難しい瞑想や、深遠な哲学ではなくて、誰にでも分かる極々当たり前のこと
を話したいと思いますが・これは常識ではありませんが正しいことです。
誰もが自分は自分のものだと思っていますが、この私は私のものではありません。
この私は私のものではなく神のものであると言うことです。
それは人間だけではなくて一切万物が同じです、一切万物は同じ素粒子で構成
されているのですから。
この私は自分が自由意志で自分の力で生きていると思い込んでいるのですが
何兆という細胞を一瞬の狂いもなく働かせ、シナプスやニューロンを規則正
しく動かし、行為し、思考し、知覚し、記憶し、自分として生きておられる
のは「私という自己意識」ではありません。それは神である大生命です。
それは人間だけではなく他の生物の「自己意識」を見れば一目瞭然です。
肉体は私のものではないのと同じで、意識や知覚や認識も、そして私自身も
私が創ったのではありません。私「自己意識」は起こっている結果なのです。
神がこの私も、自由意志や行為も思考や感情も起こし、自己意識を生じさせて、
私という仮想主体を創りだし、その仮想主体である記憶を使って神が私として
生きておられるということであります。
この人類である私の意識や意志や行為に関してですが、通常私達は
「自分が行為して、自分が思考して、自分の記憶で、私が生きている」
・・とそのように思っていますが、この私は・・実際には存在していません。
私とは架空の実体のない記憶なのです。自分の意識だと誰もがそう思っているのは
それは意識ではなくて受動思考であり脳が受けとった記憶の反応なのです。
そしてその記憶の反応がこの私なのです。意識なのではありません。
神の演技である肉体や私は、それぞれの行為の結果を背負って生きています。
それはどの人種に生まれ、どの家族で、その様な運命かを決定しているのは
神聖なるカルマであり、すべてはカルマによってプログラムされ実行されて
います。
カルマが成長と老化と寿命を決定し、身体的特徴や才能の有無を決め、起こる
べき出来事を起こるべき時に起こしています。
これは肉体に宿って脳と一体化した私達が自らの「I AM」に到達しない
限りは避けることは出来ません。カルマによって決定されていることは数学
的正確さで、必ず起こるのです。
ですので、この私とは神が演じておられます。
しかし、この私を魂のハイヤーセルフから見た場合、即ち更に上の次元の真我から
見た場合、私は虚構であり、わたしはいないのです。私は神の演技、神の映像です。
思考し、知覚し、行為し、呼吸し、欲望し、意識し、自分だと思っている
この私とは私ではなくて脳が受信した記憶の反応・・それは神の演技、神が支配
しているカルマの縁起(演技)なのです。その神の演技を肉体と結合した
私達神の子は自分自身だと錯覚してしまっているのです。
脳は自分のものではありませんし、霊的諸体も私が創ったのではなく、私
のものではありません。実際にはその逆で、この私こそそれらの結果なのです。
起こる出来事、良いことも悪いことも、成功や失敗も、災難も病気も全ては
カルマに従って正確に一瞬の狂いもなく起こっているのです。
筋肉や神経回路や伝達物質も血液も内蔵も勿論、私が創ったのでもありませんし
、感情や自己意識や、思考や記憶や欲望や行為もそれらは起こっているものです。
内部と外部の出来事はカルマに従って一瞬狂いもなく起こっているのです。
最近の研究結果でも明らかなように自由意志や行為は起こっているのであり
私とはそれらの起こっている結果である記憶であり、その記憶が「私は自分の
自由意志で行為して自分が自分の人生を生きている」と錯覚しているという
のです。
従って実際には私が自由意志に基づいて私の人生を生きているのではなくて
その逆に神が私として肉体を使って思考し行為して生きておられるわけです。
思考や自由意志や行為は起こっているのです。そして私も起こっているのです。
主体は神なのです。生きておられるのは神なのです。
私が人生を生きているのではなくて、神がカルマを使い私として戦い争い嫉妬
し殺し合って生きているのです。
私が怒ったり、私が嫉妬したり、私がプライドを傷つけられたりして、悩んだり
苦しんでいるのではなくて、その自我である私は創られて演じられて
いるのです。私は結果であり、存在していないのです。
私自身も、思考も、感情も、成長も、老化も、健康や病気、失敗や成功
も内面の感情や衝動も、そして起こっている全ての運命は神の演技なのです。
感情や思考や欲望や自我は私のものではなくて、神がそれらを使って
生きておられるのです。
私が見ることや、記憶することや、感じる事や知覚認識を創造したの
ではなくて神が五感や知覚や統覚認識を創って神がカルマを使って私
として生きておられるのです。
指紋は自分が創ったのではなくて神が創っておられるように知覚も認識も
意識や記憶や自己意識も、個性ある私も障害者も天才の私も身体的特徴も
運命も神が創って神が演じて生きておられるのであります。
神が一人一人の人間として思考し行為しているのです。
ですのでその個人の運命とは私のものではなくて神のものなのです。
では賢者が語る、魂で在る神の子の私とはどうなのでありましょう?
それはこの起こっている事の結果である私には全く分かりませんが、
その高次元の意識が話す「私は肉体ではない」「私は思考ではない」
「私は心ではない」という思考や記憶を超えた知覚・・幽界や霊界や
神界を超えている高次元の意識に拠れば「見るものは見られるもので
ある」「主体は客体である」「全てはひとつ」ということだそうです。
記憶ではない私は肉体でも思考でもなく愛であり霊だというのです。
ただしこれらの知覚認識は、私達のいる現象三界を超えている実在界
の存在ハイヤーセルフ(霊魂・真我)の知覚なのです。
それら実相や真の私という神の子のハイヤーセルフの事は、神のロボ
ットであるこの私には知るよしもありません。
ですからクリシュナムルティーやラマナ・マハリシ賢者達は超高次元から
記憶ではない魂と繋がる私、
肉体に入って脳と結合した私、
「”神のロボット”を自分だと錯覚してしまっている神の子の私」に、
即ち目がよく開いていない神の赤子である魂と繋がる私・鏡に対して、
「あなたは肉体ではない」「思考なく見なさい」「私なく見なさい」
「思考や行為は起こっているのであり思考者や行為者はいないのです」
と語りかけ続けているのです。