呼吸によって健康を維持するプラーナヤーマ

2024/10/16(水)
プラーナヤーマとは
〈能動思考〉を駆使し
呼吸をコントロールすることによって
肉体を健康に保っているプラーナを活性化する行法のことです。

特定の患部で呼吸をすることでプラーナを動かしその部位を快癒して
いくヨガの行法です。

ここでハッキリしておきたいのは

このプラーナヤーマ行は受動思考と言う「記憶の反応である私」が行うの
ではなくて
「魂の私」に繋がる私』が行う能動思考のワークだということなのです。

私達の意識では
一般的に「思考」と総称されている左脳からの受動思考(自我意識)だけが知覚
されていますが、その受動思考は自動的に或る状況下に於いて自動的に起こって
しまっているので私達にはコントロールすることが出来ません。意志に関係なく
起こってしまうからです。けれどもこの受動思考とは自己意識でもあるので
私達の意識に知覚されるときには「私が思っている」と間違って知覚されてしま
うのです。

その受動思考とはカルマに従って或る状況下で本能的に、且つ条件反射的に、
自動的に起こっている思考とそれに伴う行動のことです。

けれでも
私達にはそれ以外に「魂の私」に繋がる私(サイコノエティック体)が行う
右脳からの能動思考があります。
(しかしながら私達は殆どこの「魂の私」に繋がる私からの能動思考を使っ
ていません)

そこで
受動思考ではなくてこの能動思考に依ってプラーナヤーマを行うことが
大切なわけです。

深く静かな呼吸を意識的にコントロールして使い
それによって呼吸と共に動くプラーナを円滑に巡らせて私達が宿っている肉体の
健康を維持することが出来るということなのであります。

さて、今回の転生で私達が身に纏ったのは肉体だけではありません。
「条件付けられている脳からの記憶」と言うサングラスを目に掛けているのです。
私達はこの「脳というサングラスを付けていること」を忘れています。
私達はそのサングラスを付けて自他を観察し、他者や世界や宇宙を知覚しています。
そのサングラスとは「時間と空間」「自他の分離」「私という観念」などなど
の聖なる「根本無明」でもありましょう。客体が主体なのに、私が客体を見ている
主体だと全く逆に錯覚しているといわれているのです。

従って私達は自分が見て観察していると思っていますが、実はそのサングラスが見て
観察しているのです。自分を見たり、他者を見たり、世界を見たり、宇宙を見たり
して、考え行動しているのは私ではなくてそのサングラスなのです。
ですので対象を見ているものは誰かということでありますが、通常は私が見ている
と誰もが思って疑いませんが「見るものは見られるものである」と教えられています。
実は見ている私とは見られている対象であり、主体とは客体で在ったと言うことです。
私は非実在であり、あなたが私であり、あなたが本当の私だったのですと言うのです。
真の私とはあなたなのであり、そのとき私は一切万物であったということなのでしょう。

無我であるとき、目の前のあなたが私であり、世界が私なのですと。

しかしそのことを思考しているのが能動思考です。実際に覚知しているの
ではありません。・・・

ですから一般的に思考と呼ばれている思考にはこの受動思考(記憶の反応)
以外に私達には「魂と繋がる私からの能動思考」もあるのです。

また現在の私には未知であるけれどその本体である私達自身とは、
それは鏡であり、神の子であり魂なのです。が、その神の子の私は、この受
動思考や能動思考の私にとっては未知であり未だ顕現してもおらず「魂からの
私」には知覚されてもいません。

この「魂と繋がる私」は神の子であるのに残念ながら未だに目が開いてい
ないので、眠った状態のまま、又、高次霊的諸身体も再形成されないまま肉体
や記憶の反応の私と一体化してしまっています。

そして肉体がカルマに従って起こしている行為を自分が行為したと錯覚する
ことで、その肉体の行為のカルマに再び巻き込まれていきます。

私達は教育や文化文明や常識によって、又、左脳からの反応である受動思考
に独占されていて、左脳優位になってしまっているので、殆どその貴重
な能動思考という贈り物を使用しないままでいます。
私達である意識は殆ど眠った状態で且つ左脳に偏って脳に接続している
のです。

それは丁度、両手足をもぎ取られてしまっている状況なのです。

それは思うことのすべてが思考であると一括りにされてしまい
この能動思考まで受動思考と一緒くたにされてしまった、ためです。

しかしながら、此処で言うこの能動思考は受動思考の停止に伴って顕現する
と言われている魂の私・ハイヤーセルフからの高次思考ではありません。
ハイヤーセルフからの高次思考はこの能動思考の私にとっては未知なる
高次思考であり、クリシュナムルティーなどはそれを「気づき」と称していて
高次元からの思考と行動で在ると言っています。

この高次思考は脳の影響を超越しているので、熟睡中にも覚醒していると
云われています。高次思考とはこの私達である「記憶の反応」にとっては
未知なる私自身、私の本体なのです。

この高次の私とはこの「自我を背骨とする既知なる私」「転生をして数
多くの経験を重ねている私」「体験者や経験者の私」ではありません。

体験には体験している私がいて、その私こそが自他の分離の錯覚をしている
サングラスという根本無明なのでありましょうか。

私達の私とは「本能の私」「受動思考の私」「能動思考の私」で構成されて
いますが、それらは一本の糸で結ばれています・・それらの私がこの私
、即ち自我であり、その自我こそが私の背骨である記憶の反応、万物と
離していると錯覚している私「根本無明」なのでありましょう。

では、この受動思考や能動思考そのものではなく、それらの思考を起こし
ているのはだれでしょうか?
高次の意識から見れば実際には起こしているのではなくて、その受動思考
も能動思考も起こっているのでありましょうか?
インドの聖賢達は「神が私と言う自己意識を使って演じている」と言われ
ております。

さて話は元に戻りますが思考が起こっているのを見ている私は受動思考や
能動思考を起こしている記憶ではなく、【「魂の私」】=鏡の私です。
「見るものは見られるものである」と見ているのは既知なる、サングラ
スの私ではありません。私達には未知なる私です。

しかし此処で注意しなくていけないのは【「魂の私」と繋がる私】とは
「魂の私」高次思考と呼ばれている私なのではありません。

【「魂の私」と繋がる私】とは転生している私であり、各転生において同一で
継続している未形成のサイコノエティック体の私であり
【「魂の私」と繋がる私】が肉体脳に結合し、その時々の転生時に於ける記憶の
蓄積が人格と呼ばれている私で、その人格の私は死後に霊界や幽界に生き続けるが、
今生での記憶体であり、その記憶体・人格は転生を続けている【「魂の私」と
繋がる私】に収納されるのですと教えられています。

それは丁度首に掛けている首飾りの真珠玉一つ一つと似ています

霊的解剖学によれば
首飾りを首に掛けている人が「魂の私」であり
首掛けている一つ一つの飾りが「今生での人格」であり
その首飾りのひとつひとつを纏めている一本の糸がコーザル体という
輪廻転生している【「魂の私」と繋がる私】なのですと。

この能動思考の私とは魂の私と繋がってはいるけれど未だに目が開いていない
状態の私なのです。
それは表面が「自我=私という観念=自他の分離」で覆われて曇っている鏡な
のです。

それに引き替え高次思考の私とは真我を構成している「魂の私」、神の子の私です。
鏡本体、本来の鏡意識なのです。綺麗にお掃除された鏡の私です。
鏡とは神道で言う三種の神器の鏡なのです。剣はチャクラを含む高次霊体、
勾玉とは神の霊魂のことでありましょう。

残念なことにこの現在意識の私とは未だに眠ってしまっている「受動思考と
一体化してしまっている魂と繋がる私」、即ち「未形成のサイコノエティック体
の私」のことです。
そしてそれが起こす意識が能動思考なのです。しかしながらこの両者とも
未知なる本来の私ではありません。

高次思考の私とは目が開いている魂と繋がった私本体「再形成されたサイコノエ
ティック体の私」のことでもあります。
三体が再び整合した私のことです。

【※ここでいう本能思考、受動思考、能動思考、高次思考、超越思考とは
全てを統括して「意識」に括られますが、この意識の階層をより具体的
に示すために敢えて思考の段階・ステートとして記述しています。
思考(マインド・意識)は以下の様に各状態、各振動数、即ち異なる
次元で知覚段階が異なっています。

※以下は意識面から見た肉体及び脳と結合した「私」の詳細です。

本能思考(本能的意識段階の状態・アンナマヤコーシャ・プラーナマヤコーシャ)
受動思考(条件付けられた脳の記憶である潜在意識段階の状態・マノマヤコーシャ)
能動思考(魂の私と繋がっているサイコノエティック体の各段階の意識状態
     ・ヴィジュアナマヤコーシャ
             このヴィジュアナマヤコーシャはセルフエピグノーシス=意識体とも呼称され
    細胞の中にも入れるほど小さくなったり地球を包むほど大きくなったり
    縮小拡大が自由自在であると言われています。私達は肉体と同一化して
    いるのでセルフエピグノーシス・自己意識が拡大しないのです。)
ーここまでが既知なる私即ち記憶の反応の私であり鏡本体ではありませんー
高次思考(魂の私である観照者・神の子の意識状態・アーナンダマヤコーシャ)
超越思考(神道で云う時空を超えている一霊の超意識状態・アートマン・ブラフマン)
という私達にとっては未知なる更に上位の各段階があると言うことです。】

此処で言うこのサイコノエティック体の私が魂の私に繋がっている私なわけです。

私達には殆どというか全く知覚されていないが頭上にあってこの私達を導き
観照している「高次思考」のわたし「魂の私」(ハイヤーセルフ・イ
ンナーセルフ)であると言われています。

それが神の子の私と呼称されています。
本体の私などという人もいます。
鏡本体の私です。それは鏡を見ている私即ち観照者であり鏡に映ってい
る私なのではありません。鏡の私です。

以上の状況は各時代の各派の覚者によってそれぞれ異なる言語で表現され
ていますが内容は同じです、何故ならば人間構造は共通なので地球人でも
宇宙人でも全く構造は同じだからです。

いずれにせよ
殆どの不二一元の書物では全ての思考を単純に思考と称しているので
私達は混乱してしまうのですが、覚者はその不二一元の立場から「思
考なく見よ」と語りかけているわけです。・・

しかしながら私達にはこの条件付けられている脳からの思考即ち自我
の特徴である記憶の反応である受動思考や能動思考以外にも、いわゆ
る覚者の云う思考ではない意識に属する高次思考があるのですが
覚者達はこの各次元の思考を区別していないので注意が必要なのです。

彼岸からの見解によれば「思考者はいない思考が起こっている」
「行為者はいない行為は起こっている」というのでありますけれど、
此岸という現象世界(物質界、幽界、霊界)である輪廻している世界に
いると知覚している限りは(覚醒していない限りは、即ち輪廻している
限りは、即ちカルマの世界にいる限りは)、

私達にとって大切なこととは自由意志を駆使すること、即ち覚者から見
た場合には非実在であるこの私の能動思考である自由意志を使役して
この三界現象世界(カルマの世界)で正しく行為し、正しく生きること
が必要なのだと思われます。