演技、神の仮面。
わたしは非実在。
私は何も思考しておらず、呼吸もせず、生かすことも出来ず、何も行為もしていない。
思考も行為も想念も人格も全てはカルマと記憶から起こっている。
特徴ある肉体を持つ個人として神が生きて行為して、思考しておられる。
その自分が行為し、自分が思考していると錯覚しているのが記憶、自我だ。
魂の私は、その肉体・脳と諸体と結合し、自分が肉体であり諸体だと錯覚したのだ。
神がカルマと記憶を使って肉体と思考体行為体を通じて
個人・わたしとして思考し、行為しておられるのに、
自分が行為し思考していると思い込んでしまい輪廻に巻き込まれてしまったのだ。
それを観照しているのが魂の私であり
起こっている行為と起こっている私と起こっている思考を愛し、感謝している。
その真我(ブッディー・アートマン)である魂の私は
行為しておらず、思考しておらず、只々気づいている。
虚偽を虚偽と見ている目、観察者は観察される者であることを見ているのは
記憶である私ではなく魂の私である。鏡の私である。
鏡として・・。高次霊的諸体のわたしとして・・気づいて観照している。
神から起こっている行為と思考を仮面の私の演技と演技している神を愛し
観照している。
そのことを本当に領解したとき
真我から魂を通して
この演技の私を通じて
高次の行為と高次の思考が起こる。
個人のわたしを超えたインパーソナルのわたしの思考と行為が起こる。
従ってそのとき
アートマン魂とブラフマン神は一つになっているのである。
と信じている。