汝はそれなり・・ウパニッシャド

2024/10/20(日)
汝はそれなり・・ウパニッシャド

これはどういう意味でしょうか?
未熟な私が推測するに・・

それに関しては
色んな言い方があります
・見るものは見られるものである
・主体は客体である
・梵我一如
・観察者は観察される者である
・私は世界である
・あらゆる者の目は私の目であり、私の中にあらゆる者の目がある
・石を割ってみなさい、そこに私がいる
・「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」
・私はあなた、あなたは私
・私の中に宇宙はあり、宇宙が私である。
などなど表現は異なっていても意味は同じです。

これらの言葉は自分の目から「自他の分離という無明」が取り払われた状態、
即ち主体と客体の分離が取り払われた「本来の鏡」の自他一如の意識状態
の目から見たことであることを(脳が活動を停止しても途切れない高次意識)
示しています。



では翻ってこの現在の私達の状態はどうでしょうか?

恐怖を観察し、自我と格闘し、肉体の死を恐れている私、これらの
私とはこの「本来の鏡」を覆っているこの「自他の分離という無明」
そのものなのではないでしょうか。

この無明と一体化してしまっているのが私達なのではないでしょうか?

この「自他の分離という無明」とは、地球で同一で万人共通の私という観念
の意識であり、人類で一つの集合無意識です。そしてその集合無意識がこの
「私を覆い尽くしている私という思考」です。

実は私達全人類が「私」だと思っている一人一人のこの私とは、この
地球で同一の根本無明、人類でひとつで同じ「私という観念」なのである
と思うのです。それが記憶なのです。

その人類で一体の集合無意識である記憶は
神が演技している個別の私、それは特定のプログラムを持ち個性を持っ
た私であるとも言えそうです。

異なる肉体や諸体にこの「私という観念の自我」が結合し、この人格の
私となり、この「私という観念の自我」と一緒に肉体に結合した「本来清浄
な鏡の私」が肉体や諸体やこの「私という観念の自我・人格」を自分だと
錯覚している魂である私なのでありましょう。

そして、それが転生していると思っている私なのではないでしょうか。
転生で色んな「人格という服」を取り替えひっかえしてきたからです。

ですから、地球が次元上昇してアセンションするためには、地球の人
類の全員であるこの「個々人の私である人類の集合意識」である私達
自らが「自分は個々人ではなく人類だ」ということを悟る必要が有る
のだと思われるのです。

次元上昇して彼岸に渡るのは人類の全員が一緒であることでありましょう、
何故なら、私達は個人個人で独立し分離していると錯覚していても全員が
ひとつで地球で一体のこの人類の集合意識だからでありましょう。


この人類の集合意識であり、「私という観念」という根本無明であるこの
私達が、自分自身のことを客観的に観察対象として知覚し判断し、認識して
自分が行為し、自分が思考していると錯覚しています。
自分を非難したり、自分から逃避しようとしたりしているのです。

行為し思考しているのは肉体であり、脳であり、諸体であって肉体や
諸体に結合した「私という観念の自我」でもなく、その「私という観念の自我」
と一体化している魂の私でもありません。

この「私という観念の自我」の私は決して「見るものは見られるものであ
る」を理解出来ません。

自我を対象として知覚認識している自分自身が自我なのに、自我で
ある私は自分自身を対象として観察して、自我を恐れ、自分から逃避し、
自分を良くして、自分を改善しよう、悟ろうとしています。
神が自我を使って、自我を演じておられるのではないでしょうか!?

そして思考し行為しているのはこの「自分は自他に分離していると錯覚す
る」自我ではなく自我を演じている神なのではないでしょうか。
そしてその起こった行為の直後に「私という観念の自我」は自分が
思考し、行為していると錯覚するのです。

この自我は自分を観察対象として自分自身を分離して自分を知覚認識
しています。そして自分は主体であり、自分が思考し、自分が行為し
自分の人生を自分が生きていると本気でそう思っています。

しかし如何に自我がその様に自分が主体で客体は自分ではないと錯覚
していても思考し行為し選択したのは神なのです。

さらに自我が知覚している外世界や内世界は自我と分離していないというのです。
自我には外部は内部であり、「見るものは見られるものである」ということが
理解出来ないのです。

怒り狂い、恐怖に怯えている私を観察している私とは誰でしょうか?
それは、恐怖である私が恐怖を対象として観察し怯え恐怖して
いるのではありますまいか。

またそれと同じように

その根本無明は、自分が対象として知覚している世界とは、自分を映し
ているのであり、本当は自分は世界と一つなのに、その世界と私は別だ
と知覚し、私は個人で他の敵や味方とは別の存在だと錯覚しているのです。

真実は「私は世界であり世界と私は分離していない」「私はあなた」な
のだといわれています。

この「自他の分離という錯覚をしている無明」が世界を、目の前の相
手や、他人を、物を、また内面に於いては同じように恐怖や嫉妬や暴力
や自我などの一切を対象として知覚しています。

自他は一つであり、私は世界なのに自他は分離し、世界は対象だと錯覚
しているこの私は、鏡である私を覆っている私という観念、即ち根本無明な
のでありましょう。

この自己や他人や世界や相手を私ではない対象と見ているものが
自他の分離を知覚する無明なのです。そしてその錯覚をしている無明
が根源的恐怖なのでありましょう。

自己を対象として観察しているのは自他の分離という無明であり、
家族や友達や敵や味方、天使や悪魔を対象として見ているものは
自他の分離という無明すなわち自我なのではないでしょうか。
そしてその無明が神聖なる神のマーヤなのでありましょう。

この「鏡である私」を覆う自他の分離という無明が「神の器で
ある肉体」を自分の肉体だと錯覚し、器が死ぬことを恐れて苦
しみ悲しむのです。脳と一体化しているので脳が目覚めると目
を覚まし、脳が眠ると一緒に眠って夢を見るのです。そして起こって
いる思考や行為に対して反応するのです。

ですから
この冒頭の賢者達の言葉が真実・実相を述べているのです。

根本無明が起こしている自他の分離、観察者と観察される者との分離
分割の知覚は錯覚であり嘘なのです、虚偽なのです。

「わたしはあなた」「わたしは世界」が本当の真実、本当の知覚であり
自分を観察し、家族や敵や天使や悪魔や世界を対象として見ている私
とは自他の分離という根本無明なのであります。

ですから
この私は「内なる私」に全託し、全てを受け容れ、五体投地しなければ
先に進めないのです。
そしてまた
自我である私達の意識は一つなので人類は揃って一緒に彼岸に渡らねば
なりません。自我の大元に帰還しなければなりません。

結論として以下の様に私は信じています。

この私、私達は主体・私ではない。主体私は神である。
生きて演じておられるのはこの私ではなく「神である私I AM」である。
この記憶の私、人格の私、私達は神の演技、仮面である。
生きて演じておられるのは神であり、仮面の私、演技の私ではない。
神が私という観念を使って自我人格を演じておられるのだ。
この演技であり、仮面である私自らは私・主体ではなく、真の私はI AMである。
演じておられる神こそが私であり、あなたであり私であり一切で在る。
この内なる「インパーソナル・非人格の私」こそ万物一切の私である。
ということである。