「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してや見ん」・黒住宗忠師
「見るものは見られるものである」・クリシュナムルティー
「汝はそれなり」・インド聖典
これらは、みな同じ事を言っております。
それは
「私はあなた」であり、「あなたは私」であり、「わたしは世界」だと言う
ことであります。
内側は外側であり、主体は客体であり、観察者は観察される者であると言
うのです。
以上の言葉は
世界では全く考えられないし誰も考えたことない自分自身に対する真実の
解答なのです。
それは
世界中の誰もが自分だと思っているこの私は私ではないと言うことであります。
この自分が自分だと思っている私は私ではなくて、実はわたしが脳と繋がり
脳によって生み出された記憶なのです。と
いま現在私が私だと思っている私とは脳が受信した思考の記憶の反応であると
仰っておられるのです。
私が非難している相手とはこの私自身の姿であるということ・・。
私が見ている戦争に明け暮れている世界とはこの私自身の姿であるということ・・。
私の敵とはこの私自身であるということ・・。
私が戦い滅ぼそうとしている悪魔とはこの私だと言うこと・・。
これは、とても誰にもとても受け入れられそうもありませんが
世界中の誰もが思ったことのない真実がここに開示されています。
「神の演技である私」「脳の創り出した私」の姿を観ているのが本当の私
だというのです。
世界中の誰もが一度も疑ったことのない自分自身、この自分が自分だと思っ
ている私は、私ではなくて「自我・我の心」「神の演技の私」だというの
です。
ですからその神の演技である「我の心」を、「鏡であるあなた」がハッ
キリと「この私は私ではない」と見なさい!と教えておられるわけです。
本当のあなたとは、鏡(空なる意識)なのですと教えておられるのです
これが真実であり、それが実相であると聖賢の方々は仰っております。
その教えによりますと
この私達である「鏡という意識」を覆っているのが神の演技である
無明の思考、脳からの記憶即ち自我であり、この私、人格の私ですと。
その記憶の私が「自他は分離している」「私はこの肉体だ」「私は目の
前の人ではない」「私は個人であって他人ではない」と自分自身と世界
を分離して知覚している、と言うのです。
神がカルマに従って肉体を動かし行為しているのに「私が自分の自由意
志で選択し行為している」とそのように知覚し認識しているのであると。
そしてその様に知覚する自我を使って神が演技しているというのです。
実際は自他は分離しておらず、最小の中に宇宙が有り、一つの細胞の中に
大宇宙があり、すべての中に全てが在るというのです。
ですから本当の私とは時空を超えた大宇宙そのものだというのです。しかし
この時空を超えている実相の姿は頭脳や思考では、全く理解することが出
来ません。
そして、その実相を全く理解することの出来ない知覚認識が全地球を覆い尽
くして、この現象世界とは迷いの世界になってしまっていると言うのであり
ます。
思考は自分自身のことを相手(鏡)に投影し見ているので、自分が非難し
ている相手、目の前の最悪の人間や敵である人々とは実は自分自身そのも
のの姿である、ということが全く分からないのだ。というのであります。
黒住宗忠師はこの自我という現象の自分自身のことを「神の子である本
当の私を覆う我の心」だと教えておられます。
そうして自我に覆われ自我の思考しか知覚出来ない私達は本当の現実と
いうことは全く分からず、自分を肉体と同一視して、脳が受信している
分離思考と一体化し、相手とは鏡であり、その鏡に映る相手とは自分自
身であるのに相手を非難し、評価し、比較したり、軽蔑したり、嫉妬し
たり、恨んだり、復讐したりしているのであります。
その非難している相手は私だと言うのに・・・。
自我の私には正しく知覚することが出来ないのです・・・・。
思考には、自分が見ている隣人とは自分自身の姿なのだと言うこと
は分からないのです。
思考には「見るものは見られるものである」という実相は理解し知覚
することが出来ないのです。
記憶には「わたしはあなた」と言うことは知覚出来ないのです。
思考である記憶(私)には正しく見ることが出来ないのです。
思考には自分を相手の鏡に投影して自分自身のことを他者・対象として知覚
し相手を非難することしか出来ないのです。
ですので
目の前の悪魔や、敵や、殺人鬼とは実は自分自身の姿であるのに、相手を
敵だと錯覚し、悪と戦うために聖戦を起こしたり、悪を撲滅しようとし、
変革しようとしているのです。
思考自我は自分自身を外部の対象として知覚し、自分自身を外部の世界や
宇宙として知覚しているというのです。実は世界や宇宙は自分を映してい
る鏡なのだと言うことです。
自我である私・思考は常に相手を利用し、世界を利用し、自然を搾取し、
神を利用し、自分の目的や願望を実現達成するために、努力しています。
自分が相手にどう思われているのかと、自分だけに関心があり相手のこと
には全く関心がない利己がその記憶である自己なのです。
私自我は相手を支配し利用するために「自分がどう思われているのか」
をいつも気に掛けて計算しています。常に相手のことではなくて自分のこと
だけに関心があるのです。自我は自己関心であり、本当は他者にはまったく
関心はないのです。だから関心があるかの如く振る舞うのです。
この無知という思考・自我・私は
自分自身とは相手なのに、世界とは自分自身の姿なのに、自分の利益
のために自分を変えようとしたり、相手を変えようとしたりしています。
世界とは自分を映している鏡なのに世界を悪から解放しようと努力して
います。
また自分の為に自分自身を改革し、修練し、悟りを開いて、第三の目を
開いて覚醒し正覚し、実相に至ろうとしています。
無知無明である思考は「知ろうとする私とは知らない私である」ことを
知ることがありません。「悟ろうとしている私は無明である」ことを知
りませんので「本当の私・ハイヤーセルフは愛であり、全てである」な
どということは全く想像すら出来ません。
しかし
「見るものは見られるものである」とき
「観察者は観察される者である」とき
「汝はそれであり」、「全ては一つ」であるとき
「私は世界である」とき
「内は外」である実相が
即ち「愛」が姿をそっと求めてもいないのに顕われていると言われ
教えられております。
この事をインドの聖哲ラーマクリシュナは異なる角度から
「私達は自我に対する何の支配権も持っていません」と教えておられます。
というのも「神が自我を使って演技しているから」と教えておられます。
この霊界や神界をも超えた高次元の目からは誰も思考や行為はしておらず
従って、その高次の超次元にはカルマはないと言うのであります。
悪魔も善人も悪人も神の演技であり、ラーマクリシュナの「自他の分離を
超えた目」には、悪魔や悪人や善人の姿は見えず悪魔や悪人や善人や隣人
や敵を演じている神の姿(実はそれを見ている神自身である)が見えてい
るというのであります。
私達・思考自我は自分の姿を内側に対象として知覚し恐怖や欲望と戦い
自分を変えようと常に努力しています。
自分の中の恐怖や暴力や自我とはそれを見ている自分自身の姿であること
が理解出来ないのです。自分の内部の自我を見ているのは自我なのです。
そしてその自我を観ているのが自我ではない観照者だというのです。
この自我である私は
あるがままをあるがままに受け容れることがありません。
私達は自分自身である欲情や暴力や恐怖や自我を内部で知覚し、自己を
変革し、悟りを開き、真我を実現し、愛溢れる人間になろうとして日夜努
力しているのですが、その「なろう」としている自分自身が、自我であ
り恐怖であり、無知であることを知らず、「なろう」「第三の目」を開
こう、「自己実現しよう」「悟りを開こう」と努力しているのだと教え
られています。
暴力が自分自身の中と、相手や、世界に暴力を知覚認識しているのです。
暴力だからこそ自分の中と世界に暴力を知覚認識しているわけです。
暴力だからこそ暴力から解放されたいと思っているのです。
暴力ではないものとは暴力がないので暴力から解放されたいとは思いません。
「なろうとすることは在ることから離れることである」
「成るのではなく既に在るのです」
とクリシュナムルティーは教えておられます。
その至ろう、成ろうとすることこそ無明の姿であると仰っておられるのです。
私達は自分ではないこれらの脳が生み出した思考の私を自分だと錯覚する
ことを止めなければならないのでありましょう。
私達は一霊四魂であり、神の子であり、「虚偽を虚偽である」と観ている
神の私なのです。