悩んでいる私を見ている私を直視しなさい

2024/10/02(水)
悩み心配している私を見ている私を見なさい!直視しなさい!
これは
「悩み心配している私を見なさい」ではなくて
「悩み心配している私」を見ている「私」を見なさいということ
即ち
観察している私、見ている私、知覚し認識している「私」を見なさい、
ということであります。
その観察者を見ている「”私”は観察者ではない魂・観照者である」と
いうこと。

「悩み心配している私を”見ている私”は悩み心配している私である」と
いうことを見なさい。
「見るものは見られるものである」と言うこと。
「見るものは見られるものである」と言うことを見ているのは「見られる
ものであり見るもの」ではない魂・観照者だと言うこと。

「自我を見て自我を非難しているのは、その自我である」と、覚者は言っ
ています。

それは鏡を見ている私は鏡に映っている私だと言うことなのです。
それは我の心であり、本当の私は鏡そのものだということなのです。
そして本当に「見るものは見られるものである」の理解があるとき
そこに愛が顕現しているというのです。
見ている私主体は見られている世界と分離していないワンネスだというのです。
そのときそこには魂の私が顕現しているというのです。

何故ならば「見るものは見られるものである」を見ているとき分離が無く
主体と客体の分離が無く、そこに真理=愛が顕現しているからですと。

この話はとても複雑なのです。
この話は、前提として内面に充分に照明をあてている事が必要なのです。

通常、私達は人生で思い通りに行かない時は悩んだり苦しんだりしますが、
誰もが、その時に「その悩み苦しんでいる私は誰か」などと、その苦しみ
や恐怖を知覚している私に意識に焦点を当てることをしません。

その「悩み心配している私」を見ている「私」とは、「悩み心配している
私自身」のことを観照している私です。その私が観察者を見ている観照者です。
それが「魂と繋がっている私」なのだと、仰っておられるのです。

ですので
欲望や自我や衝動を見ている私、その「観察している私」とは「観察されている
私」である欲望や自我や衝動であることを見なさいと仰っておられるのです。

「心配し恐怖でおそれおののき震えている私」のことを「見ている私」を
直視しなさいと仰るのです。「恐怖を見ているものは恐怖である」と見ている
私は恐怖と分離しておらず、分離していないのでそこに愛があるというのです。

「心配し恐怖で不安でうち震えている私」のことを「抱きしめている
私」を直視しなさいと仰るのです。
これは自己観察であると同時に自己想起でもあるのでありましょう。

エレブナではこの記憶の反応(この記憶は自分を私だと思っている)を見て
いる私の事を「サイコノエティック体」と言っていまして、この魂と繋がる
霊的身体(天の心)を育てることが大切だと教えています。

黒住宗忠師はその「記憶の反応である私」を観照している私は「神の子」の私と
繋がっている私であり、この「神の子」の霊的身体である「天の心」を大切に
育てなさい!と教えておられます。ここはホ・オポノポノと同じです。

オコツトから指導を受けた半田広宣さんは、私・人格という記憶の反応を
見ている「高次の意識」の目を「次元観察子」と云い、四次元を観察して
いるところの上位次元の魂の目であると言っています。

これらは少し複雑ですが受動思考ではなくて能動思考で理解出来ることが
らなのです。

クリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」ということを
見ているものは「分離した私」ではない高次の私、「自他が分離していな
い高次元の気づき」だと言っています。

それらはいずれも
観察者を見ることが観察者からの解放を齎すのだと教えられております。

見ている私を見ることが、見ている私からの解放を齎すと教えておら
れます。

「自分は肉体だと思っている自我」を見ることが「私は肉体だ」という錯覚
からの解放を齎すと言われております。肉体は至高の叡智の結晶なのです。

では、この自分の観察者、この恐怖を見ている観察者、自我の観察者と
は一体誰でしょうか?

それが自我です。
そしてその自我とは、他者は私と異なっている対象とみているこの私なのです。
そしてその自我が、思考し、行為していると思っているのですが、私自我は
自分自身は他者とは異なる個人だと確信しており、この私とは神の演技である
ことを決して理解しません。

思うこと、行うこと、信じること、感じること、はこの私である自我を使って
神が演じていると言うことでありましょう。
思うこと、行うこと、信じること、感じる事、そして何かに至ろう、成功
しようと努力し頑張っているのはこの私自我なのです。
産まれ育ち学び一生懸命に努力し、自分を見、世界を見て、行為している
のはこの自我なのです。

この自我は肉体にいて思考することで常に肉体を傷つけ苦しめています。
思うこと、感じる事、願うこと、行うことの全ては自我が起こしています。
肉体は神の宮であり一切万物と分離していないのに、思考と言う自我は
常に自分は万物と分離していると錯覚して肉体を傷つけています。
自我は常に「真我になろう」「自分から解放されよう」と努力しています。
自我は決して「あるがままをあるがままに観ること」が出来ません。
自我・・それがクリシュナムルティーによって教えられているように
それは記憶の反応である観察者であり、無知無明、神のマーヤではな
いでしょうか。
記憶が自分自体を見る者と見られるものに分離し分割しているのでしょう。
そして自他は分離している、世界と自分は分離していると錯覚しているのです。

観察者は観察されるものなのではないでしょうか。
他者や世界を対象として見ているものは他者であり世界であるのです。観察し
観察されているものが、自身を分割し分離して観察しているのでありましょう。
ですので
クリシュナムルティーは「恐怖を見ているものは恐怖である」と言っています。

鏡に映っている「我の心」とは鏡を見ている「我の心」であり、それは鏡ではない
のです。鏡に映っているものは本当の私ではありません、鏡が本当の私なのです。

イライラや心配を観察し見ているものはそのイライラでありその心配なのだ
と言うことです。

「見るものは見られるものである」ということなのです。
「私である自我」を見て観察している私が自我であるということを見てい
るのが「魂と繋がる私」だと言うことです。

ホ・オポノポノではこの自我の観察者、自己イメージを持っている私、
恐怖に慄いている私を見て、私を非難したり何とかしなくてはいけないと
努力し祈ったりしているわたしのことを「記憶の記憶による条件反応」だ
と言っています。そしてその私に愛を注ぎなさいと言います。

なのでホ・オポノポノでは思考し、疑問を抱いたり、思考したり、質
問したり、決定したり、判断し行為したり、他者と自己を分離して見
ている私とはこの記憶であって「魂と繋がる私」ではありません。
といっています。


ラーマクリシュナはこの自我である私の観察者とは神の演技であり
私達、「魂と繋がっている私」には、この自我への支配権はないと
いっています。
この私達「魂と繋がっている私」が自分だと錯覚しているのは記憶
の反応であり、この記憶が思考し、行為しているのですと。

私達である神の子の私、鏡である私が鏡という意識に映る「我の心」
を自分だと錯覚してしまったのです。
その鏡に映る記憶の私・自我とは神の演技、神の使っているロボット
であり、神の映像であり、それらが私として行為し、思考し、考え苦し
んでいるのだというのです。
その記憶が自分自身を分割し見る者と見られるものとなっているのですと。

肉体に入り脳と結合した「魂と繋がる私」は、肉体と同一化し、脳に起こ
る思考や感情と同一化したがゆえにカルマを身に受け、そのプログラム
(カルマ)にしたがって起こっている出来事や行為を自分が思考し行為し
ていると錯覚し、その「魂と繋がる私」の錯覚がさらに思考を生みだし(
エレメンタルを生み出し)、行為を生み出してカルマを積み重ねて
いるのでありましょう。

脳の記憶からの受動思考や受動行為を知覚して、私達はそれを自分の思考や
行為だと錯覚し、錯覚したまま能動思考や能動行為を重ねエレメンタルを
生み出しているわけです。

私達である肉体に入り脳と結合した「たましいと繋がる私」は、この「神のロ
ボット・映像」を自分自身だと思い違いしているのです。

脳と結合した私達神の子は無明に覆われているので脳が受信する思考を自分だと
錯覚しているのです。